NBO69~1周回って逆に良し~ -11ページ目

ゆびきられげんまん

「約束」とは「罰」へのフラグであろうか?





支援の現場のみならず、子育ての場でもよく聞かれる、「○○する約束でしょ!」という叱責、言ってる方は正しい事を言ってるつもりなのだろうが、言われている方は大抵、腑に落ちない。落ちないが、なぜ落ちないのかが自分でもよくわからないから反論できない。ただうつむくのみである。


すると追い討ちがくる。


「悪いのはだれ?」


反論できない人間に追い討ちをかけるとは卑怯千万、残酷極まりない行いであるが、言ってる方は正しいと思っているし、言われている方も自分は間違っていないという理由を自身で見出せない。結論は出ている。


「ごめんなさい」


不貞腐れながら。



・・・予想できる更なる追い討ちについては省くが、これはどういうことだろう。「約束」とはなんなのであろうか。




自分は子どもの頃、どうしても「朝ピアノの練習をする」という「約束」を守れなかった。


毎日怒られていた。


自分はピアノはともかく、「ピアノの練習」というのが大嫌いだった。


もともと嫌いだったのか、嫌いになってしまったのか。


ともかく腑に落ちなかった。


母が怒る理由は「約束を破ったから」なのであるが、今思えば横暴である。


ピアノの練習そのものが嫌な自分としては、「約束」を守ることで発生するメリットが何一つ無いのである。


あるとすれば、「練習すれば怒られずに済む」ということであるが、そんなもん、初めからその「約束」が無ければ、怒られるも怒られないも無いのである。もちろん「ピアノが上手になる」というメリットもあろうが、嫌いになっては意味がないし、嫌々やって上手くなるものでもない。



母の言う「約束」とは「法」のようなものであった。一方的に決められ、破れば「罰」を受ける。ただそれだけのものだった。子どもにとってはストレス以外の何でもない。



「約束」とは「交わす」ものだ。「利益」を「交換」するものだ。


「○○してあげるから、△△してね」 「○○してほしいから、△△します」


というものだ。


「働いたら給料を出します」


これが「約束」。


「働かなければ罰を与えます」


これは「約束」ではない。ていうかこれじゃ奴隷ですな。




「奴隷」と言ったが、冗談ではなく、これに近いことをしていないだろうか?


利用者さんが、あるいは子どもが嫌がることを、「約束」として押し付けていないだろうか?


「出来るようになれば本人のためになる」というのは理由にならない。


本人が「出来るようになりたい」と思っているなら、多少のスパルタもいいかもしれないが。




改めて言うが、「ピアノが好き」とは、これっぽちも思っていない子に練習を強いてもやるわけがない。苦痛でしかない。


改めて言うが、甲子園にもプロにもまったく興味が無い子に、千本ノックしたって仕様が無い。拷問でしかない。


・・・あ、これは言ってないか。







夏ですなー。

優しさなんて

自分で言うのもなんだが、優しい人だとよく言われる。


一方で意地悪だともよく言われる。


どちらも本当だと思う。


なんせ人間には色々な面がある。


・・・というのもあるが、それ以前に、「優しさ」というものに、色々種類があるのだと思う。



・己の強さ・立場・大きさを誇示するための優しさ。・・・「偉い」と言われたい、ナルシストタイプ。


・自分の居場所を守るための優しさ。・・・家族を取ったら何も残らないような、依存タイプ。


・優しくされたいが故の優しさ。・・・傷つくのを怖れる、臆病タイプ。


・責任を負うのを避けるための優しさ。・・・敵を作ると面倒だから本音を言わない、イエスマンタイプ。


・自分を卑下するため自己犠牲的優しさ。・・・「自分なんて」の裏返しで人を立てる、自虐タイプ。


・・・とかね。


かなり否定的に書いちゃったけど、大切なのは、なぜ「優しさ」という概念がこの社会にはあって、必要とされているかってことであり、「優しさ」というもが「本当に」あるのか否かというところではない。




なぜ「優しさ」というものがあるのか、必要なのか。


・・・それは、誰も1人では生きられないからだ


と自分は考えている。


単純と言えば単純だ。特にひねりの無い話だ。


ただ事実は事実であろう。


誰もが自分を一番大事に思っている。しかし1人で生きられない。だから誰もが必要とあれば優しくなるし、そうでないときは意地悪になったりする。「両方ある」のではない。根本は一つなのだ。自己愛だ。


