出荷される芋達 | HOODのブログ

出荷される芋達

mini_161025_13450001.jpg

カメラを下げて街歩きをする。気に入った風景や街角を見つけたら、その場で動かずカメラを手にしたまま、十分以上は行き交う人々を眺める。そうして、撮影のリズムや流れが起きたらカメラを向ける。

最近、街頭スナップの撮影行為自体が盗撮・犯罪として疎まれる行為とされ、『撮影マナー』が叫ばれるようになった。

さらに都会に限らず、どこにいても街中には無数の監視カメラが設置され、日常を定点撮影される時代になった。それは無自覚な日常が常時、誰かに監視されている重圧感。

もう一つ。かの秋葉原刺殺事件の際、野次馬達が事件現場の動画や画像を携帯やスマホで撮影する光景があった。それは、現場の人々が抱いた困惑と恐怖の中に、第三者的な薄笑いを浮かべた撮影者達が報道カメラに映し出された。

この瞬間から『記録撮影』とは、興味本意に土足で割り込む侵入行為として見なされてしまったようだ。いや、そこまで教条的ではないかも知れない。

だが…写真からカメラ撮影による記録行為が制限され、公式機関によって許可された記録撮影のみとなれば、我々の時代は後世の人々に窮屈な表現しか発信しなくなるだろう。

街頭スナップや記録撮影には時に撮影者が自己の存在をかけて臨む必要もある。あるいは時代の空気や流行を留める作業として、社会の先端を眺める場合もある。

しかし、我々はスナップ撮影に対して『心の侵入者』として憎悪する感覚に支配され、『マナー』によって抑止を受けて行くのだろうか。撮影の自由という大義において、写真は後戻りは不可能なのかも知れない…と絶望的な印象すらある。