HOODのブログ -121ページ目

砂のように崩れてバラバラになる。

写真家大竹省二氏死去。

写真とは芸術であり、写真家が作家・芸術家と呼称された時代に生きた一人。
撮影機材は高価であり、フィルムによる表現は撮影からプリントに至るまでプロの技術が必要であった。

そして大竹氏の功績と言えば、日本では一部の作家しか撮影を成していなかったヌード写真に市民権を与え、いかなる女性であっても、女の肉体とは記号ではなく言語である事をメディア・テレビを通じて知らしめた事だ。


今、写真はパソコンやスマホの中にある記録媒体による電子信号に変わった。映像ソフトによる表現は多岐に渡るが、それはプログラムにおける表現だ。そして、誰もが撮影できる。


何よりヌード写真という存在自体が、あまりに陳腐なカテゴリーとなりつつある。モデル自身、一人の女性でも多様な機材やソフトを駆使して、自らの裸体を表現し作品化する事が可能になった。そこに、かっての『男性視点』はない。愛し合う恋人との姿ですら、女性と男性が存在するだけの記録写真となるだけだ。

私は女性に精神的肉体と時間論的肉体があると思っている。
その相克こそが、女性自体の本質なのだろう…と勝手に解釈している。

大竹氏も含めて当時の写真家達は、『女性の肉体』を通じての社会論、写真家の未来に一塵ほども不安など抱いていなかったはずだ。ゆえに被写体が自立補完しつつ自らを撮影する時代の到来を予測していたのか疑問がある。

しかも、自律型電子頭脳の発展によって写真は他者の目による記録ですらなくなりつつある。そこに撮影者自体は不要であり、不要と認識された写真はデータと消去されようとしている。

写真がデジタル化されて即時性、同時代性に依りすぎた結果であると言えるし、将来に絵画や陶芸と同じく写真作家は肉体性を維持してゆけるのか。もし相克が女性にあるのならば、同様に写真家にも相克があるべきなのに、人間を写しながら人間を忘れてしまったのではあるまいか。そこに大竹氏を含め我が国の写真作家の限界を見る。

私はサルガドのように作家が被写体に沿い、苦難があっても被写体と歩む作品こそ、未来に続く写真であっと欲しいと願う。

能で軽いネタ振り


予習のため取り出した観世流大成版五番綴…並ぶ演目が何気に重いのだな…特に真ん中の老女能『檜垣』が、凄く重たくて本を開くのも辛い。
『檜垣』は、私が師匠に習う事はないだろうし、人前で謡う事もありえないな。
真に老人の孤独を陰影深く描いた『木賊(とくさ)』や老女能『姨捨』『檜垣』は、役者の経験を積み上げた玄人専用曲だと見る。老女能とは能楽においての完成形の一つだと思う。演技や作品論としても到達点と言えるかも知れない。


老婆が回想する若き日の世界。老いの恥辱、若さの恥じらいが混然一体となってゆく。私は、それが『女性の精神的肉体と時間的肉体』の相剋だと思う。そして、それこそが年齢に関係なく幼女から老婆まで変わることない『女の本質』だと思っている。

極端な例を引けば、今から六十年後の未来の『峯岸みなみ』に会いに行き、サインして貰い握手して…推しとヲタが互いに若い時代を懐かしむ。下世話過ぎるとも思うが、そこで『みいちゃん』の可憐な儚さを味わう。

それが老女能。


あまりに酷い説明だ。

あんな下品な娘達の集まりと能楽を一緒にするな!…と、お怒りの方々もあろう。でもね、私は『みぃちゃん』が婆さんになった時に、回想の中で『純クレ』を歌うシーンなんて、まさに能だよなぁ…と妄想してしまうんだな。


気分だけ地雷を踏んだらさようなら


昨日は舞台補助の仕事。昼から雨は上がり、割りと過ごしやすくなった。


今日は朝から雨模様。出先にはEOS850を下げて行くが、意識が仕事に向いていたためレリーズしていない…単にカメラが重たいだけだ。


これから表参道に移動。


ぼろいフィルムカメラ下げている中年男性がいたら、それは私です。

ちょっと『戦場カメラマン』的に演出。
写り込んだ水筒だけは実際に自衛隊で使われていた物。友人から記念に頂いた大切な品。