HOODのブログ -143ページ目

撮影すること


撮影現場に密かに持ち込むコンパクトカメラ。カメラ記事のネタ作りでもあるが、一方で軽量のコンパクトカメラで撮影は不可能なのか。
いずれ撮影機材の重さに耐えられない年齢が来る。その意味も含めて実験的に撮影してみる。


大抵、ポケットやバックに一台は持ち歩く。舞台に限らず、街スナップも考えてみる。最近はスナップ撮影は心理的圧力があって難しい環境にある。風景としての現代社会が残せなくなりつつあるのだ。時代性を有する風景写真とは写り込む被写体の記号化への作業だ。私自身の比喩寓意もある。建物、看板、行き交う人々老若男女、すべてが点景と解釈も出来る。

今は若く美しい女性も、やがて老婆にとなる。それは未来の風景あると同時に、世阿弥が云うところの『時分の花』だ。ならばこそだ。撮影者には時代を残す義務と責任がある。
一般に写真家の人生、生き方とは個人の撮影領域という枠を軽く越えてしまい、ある意味で反社会的存在になりがちである。しかし、その立場は必要悪の場合もある。社会風刺は毒を持つ。耽美な美意識には禁断の性が潜む。舞台写真家は舞台記録者であるが、批評家の一面を必ず有するものだ。

批評を撮影した写真に取り込んではならないが、瞬時に選別する目がなくては舞台写真は残せない。
そこに写真家の個性があるとも言えるが、一方で屁理屈になる。


『乗り換え』
ジャンク上がりのデジカメで撮影。スマホに没頭する若い女性。慌ただしく乗り換えホームに立つ男性サラリーマン。

炒飯…弐


目光の天婦羅


私が自炊した炒飯は、どこか優しい味わいである。そして、日によって味付けに差が出る。不味い失敗はしないが、同じような味付けにはならない。毎日食べても飽きが来ない代わりに、再現が難しいのだ。

一方、街の炒飯はいつ食べても同じ味である。商売である以上は差があるはずはない。プロ仕事だから当然だろ…と納得、するかと言えば違う。料理に対する答えは簡単ではない。

街の炒飯は一回食べたら、次に食べるのは10日以上は日を開けたい。美味しいと感じるのだが『飽きる』…街の炒飯は必ず飽きるのだ。おそらく原因の一つに調味料の存在があるのは間違いないと思う。だが、街の炒飯を私も再現してみたい。そういう欲求もある。そこで様々に記事を探して実際に試してみた。


結論から述べれば、『味の素少々…』塩と組み合わせて調節すれば良い。目安はあるが、塩との関係性があるようだ。そうする事で(良い塩梅というヤツだ)、街の炒飯に近づいた味に作り上げる事に成功した。何回作っても差が出ない。同じような味になる。
しかも、あの嫌悪感すら感じる『炒飯に飽きが来ない!』これは有り難い。特に実家で両親に料理を作る場合、非常に助かる。

『えっ、結局はお前の料理自慢かい?』まぁね…それも否定はしない。


味の素。料理における万能薬に近いんだろうな。私が使うのは炒飯の時だけと決めたけど、ちょいと『誘惑する白い粉』ではある。

炒飯


家にいて、さて昼飯は何にしようか…そういう時に大抵迷わず作れるのが、昨夜のご飯を使って炒飯だ。

溶き卵、刻み葱、適当な具(シラス干し、明太子、豚肉、など余り物)、塩、胡麻を適当に組み合わせる。

ご飯を暖めて、熱したフライパンに溶き卵…あとは一般の料理記事にある通り。私もそれと大差はない。

しかし、私には料理に臨む際に問題が一つあった。それは調味料の使用だった。

強烈なアトピー体質を抱えているため、何に反応するかは私自身予測がつかない場合もある。

そういう状況下で、自炊の場合は可能な限り食材料を主体とした味付けを続けてきた。そこから自分なりの調理法も身に付けたが、一方で街の食堂の味付けも捨てがたい。その一つが炒飯である。『チャーハン、と餃子、あとビール!』街角にある夕暮れの食堂では、よく見かける風景だ。


しかし、炒飯とは日本式中華であって、中華料理にあらず。
店の余り物(ゴミに等しき食材のクズ)を使って炒めてご飯に混ぜる料理だ。あれを注文して食べる行為は中華料理への冒涜である…と云う。
この様な意見は幾人かの料理人から直に見聞した。

確かに炒飯しか注文しない客が多いのだろう。店はチャーハンとギョーザを出していれば良い…と言われているような気分にもなる。

そうは言っても、私も炒飯が好きなのだ。メニューにあれば『ご飯食べたいなぁ』…何より、ご飯主体の国民性もあるのだ。一種の混ぜご飯に近い扱いなのだろう。

そして、街の炒飯には調味料の存在が不可欠である。調味料で組み立てられた料理だと思っている。