ある夏の名演奏
近所のリサイクル屋にあった一枚180円のCD。
『ジプシーギターの至宝』フラメンコ・ギター、マニタス・デプラタ…とある。
趣味的には無縁なジャンルだが、フラメンコギターには不思議な縁が一つだけある。
十年前、上野の研究所で著名な研究者の原稿入力をしていた頃だ。その帰りに真夏の夕暮れ近い上野の森で、その科学博物館横にあるナガスクジラの実物模型の下で一人の男がギターを弾いていた。かなり巧みな演奏で、何とも言えない哀愁が込められていた。
私は缶コーヒーを買って、男から少し離れた位置で演奏を聞いていた。私の他に足を止める人はいない。彼は軽い練習気分で弾いているのだろうか。それでも、私を一瞥すると手を休めるわけでもなく、演奏を続ける。
しばらくして、私が立ち上がると彼は私を見て笑顔で手を振った…私も、『ありがとう、楽しかった』と告げた。
翌日。夕方の帰り道。クジラの下を通り掛かると、あの彼がいてギターを練習していた。私は小さく会釈すると、また少し離れた場所に座った。男は微笑みを浮かべ、全身で調子を整える演奏を始める。
夕暮れのひとときに聞いたフラメンコギターは闇に溶けてゆくクジラや博物館の建物と、ないまぜになって深い情緒を湛えていた。
後日、私は音楽雑誌に掲載されていた全紙広告で、あのクジラ下で出会った男がスペインギターの名手であり、かの国では人間国宝的なスターである事を知った。
別に著名な演奏者でなくとも、私は幸せな時間を楽しめたはずだが、なおさら卓越した演奏技術と彼の人柄があった事を再認識した。
上野を散策する度に、あの夏の夕暮れが懐かしい。
