HOODのブログ -24ページ目

舞台撮影


二日より昨日まで都内で撮影仕事。ずっとファインダー越しに舞台を見ていたためか、帰宅してテレビを見ていても、脳内は画面の中で歌う山本彩にシャッターレリーズを繰り返す。

うん、ここで一枚。次のシーンは…レリーズ予測を勝手に開始していた。

ここまで来ると一種の病気に違いない。

意識が撮影に向かってしまっていて、ほとんど食欲はなく、夜はビール&ビールで過ごしていた。

胃は荒れて感覚を喪ったのだろう。初日の深夜は激痛であったが、二日目からは痛みは消え、平気でビールを注ぎ込む。

こうしてブログ記事を書いていても、まだ脳内は撮影中のようだ。

最終列車


最終列車…都会生活ならば駅のホームや階段を『終電に目指して走る…』たぶん、都内の人々は誰しもが一度くらいは経験している。深夜、午前の時刻を挟んで走る終電は、どこか明日への中間集約めいた雰囲気があった。あと数時間後には、また昨日と同じ朝が来るに違いない。

しかし、地方の幹線や私鉄は文字通り『最終列車』で、もしかすると乗客達を乗せたまま、帰らない旅へ走り去ってしまうのではないか。
一人、また一人と最終列車に揺られて、全く見知らぬ駅で降りて消えてしまう。

そういう空想が働く。
さっきまでは友人や家族で車内は一杯だったのに、いつしか自分一人しかいない。人生にも似て、最終列車は片道だけの旅、そういう旅愁がある。

窓の奥に夜景があって、ポツポツと街灯や家屋の灯りが見える。『ぁあ、あそこに誰かの生活があるんだな…』と灯りの下にある顔を想像する。

最終列車の車窓、暗闇に目を凝らして眺めている『変な中年男』充分に自覚はしているが、いわば妄想の渦中にあって下手な小説を読むより楽しい。どうせならば妄想の果て…だ。

出荷される芋達

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カメラを下げて街歩きをする。気に入った風景や街角を見つけたら、その場で動かずカメラを手にしたまま、十分以上は行き交う人々を眺める。そうして、撮影のリズムや流れが起きたらカメラを向ける。

最近、街頭スナップの撮影行為自体が盗撮・犯罪として疎まれる行為とされ、『撮影マナー』が叫ばれるようになった。

さらに都会に限らず、どこにいても街中には無数の監視カメラが設置され、日常を定点撮影される時代になった。それは無自覚な日常が常時、誰かに監視されている重圧感。

もう一つ。かの秋葉原刺殺事件の際、野次馬達が事件現場の動画や画像を携帯やスマホで撮影する光景があった。それは、現場の人々が抱いた困惑と恐怖の中に、第三者的な薄笑いを浮かべた撮影者達が報道カメラに映し出された。

この瞬間から『記録撮影』とは、興味本意に土足で割り込む侵入行為として見なされてしまったようだ。いや、そこまで教条的ではないかも知れない。

だが…写真からカメラ撮影による記録行為が制限され、公式機関によって許可された記録撮影のみとなれば、我々の時代は後世の人々に窮屈な表現しか発信しなくなるだろう。

街頭スナップや記録撮影には時に撮影者が自己の存在をかけて臨む必要もある。あるいは時代の空気や流行を留める作業として、社会の先端を眺める場合もある。

しかし、我々はスナップ撮影に対して『心の侵入者』として憎悪する感覚に支配され、『マナー』によって抑止を受けて行くのだろうか。撮影の自由という大義において、写真は後戻りは不可能なのかも知れない…と絶望的な印象すらある。