撮影すること
撮影現場に密かに持ち込むコンパクトカメラ。カメラ記事のネタ作りでもあるが、一方で軽量のコンパクトカメラで撮影は不可能なのか。
いずれ撮影機材の重さに耐えられない年齢が来る。その意味も含めて実験的に撮影してみる。
大抵、ポケットやバックに一台は持ち歩く。舞台に限らず、街スナップも考えてみる。最近はスナップ撮影は心理的圧力があって難しい環境にある。風景としての現代社会が残せなくなりつつあるのだ。時代性を有する風景写真とは写り込む被写体の記号化への作業だ。私自身の比喩寓意もある。建物、看板、行き交う人々老若男女、すべてが点景と解釈も出来る。
今は若く美しい女性も、やがて老婆にとなる。それは未来の風景あると同時に、世阿弥が云うところの『時分の花』だ。ならばこそだ。撮影者には時代を残す義務と責任がある。
一般に写真家の人生、生き方とは個人の撮影領域という枠を軽く越えてしまい、ある意味で反社会的存在になりがちである。しかし、その立場は必要悪の場合もある。社会風刺は毒を持つ。耽美な美意識には禁断の性が潜む。舞台写真家は舞台記録者であるが、批評家の一面を必ず有するものだ。
批評を撮影した写真に取り込んではならないが、瞬時に選別する目がなくては舞台写真は残せない。
そこに写真家の個性があるとも言えるが、一方で屁理屈になる。
『乗り換え』
ジャンク上がりのデジカメで撮影。スマホに没頭する若い女性。慌ただしく乗り換えホームに立つ男性サラリーマン。
