HOODのブログ -23ページ目

ファルセータ


昨夜に引き続き夜中にジプシー音楽に浸る。

フラメンコギターを初めて知ったような状況だが、どうやら幾つかの旋律ラインを織り込みながら、同じ拍と伴奏が基盤となるようだ。それは、能で言えば『平ノリ拍子』に『上の詠』を歌い連ねたように歌と演奏が絡み合い、さらに主題の主旋律を笛が奏でて、大皮の掛け声が鋭く響く…ジプシー音楽を聞きながら、脳内で囃子に相似転換されてゆく。

渋い歌声は義太夫と表裏一体ではないのかと錯覚する程に、演奏と染み込む。

何かインスパイアさそうな気配もあるが…。彼らの音楽には土地の温度や匂いがあるんだな。

THE END ・THE DOORS


もう一枚買った。これも180円。

たぶん、廉価版だろうね。

THE・DOORSの企画モノ…特に映画『地獄の黙示録』に『THE END』は巧み挿入されていて、あの映画を見た者に与えた音楽・映像効果は強い印象がある。

この曲を改めて聞きたくて買った。

乾いた聲と呪術的とも聞こえるジム・モリソンのボーカルと歌詞は感覚的に、単にメジャー路線を歩む『ロック音楽』とは一線を引く。
作者は、ずっと後ろ向きに歩きつつ、先鋭に時代を切り抜いた視点があって、言わば『天才とは何人にも媚を売らない』…たぶん、そんな箴言に近い。


しかし、ネットを検索すると当時の時代を重ねて、退廃的に歌詞を捉えた文章が目立つ。だが、私は退廃的な気分に依って当曲を味わうのは早計だと思う。

人間は生きているからこそ、欲望や嫉妬があり、我々男ならば好きな女がいたら犯したいくらい暗い情熱を有する。心の奥に潜めた闇ではあるが、それは大方の人間が抱えて生きている世の習いだ。

その迷動からの救済が『死』であるとすると、肉体から魂の昇華こそが救いと考えてしまうだろう。

いや…そうではない。

死は誰にも平等にある。慌てて死ぬ必要もないし、誰かを救済と称して殺す事も、また違うのだ。


ヨハネの黙示録が、破滅と混沌こそが人間の常であるとしながら、その裏側に穏やかな世界が営まれていると訴えたように、例えばダンテの『神曲』も地獄の奥に潜ったら『天』に至る道であった…その解釈に、この曲は近いと思えた。

終わりが来るのは、魂が平等の証明なのだ。その日まで、穏やかに静かに争わず生きて行けないのだろうか。

もう一つ、巧みに効果的なのが、この曲の終章段に導くまでの構成だ。教会の天井に描かれた壮大で潔いフレスコ画を眺めるような美しさがある。

この歌詞を表面だけで、つまらぬ訳で解釈するのは間違いのもとだ。

やはり『天才は何人にも媚びない』…そこに尽きる。

ある夏の名演奏


近所のリサイクル屋にあった一枚180円のCD。

『ジプシーギターの至宝』フラメンコ・ギター、マニタス・デプラタ…とある。
趣味的には無縁なジャンルだが、フラメンコギターには不思議な縁が一つだけある。

十年前、上野の研究所で著名な研究者の原稿入力をしていた頃だ。その帰りに真夏の夕暮れ近い上野の森で、その科学博物館横にあるナガスクジラの実物模型の下で一人の男がギターを弾いていた。かなり巧みな演奏で、何とも言えない哀愁が込められていた。

私は缶コーヒーを買って、男から少し離れた位置で演奏を聞いていた。私の他に足を止める人はいない。彼は軽い練習気分で弾いているのだろうか。それでも、私を一瞥すると手を休めるわけでもなく、演奏を続ける。

しばらくして、私が立ち上がると彼は私を見て笑顔で手を振った…私も、『ありがとう、楽しかった』と告げた。

翌日。夕方の帰り道。クジラの下を通り掛かると、あの彼がいてギターを練習していた。私は小さく会釈すると、また少し離れた場所に座った。男は微笑みを浮かべ、全身で調子を整える演奏を始める。

夕暮れのひとときに聞いたフラメンコギターは闇に溶けてゆくクジラや博物館の建物と、ないまぜになって深い情緒を湛えていた。


後日、私は音楽雑誌に掲載されていた全紙広告で、あのクジラ下で出会った男がスペインギターの名手であり、かの国では人間国宝的なスターである事を知った。

別に著名な演奏者でなくとも、私は幸せな時間を楽しめたはずだが、なおさら卓越した演奏技術と彼の人柄があった事を再認識した。


上野を散策する度に、あの夏の夕暮れが懐かしい。