ミカエルの聖なるラインと名古屋 / 第4話
今日の記事を読まれると、何故、日光東照宮に天海僧正が関わっているのかや、何故、名古屋の市章が丸八なのかが見えて来ます。
是非、最後までお読み下さい。
前の記事では、モンサンミシェルから延びた南北のラインの北端オークニ(スコットランド)の意味・シャチから名古屋城のシャチ、そして、出雲、白山へ繋げて紐解いて来ました。
それは、イノシシに乗る仏法の守護神、摩利支天から始まり、名古屋の中心部を南北に通る伏見通りが8度北から傾いている事に気が付いてから始まりました。
もし、私の推測通りであれば、名古屋城建設時に行われた「清州越し」に、重要なヒントが有るのではと思ったのです。
ここまでの紐解きは、私に現れる不思議な出来事が絡んでいました。
だから、私+徳川+清州越し+日置を絡めて考えて行きます。
その前に、前の記事で取り上げた六角形の出雲の神紋と「名古屋城の北」と繋がるものが白山の他にも名古屋城には有るのです。
【名古屋城に何故?】
名古屋城へ訪れた事はありますか?
以前に訪れた時、何故?と思った事が2つ有りました。
その一つが、
城の北園に置かれた石棺でした。
これは、島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、古墳時代後期の出雲地方の独特の横穴式石室です。
ここでも、「北に出雲」です。
このような場違いの物が、何故あるのでしょう?
城の意味と関係ない物を置くとは考えにくいですね。
古墳時代の石棺の特徴は、信仰の対象に向けられているのなら、
名古屋城が、白山に向けられている事と重なるのです。
偶然としては出来すぎですね。
シャチで知られる名古屋城と大国主の出雲、モンサンミシェルからの北にあるシャチを語源とした石室の多く有るオークニ遺跡へ導く謎解きのアイテムとして置かれたのでしょうか?
私には、この謎を解いてみろと言わんばかりに見えます。
これが置かれている理由は、名古屋城が、第二次世界大戦で爆弾を落とされ炎上し、石材も被害を受け、再建するのに、石材の寄付を訴えた時、名古屋の古美術商が持っていた、この石棺を寄贈したと言うものです。
石棺は黄泉の国への入り口なのでしょうか?
黄泉の女王の白山を北の中央に見えるように城を配置し、白山の菊理姫が、古事記に一度だけ登場する出雲の黄泉比良坂へ導き、その前で生まれた長男の嫁へ導くもななのでしょうか?
2つめの何故は、
城内に飾られた文化財の多くが、「木子氏」からの寄贈と書かれているのに気付いた事です。
それは、高校の同級生の木子君がいたからで、彼の親は、名古屋で名の知れた店を経営していました。
良く、私も学校帰りに木子君に誘われ訪れていました。
だから、家の方には行ったことは無かったのです。
この店、私の父の店の隣なのです。
不思議な事に、父は、名古屋城が出来た時の初代藩主、徳川義直の墓(建中寺)の北隣りで生まれたのです。
卒業して数年後の正月、「易」の名の友人宅に年始の挨拶で訪問した時、直ぐ前の家の玄関を掃除している木子君がいて、声を掛けると、親の家とのこと。
彼と、名古屋城へ寄贈した方との繋がりは、同じ名前と言うだけで、繋がりは本人に連絡取れないので断定はできませんが、あまり見かけない名前なので、私の中では繋がりが有るものと思っています。
一つ目の何故は、近代になってからの出来事で、偶然か、人為的なものなのか曖昧ですが、石棺と言った場違いな物から、わざと置いたと私は思うのです。
2つ目は、明らかに偶然であり、私の思い込みかも知れません。
しかし、次の八角堂の事はどう捉えれば良いのでしょう。
【全てに繋がる八角堂】
清須越しの時、徳川家康が名古屋の町の守護として、菅原道真を祀る羽島の天満宮(京都北野天満宮勧請)の別当である寺を日置村(現、名古屋市中区大須)に持って来させました。
日置一族が、菅原姓を持つからの縁だと思われます。
羽島の桑原の大須から移転して来た事から、その場所、日置村を「大須」としたのです。
大須の言葉の意味は、今で言う「パワースポット」です。
日置一族が中心になって、この不思議な施しを埋めたと私は考えています。
この施しは、日置神社から西の地域にも見られる事からもそう思うのです。
日置神社から西の黄金地区にある愛知町(泉が湧くと言う意味)へ向かうと、猿の橋があり、東にはウサギの橋が在った事と、その猿の橋の西にある西宮神社に魔物伝説が有ることから、猿で結界を張った様にも私には映ります。
