HOODのブログ -30ページ目

老いの坂


最近、下半身や体が重い。

特に能の仕舞を舞う時だ。下居からシテ謡の後に立ち上がる。その所作がぐらつく。重心が不安定だ。実家に引き上げてからは、まともな稽古もしていない。困ったね、どうにも。

まぁ、素人とは、そんなもんだろ。加齢には勝てない。ずっと上達し続けたらオカシイよね。太るのも仕方ないし、物覚えも悪くなる一方だ。
でもさ、『一時間稽古したら十日分の効果があります!』そんなスピードラーニング能楽編なんてないかな。

まだ自分は上達できるはずだ…と明日を信じられるって一番に難しい。

心身がオッサン化すると、自分への諦めだけが人生の答えになるからね。

毬を蹴る

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実家のある北関東。日々、秋の寒さが忍び寄る。

古い風景を捨てるのは、当たり前のような感覚で近所の風景は変わり行く。

四月まで居住していた首都近郊の街は、少し郊外に出れば田園が広がる場所があって、水路で牛蛙が鳴いていた。春には桜が街中の軒に咲いている。


だが、今の私が眺めている風景は水田がアパートや宅地となり、里山は産廃場とゴルフ場が並ぶ。屋敷森は斬り倒されてしまい、特に寂しいのが春だ。近所に桜の木を探しても見当たらない。みな、家を新築した人々が桜の木を嫌うようになったからだ。

首都圏の方が、北関東の地方都市よりも自然は豊かではないか…という錯覚すら抱く。


道端に栗の毬が散乱している。雨の降る日、傘越しに梢を見上げながら…『あの栗、早く落ちてこないかな』と、心待にしたものだ。そうして栗を拾う戯れが、子供の季節感であった。

草蒸した栗林、切り株に再生した杉の若芽。名残を留める古い踏み切り、この風景も来年には宅地として再開発されてゆくだろう。

桜流し・宇多田ヒカル


久しぶりの歌番組。覚束ないテレビのHDに録画して深夜に鑑賞。

宇多田ヒカル『桜流し』、彼女には桜を主題とした楽曲は幾つかある。散る花を眺めながら、命の終わりと再生を思う。しかし、その思いには『死』がもたらす時間の流れ、生きるものが逃れられない無常の別れがある。


流れ行く先が暗闇であっても、そういう生き方がある。どうあっても、最後は等しい。

伝えたい言葉、伝わる言葉がある人は幸せなのだ…と私は思う。