ガーデニング 弐
バイクや車、あるいは模型などを組み立てる人なら知っての通り『パーツ屋』というものがある。
ガーデニングも同様で、ホームセンターの園芸庭木の売場に『全て』揃っている。それらを組み合わせれば和洋を問わず、あらゆう庭作りが誰にでも可能なのだ。
庭は本来、その家の住人が外に示す顔だと私は思う。
暖かい庭、明るい庭、厳格な庭、神経質な庭…様々だが、いかに表向きを繕い、幸せを演出しても、内実の本質は露呈する。
それが庭だ。
狭く小さなスペースでも、丁寧に庭木や下草を育てている庭は、心が行き届いていると思う。
そういう庭は、ささやかであっても美しく花が咲いているものだ。
雑誌などで特集が組まれ、自然を写した和庭が紹介されている。しかし、『自然』に見せる手法は、実は最も手を尽くした技巧が凝らされて、非自然かつ非人間的な冷酷さがある事は知られていないようだ。
遠近法を用いた庭木の配置、下草の管理、飛び石や砂利の手入れ。庭石を埋める場合の深さや位置。当然、『石』には裏表左右がある。これを間違えると全体が狂う。僅か一個の石が庭全体を支配したりする。
そういう『研鑽した遊び』が和庭の真意だと思う。
枝一つ、下草の乱れ隅にある小石の並びにも濁りを許さない。
この『自然』を見せるという無言の演出が、かえって饒舌であり冗漫さを禁じ得ない場合もある。
だから庭には『緩さ』が最も不可欠だと思う。人のおおらかさ、包容力が草木を育てる上でも必要となる。完成された庭木ではなくて、枝振りも中途半端な木や、店の片隅で半値で売られている花や下草を買って、初めから作り上げてゆく。
家の住人と草木が共に暮らしてゆく、そういう庭が一番に人を和ませるはずだ。
だが、そういう土臭さを我々は捨て去ってしまったようだ。
