HOODのブログ -194ページ目

推し…ヲタ愛3


近所のリサイクル屋を物色していたら古い六切りサイズの写真パネルがあった。

写真は四十年前くらいの北海道を走るD51737号機走行シーン。貨物列車を牽引して雪原を疾走している写真だ。写真には傷もあり価値は薄いのだが、携帯でネット検索してみると、この機関車は廃車解体されずに、貸与されて和歌山県内で静態保存されていた。
※かなり荒れ果てて哀れな状態で展示されている様子が記事にある。

写真というのは記録であり、現実を折り曲げてはならない。光などの演出はしても、時間や場所を偽装しては写真は記録という生命を失う。
私は写真家セバスチャン・サルガドが好きで、能楽もあのように撮影出来たら…など妄想と空想を重ねているが、いかにも現実は厳しい。

話を戻すと、パネルに残る現役時代の勇壮に大地を走る姿、保存され荒れ果てたスクラップ寸前のネット上にある姿、いずれも機関車D51737の記録と現実を伝える写真である。写真とは、そういう役目を果たす存在なのだと私は思う。

その意味を踏んで、話の展開を飛躍させてしまうのだが、反転させた写真の中に写る『峯岸みなみ』へ、私はリアルに反応してしまうわけであり、推しへのヲタ愛は断じて肯定して止まない。

しかし!…である。
反転した写真を『峯岸みなみの写真』として納得しているかと言えばかなり辛い。いや、写真として容認出来ない。おそらく本人は意外と気に入っているかもと推定するが…私の心は乱れる。ヲタ愛ゆえに♪…僕は苦しい…。

推し…ヲタ愛2



先日、『推し…ヲタ愛』など書き込んだら、リアルに面識のある方々からの反応。『この人、かなり暇なんだろうなぁ…』という眼差しが少し痛たかった。


さて、そう言えば(強引に話を変える)、最近の推しも含めて提供される写真に一つの特徴があるらしい。

考察1・自分の顔は鏡で見ているのが正しい顔なのか。


我々は鏡で見ている顔を自分の顔だ…と思っているが、それは一つの過ちに近い。鏡ではなく、写真に写し出されたの自分の顔、それが外に晒している真実の顔なのだ。むろん、写真には様々な修正やらレンズ特性が写真に影響はする点を考慮してだ。


鏡は反転しているので左右が逆…しかし、幼い頃から見知っている自分の顔は鏡の中にある。ゆえに、鏡に映る顔が好ましく思えても不思議はない。

そういう理由があるためなのか。推しである『峯岸みなみ』を見てみると、『反転』させた写真がある。他のメンバーを見ても散見できる。
これは、どうした事か。普通、写真関係者ならば間違いなくあり得ない仕業である。プロの作業ではない…とすると、メンバー自身がスマホのアプリなどを使用して反転させているのか。あるいは鏡に写った『自撮り写真』をアップしているのだろうか。※スマホについては私は詳細を知らず。


というわけで…拾ってきたみぃちゃんの写真を二枚貼りました。どちらが反転写真であるかは、推しならば即座にわかるはず…。

まな板


昨年、近所に咲いていた椿。暮れに区画整理で伐採されて今は跡形もない。後ろに見えるのが、愛用の『まな板』


夕方、帰宅途中のスーパーに立ち寄り買い出し。雛祭りセールで鮮魚売り場に蛤があったけど、体調も今一つ。夕食は簡単に済ませた。

自炊の後片付けで、まな板を洗う。

私は、まな板は木製でないと料理を作っている感覚が持てない。野菜を刻む際に包丁の刃先が板に止まったり、刺身などを引いた時など板と身の狭間に感じるさばき加減が、木でないと気分が悪い。

確かに、木のまな板は黒ずみが浮きやすく面倒ではあるけど、樹脂製にはない感触があって好きだ。


風呂を薪で焚いていた頃、親の手伝いで使えなくなったまな板を、鉈で割り薪にした。風呂罐で燃やすとパチパチと燃えて木の香りが漂う、あの瞬間は得難い心地好さ。

道具の使い始め、その最後までに起承転結が生活の中にあった。その辺りは、今と大分違う。どっちが良いという話ではなくて、後始末が自分で可能だった事は精神的に楽であったように思う。