砂のように崩れてバラバラになる。
写真家大竹省二氏死去。
写真とは芸術であり、写真家が作家・芸術家と呼称された時代に生きた一人。
撮影機材は高価であり、フィルムによる表現は撮影からプリントに至るまでプロの技術が必要であった。
そして大竹氏の功績と言えば、日本では一部の作家しか撮影を成していなかったヌード写真に市民権を与え、いかなる女性であっても、女の肉体とは記号ではなく言語である事をメディア・テレビを通じて知らしめた事だ。
今、写真はパソコンやスマホの中にある記録媒体による電子信号に変わった。映像ソフトによる表現は多岐に渡るが、それはプログラムにおける表現だ。そして、誰もが撮影できる。
何よりヌード写真という存在自体が、あまりに陳腐なカテゴリーとなりつつある。モデル自身、一人の女性でも多様な機材やソフトを駆使して、自らの裸体を表現し作品化する事が可能になった。そこに、かっての『男性視点』はない。愛し合う恋人との姿ですら、女性と男性が存在するだけの記録写真となるだけだ。
私は女性に精神的肉体と時間論的肉体があると思っている。
その相克こそが、女性自体の本質なのだろう…と勝手に解釈している。
大竹氏も含めて当時の写真家達は、『女性の肉体』を通じての社会論、写真家の未来に一塵ほども不安など抱いていなかったはずだ。ゆえに被写体が自立補完しつつ自らを撮影する時代の到来を予測していたのか疑問がある。
しかも、自律型電子頭脳の発展によって写真は他者の目による記録ですらなくなりつつある。そこに撮影者自体は不要であり、不要と認識された写真はデータと消去されようとしている。
写真がデジタル化されて即時性、同時代性に依りすぎた結果であると言えるし、将来に絵画や陶芸と同じく写真作家は肉体性を維持してゆけるのか。もし相克が女性にあるのならば、同様に写真家にも相克があるべきなのに、人間を写しながら人間を忘れてしまったのではあるまいか。そこに大竹氏を含め我が国の写真作家の限界を見る。
私はサルガドのように作家が被写体に沿い、苦難があっても被写体と歩む作品こそ、未来に続く写真であっと欲しいと願う。
写真とは芸術であり、写真家が作家・芸術家と呼称された時代に生きた一人。
撮影機材は高価であり、フィルムによる表現は撮影からプリントに至るまでプロの技術が必要であった。
そして大竹氏の功績と言えば、日本では一部の作家しか撮影を成していなかったヌード写真に市民権を与え、いかなる女性であっても、女の肉体とは記号ではなく言語である事をメディア・テレビを通じて知らしめた事だ。
今、写真はパソコンやスマホの中にある記録媒体による電子信号に変わった。映像ソフトによる表現は多岐に渡るが、それはプログラムにおける表現だ。そして、誰もが撮影できる。
何よりヌード写真という存在自体が、あまりに陳腐なカテゴリーとなりつつある。モデル自身、一人の女性でも多様な機材やソフトを駆使して、自らの裸体を表現し作品化する事が可能になった。そこに、かっての『男性視点』はない。愛し合う恋人との姿ですら、女性と男性が存在するだけの記録写真となるだけだ。
私は女性に精神的肉体と時間論的肉体があると思っている。
その相克こそが、女性自体の本質なのだろう…と勝手に解釈している。
大竹氏も含めて当時の写真家達は、『女性の肉体』を通じての社会論、写真家の未来に一塵ほども不安など抱いていなかったはずだ。ゆえに被写体が自立補完しつつ自らを撮影する時代の到来を予測していたのか疑問がある。
しかも、自律型電子頭脳の発展によって写真は他者の目による記録ですらなくなりつつある。そこに撮影者自体は不要であり、不要と認識された写真はデータと消去されようとしている。
写真がデジタル化されて即時性、同時代性に依りすぎた結果であると言えるし、将来に絵画や陶芸と同じく写真作家は肉体性を維持してゆけるのか。もし相克が女性にあるのならば、同様に写真家にも相克があるべきなのに、人間を写しながら人間を忘れてしまったのではあるまいか。そこに大竹氏を含め我が国の写真作家の限界を見る。
私はサルガドのように作家が被写体に沿い、苦難があっても被写体と歩む作品こそ、未来に続く写真であっと欲しいと願う。