是非の初心
『能・清経』
ガーデニングの続きを書き込む予定だったが、ある写真家の事を昨日書いている間に、少し気持ちが変化した。
能に『初心忘るべからず』…という有名な言葉がある。
文字通りの意味にあり、世阿弥の残した言葉の中では比較的に分かりやすい。
この『初心』の意に『老後の初心』が含まれるらしい。
『老後』とは、まさに老境であり、未知の世界であるから『老いの初心』となる。
そこに行き着くまでは、『時々の初心』と青年から壮年期まで、そして『是非の初心』…まさに始まりの一歩の心持ち…常に、人は毎日が初心者であると考え、常に芸に怠らず…なのである。
私が初めて能楽写真を撮影したのは約十年前で、友人の初シテ能『清経』であり失敗が許されない最初の一歩であった。(初シテとは、能楽師が初めてシテ役で舞う最初の舞台)
まだ仕事用機材など手元にはなく、また突然の依頼であった。
使用した機材は、本当にリタイア寸前のカメラ一台・交換レンズ二本・フィルム二本。
今、思い返せば気持ちはだけは『初心に満ちた青年』であったように思う。
今でも『私はプロだ…』という言葉は使いたくない。
自らを写真家とは言わず『職人』という言葉で言い表す方もいるが、私の場合は当てはまらない。
職人と称するには、弟子として修行期間もなく、また師匠もいないからだ。
私は『初心者である』…ふと、気が付いた。『初心』で良いではないか。永遠に修行の旅…武者修行の浪人に等しく。
常に、対峙する舞台に『初心』であれば、無駄な気負いや自尊心もいらない…はずなのだ。
フリーカメラマン
写真機家サンダー平山氏が脳梗塞で亡くなっていた事を知った。享年55歳。
本名は平山真人、1980年代中期からカメラ雑誌のコラムを書いていたフリーカメラマン&ライターである。
カメラ機材に対する批評において独特の持論と見解を持ち、また独特の風貌も味わい深い、異風なカメラマンでもあった。
氏の著作は多いが、早くも絶版となったものが大方であるようだ。
当初、本名でライター活動をしていたところを、ある時期より『サンダー平山』と称し『写真機家』と名乗り始めた。
私が写真を開始した時期が、ちょうど平山氏がライター活動の絶頂期であったかも知れない。写真雑誌にて氏が受け持つコーナーへ、私は幾度か投稿し選ばれ、短いコメントも戴いた。
ところで、私のようなフリーの仕事は、どこへ行っても常に周囲からは孤独である。しかし、決して一人ではない。
その仕事を依頼してくれた人、自分の作品を購入してくださる方、様々な要素が絡んで『仕事』がやってくる。
見えない場所から支えられ、知らぬところで私は人を救う。
仕事とは、本来そういうものだ…と思っている。
自由な立場とは、社会に対して自らの見識だけが武器となる。
その見識が刃となり他者を鋭く批判したり、自らの孤高さが孤立と同義である事を忘れる。
また、一瞬でも狭い社会に安んずると、その世界だけ(身の回りだけが)が全てになってゆく。
平山氏は、数年前により病に倒れ活動中止となりメディアから姿を消した。
おそらく病に加えて失意であったと私は思う。
ライター(物書き)の神髄とは、未来を言い当てる予言者性質にある。その真価こそが作家や芸術家であれ、いわば生命線なのである。
その未来を見誤る場合…少しだけ作家としての不幸が始まる。不幸の幅が、どこまで広がるかは、自分が社会に対して自由であった事を、いかに解釈して活動したかで決まるようだ。
自由であるがゆえに、社会に組み込まれて生活する人々の思いをどう扱うのか。
デジタル時代の中でも、フィルムで撮影仕事をする写真家、携帯で日常を記録する女子高校生…写真文化は形を変えても人の手にあると。
その未来において瞑すべし…とすべきか。
多少の縁あって、氏の冥福を祈りたい。
ガーデニング 弐
バイクや車、あるいは模型などを組み立てる人なら知っての通り『パーツ屋』というものがある。
ガーデニングも同様で、ホームセンターの園芸庭木の売場に『全て』揃っている。それらを組み合わせれば和洋を問わず、あらゆう庭作りが誰にでも可能なのだ。
庭は本来、その家の住人が外に示す顔だと私は思う。
暖かい庭、明るい庭、厳格な庭、神経質な庭…様々だが、いかに表向きを繕い、幸せを演出しても、内実の本質は露呈する。
それが庭だ。
狭く小さなスペースでも、丁寧に庭木や下草を育てている庭は、心が行き届いていると思う。
そういう庭は、ささやかであっても美しく花が咲いているものだ。
雑誌などで特集が組まれ、自然を写した和庭が紹介されている。しかし、『自然』に見せる手法は、実は最も手を尽くした技巧が凝らされて、非自然かつ非人間的な冷酷さがある事は知られていないようだ。
遠近法を用いた庭木の配置、下草の管理、飛び石や砂利の手入れ。庭石を埋める場合の深さや位置。当然、『石』には裏表左右がある。これを間違えると全体が狂う。僅か一個の石が庭全体を支配したりする。
そういう『研鑽した遊び』が和庭の真意だと思う。
枝一つ、下草の乱れ隅にある小石の並びにも濁りを許さない。
この『自然』を見せるという無言の演出が、かえって饒舌であり冗漫さを禁じ得ない場合もある。
だから庭には『緩さ』が最も不可欠だと思う。人のおおらかさ、包容力が草木を育てる上でも必要となる。完成された庭木ではなくて、枝振りも中途半端な木や、店の片隅で半値で売られている花や下草を買って、初めから作り上げてゆく。
家の住人と草木が共に暮らしてゆく、そういう庭が一番に人を和ませるはずだ。
だが、そういう土臭さを我々は捨て去ってしまったようだ。