要は「優しさ」とは本能ではなく社会性なのだ。




福祉の仕事は「優しさ」が大事なようなイメージがある。「優しさ」で仕事をしているように見られたりする。


しかし長く現場で働いている者ならわかると思うが、現場においては福祉の仕事とは「優しさ」よりも「我慢」である。そういうイメージが強くある。


前述した通り「優しさ」とは社会性である。社会性とは「あなたがこうするから私もこうする」というものである。実も蓋も無い言い方をすれば、見返りを期待できない相手に、あるいは環境で、「優しく」あるというのはとても難しい。


重度の知的障害者から見返りを求めるのは難しい。笑顔があったり、甘えてきてくれたりすれば、それだけでも「優しく」なれたりするのだが、それすらも無い人もいる。そういう人に対しては、どうしても「我慢」で接することになったりする。


次第に「優しさ」で接することのできない自分にイライラしてくる。そうするとまた「優しさ」が削られる。悪循環。



どうすればいいのか?



いけないのは1対1になることである。見返りの期待できない相手と2人っきりになることである。


なら2人以上で接すればいい。要は、支援する相手以外に見返りを与えてくれる人がいればいいのである。


・・・何が言いたいかと言うと、「みんなで協力して支援して、誉め合え」ということだ。


キレイ事を言っているのではない。これはシステムの話である。


誉めてくれる人がいれば、人は「優しく」なれる。そういう風に「できている」のである。





虐待は密室で行われる。それは人が見ていないから好き勝手できるということではない。人が見ていないということは、見返りが無いということだからだ。


1人で障害児を育てているお母さん・・・1人で痴呆の親を観ている子ども・・・追い詰められるのは見返りが無いからだ。




個人の人間性に頼るのには限界がある。この世に「聖人」などいない。


福祉が「優しい」仕事であるためには、自分を、人間を、社会を知り、そこにシステムを嵌め込む必要がある。「優しい」人を集めただけでは「優しい」仕事はできないのである。残念ながら。






ちなみに自分は典型的なナルシストタイプである。よくわかってるでしょ?


あー、自慢するとこじゃないって?

手引きの手引き

福祉の仕事をしていると「手をつなぐ」「手を引く」という行動を、毎日数え切れないくらいする。


子育てしていたり、保育所などで働いていてもそうだと思う。・・・この話はそういう人にも参考になるかもしれない。



「手を引く」というのは、実は結構力加減が難しい。


強すぎると肩が抜けてしまう。


とかそういうことではない。


転ばないように、とかそういう話でもない。・・・いや、それも大事だが、今回はそういう話ではない。



まず、「手を引く」には、相手の手を掴まなければならない。


この行動がまず問題なのである。


人が人の手を掴むときとは、どういうときか?


握手をするときを抜かすと、大きく分けて2通りある。



①導く・教える


②捕まえる・抑える



この2通り。同じ行動なのにずいぶん意味合いが違う。



ではどうすれば①になるのか? どういうところで②になるのか?・・・やってることは同じだが?


これはもちろん気持ちの問題が大きい。優しい気持ちで掴めば①であろう。そうでなければ②になるかもしれない。


しかし気持ちの問題で済むのは、あくまでお互いの「関係」ができている場合に限る。一方的な気持ちでは、「つもり」でしかない。一方的な気持ちだけでは、「導こうとしたつもり」が、「抑えられた」と思われてしまったりする。



難しい。



で、最初に言った「力加減」の話になる。


掴んだ、つないだ、その手を引く「力加減」如何で、①のつもりが②になるし、②を①にすることもできる。ちょっとの力の差で、「こちらへどうぞ」が「こっちに来い!」になってしまう。引き方ってのは、すごく重要なのである。







