写真は芸術ではないらしい
もうすぐ師走。
カメラの話の書き込みが続く。
先日、久しぶりに中野にある都内有数の有名中古カメラ店に行ってみた。
ジャンク館という『ジャンクカメラ専門店』があるくらい規模が大きい。
そして相変わらず(大抵が学生や会社帰りの男性)客でジャンク館は盛況であった。
ジャンクカメラの大半はフィルムカメラが主要を占める。
往年の名機も、せいぜい高くても一万円前後だ。ましてや、AE AF一眼レフなど千円が相場…かのイオスkissⅠ型が百~三百円には衝撃が走る(可動機を得るには自らの目利き要)
以下、延々とジャンクカメラについて語り尽くす事は省く。(…尽くせないのだ)
実は先日、この話を都内の居酒屋で隣にいた常連氏とした。フィルムによる撮影が、デジタル撮影に対して優位な利点など皆無な時代ではあるのだが。
我々の飲み屋話で得た結論は、機材選択肢としてフィルム撮影が必然の場合もあって良いのではないか…という事だった。
写真が記録である以上、記録として成立していれば機材が優先する場合は少ないのだ。また、記録写真<芸術写真という構図でもない。
写真作品とは、その撮影者自身の意識や行動哲学に拠る結果だと私は思っている。
大抵、名作として世に伝わる写真とは記録写真であっても、古典的名画と同様に、見事な色彩や構図を描いているものだ。
写真の原点は記録
現社会で生活の中にあるカメラとは、携帯の写メである…とした、昨夜の書き込みが拙速な展開であるのは否めない。
しかし、人は生活の記録としてカメラ付き携帯機能を多用している。
例えば、『家族の肖像』として、私の知人女性が携帯メールと合わせて添付してくる『子供の成長』は、全て携帯で撮影したものだ。
出産直後の彼女と愛児画像も携帯で撮影したらしい。
彼女は、いつでも手軽に取り出して実家の両親や友人等に画像を送信し、携帯の即時性という利点を生かしている。
写真の原点とは『記録』である…とするならば、家庭や生活記録の必携化した機能としてカメラ付き携帯が、常に手元には待機しており『記録画像』を撮影できるのだ。
いくらカメラや交換レンズ自体を軽量小型化して、パソコンと連結したりプリントアウト機能を早めても、カメラが手元になければ意味はない。
そして見落として、ならない要因がもう一つある。
子育てに多忙な母親達には、パソコンを立ち上げている時間、カメラ屋でプリント依頼する余裕などないッ!…という事だ。
『お母ちゃんが赤ん坊をおんぶして、八百屋の店先で写真を撮っていたよ…』とは、かってオリンパスペンが売り出された時に発信したコピーの一つだったと記憶する。