その黄金地区には、古くから安井一族が住み、その地を、整えているのではと根拠もなく思うのです。
そう思うのには、幾つものここでは書けない我が家との繋がりもあるからです。
安井の名前の由来は「易い(やすい)」からとされ、日置の「易」に繋がるのです。
「易」の名を800年も守り続けている、小学校からの友人の素性も言い当てたのも、この場所からでした。
私は忘れていました。
「易」に関わるものを。
八角堂です。
「八角」は、易に通じます。
不思議なお堂です。
清須越しの時に、初代尾張徳川藩主、徳川義直が、清須にあった六角堂を壊し、その材を使い、名古屋城内に八角堂を建てたのです。
前の記事で載せた名古屋城の画像を写した場所(二の丸)に在りました。
それは、今、名古屋城には無く、伏見から西へ1Kmほどの所のお寺に在ります。
今のお堂には、弘法大師が祀られています。
公開される日が決まっているので、行かれる方はお尋ねになることをお勧めします。
とても変わった庭があり、
私が興味を引かれた物がありました。
地面に瓦で幾何学模様が描かれていたのです。
前の記事では、白山と、出雲が関わっていると書きました。
白山と、出雲の神紋は、六角の亀甲紋でした。
何故、義直は、六角堂を、八角にしたのでしょう。
六角形の紋の白山と、出雲、日置に繋がる謎解きを施したのでしょうか?
不思議なことに、以前、八角堂のお寺がお客様で、公開日でもない日に見せていただきました。
またまた偶然なのか、その八角堂の前の店に、三輪の叔母さんの家を売却し、叔母さんの家は、その店の支店になっています。
この場所と、叔母さんの不思議な事は何度も書いてきて、読者の方はご存知かと思いますが、ミカエルの特徴を持つ孫ともに、不思議な繋がりがあったのです。
そして、その叔母さんの家が在った場所は「亀島」と言いました。
亀甲紋、熱田神宮の蓬莱信仰の亀と重なります。
八角堂の在る地域に叔母さんが昔、働いていて、私が子供の頃、その地の白蛇を祀る神社に叔母さんが連れて行ってくれたのを今でも覚えています。
叔母さんが亡くなる2日前に、我が家の玄関に弱った蛇かトグロを巻いている事があったのも、叔母さんがヘビ歳で、三輪の守護宮(大神神社)がヘビで知られる事もそうですが、この神社とも関わっていたように感じるのです。
そして、大須には、数少ない大神神社もあるのです。
長男も、八角堂と縁があるようで、ここでは書けませんが、それを書くと、おそらく驚かれると思います。
八角とは占いを表します。
日置に繋がるのです。
占いと言えば、長男が小学校の頃、この八角堂を名古屋城に持ってきた徳川義直の霊廟(建中寺)の直ぐ裏に住む占い師に、妻が家族の事を占ってもらいました。
この長男が二十歳になった時、海外へ行くと言ってくるから止めないようにと言われ、本当に二十歳になった時、海外へ行くと言ってきました。
この話は、子供達には伝えていなかったのにです。
驚きました。
その準備として大阪へ行き、そのまま大阪でバイトしていた会社に残りました。
そして、結婚相手を連れて名古屋に戻って来たのです。
その相手が、白山の神が、古事記で一度だけ登場した黄泉比良坂の前で生まれた女性でした。
偶然なのか、この占い師の場所は、父の生まれた場所だったので、深い縁を感じました。
そして、建中寺の名前も、長男に結びつくのです。
また、その子供も、見事に結びついているのです。(秘密)
八角は、占いを意味しますが、角というのは
角度の意味を持ちます。
つまり「八度」を表します。
私の「八十八夜」。
私に関わる伏見通りの「八度の傾き」。
私が中学校で作らされた菊の字の中にも「八十八」が潜み、
尾張初代藩主徳川義直と繋がる「八角堂」。
そして、名古屋の市章が丸八なのも、私はどっぷり「八」の中にいるようです。
私の中では、名古屋城は、徳川家康の日光東照宮を、猿の山王信仰と、三輪の大神神社に守られている天台宗の天海僧正に造らせたように、
徳川家康は、名古屋の山王にある日置神社の日置部に造らせたと思っています。
それは、先週放送された「どうする家康」の中に出て来た家康が肌身離さず懐に入れていた「摩利支天」が教えてくれました。
このレイラインの話も日置神社隣の摩利支天のお寺を訪れた事からスタートしたからです。
これらの不思議な繋がりは、何を意味しているのでしょう?
第5話では、その核心について考えて見ます。