以前自分が中学校で相談員をやっていたとき、ある生徒が授業をサボって廊下を走り回っていた。


そいつはサボりの常習で、相談室の常連だった。自分によくなついていた。・・・そのときはそう思っていた。


自分は授業に出ないならとりあえず相談室に入れと言った。


そいつはやだねと言って、笑いながら逃げようとした。


自分はちょっとイラっとしてそいつの手首を掴んだ。そして引いた。そんなに力を込めたつもりはなかった。


瞬間、そいつは敵意をむき出しにして叫んだ。「離せよ!」


自分はハッとして手を離した。そしてその一瞬で、色んなことに気付いた。気付かされた。


・・・こいつはイイカゲンなわけじゃない。物凄く繊細なヤツなんだ。


・・・こいつは大人をただ馬鹿にしているんじゃない。常に「この大人は味方か、敵か」と不安に満ちた目で観察しているんだ。


・・・自分はこいつに話を聞いてほしくて手を掴んだ。しかし本当は押さえつけようとしていたんだ。ただ「言うことを聞かそう」したんだ。他の馬鹿な教師と同じように、大人の「力」で子どもをコントロールしようとしたんだ。・・・こいつは、それを反射的に見抜いたんだ。



ただの「手を引く」という単純な行動が、ここまで深い問題に発展してしまった。



ちなみにその生徒は次の日には笑顔で相談室にやってきてくれた。素直な子だったのと、ある程度「関係」ができていたのが救いだった。赴任直後だったら、二度と口をきいてもくれなかっただろう。







重度の知的障害者の支援の場合、「離せよ!」と言える人はほとんどいないわけで、この辺とても気付きにくい。


しかしいきなり硬直したり、なかなか前に進んでくれなかったりする事は多いと思う。


まあそれは「気に入っている支援員と手をつなぎたい」だとか、単純に「今はここにいたい」というサインの場合も多いわけだが、こちらの手を引く力の加減で、「不安」にさせたり「不快」にさせていることもまた多いと思うのだ。


特に力の弱い女性や高齢者はそうだ。手を引く力、握る力、歩く歩幅・スピード、真横を歩くか、少し前を歩くか、逆に後ろを付いていくような感じか・・・という小さな違いで、反応が変わる。もちろん人それぞれ違う。



利用者さんを「動かす」のが上手いと、「仕事ができる」と見られるようなところが、施設にはある。


一理あるが、危うい。・・・勘違いするやつもいるだろう。



大事なのは相手の目で自分を見る力である。手を引くということに限らず、自分のやっていることが、相手にはどう見えているのか、どう感じられているのか、それを想像する力である。


しかし、常に相手の目になるのは難しい。自分なぞ、まだまだだ。





件の生徒は話の2年後にバイクの事故で死んだ。教訓はより深く心に刻まれた。きっと「忘れるな」と言うことだ。


しかしそれでも実践は難しい。短気の自分は利用者さんを急かし、同僚を急かし、・・・結果抵抗を受けたり反感を買ったりしている。



せっかく手を差し伸べるところまで出来ても、つないだ手を「グイっ」と無作法に引いたのでは、元も子もない。

使える実習生

うちの施設には毎年たくさんの実習生が来る。20人くらいかな。もちろん一度にではなく、2人ずつとかで順番に。福祉か保育の専門学校の、女の子が多い。


毎回、「今度来る子はカワイイかな」とオジサン達はちょっとワクワクしている。


自分もワクワクしてなくもなくなくないかもしれな・・・・・・・・・・・・してます。してますよ。・・・悪い?




問題はカワイイ・カワイくないではない。そこは置いとく。置いといて。




支援員の中に、「今回の実習生は使える」「使えない」というようなことを言う人達がいる。


これが頭にくる。呆れるを通り越して怒りを感じる。


使えてたまるか。


そう思う。


我々の仕事とは、そんなに簡単なものなのだろうか。何も知らない人間が来ていきなりできるものなのだろうか。


これは侮辱とも言える。あるいはあまりにも理解が足りないのかもしれない。・・・自分の仕事に対して。



「なんでできないの?」と思うその気持ちはわかる。言っている人にすれば「誰でもできるような仕事を選んで頼んだのに」という感じなのだと思う。


しかし例えば、「ちょっとこの人見てて」だとか「一緒にトイレ行ってあげて」だとかいう「なんでもない指示」を、実習生がどう受け止めるか、ちゃんと考えてみてほしい。


「ちょっと見てる」というのはどの程度のことを言うのか? もし部屋から出て行こうとしたら止めるべきなのか、後ろから付いていって見守るだけでいいのか、それとも自由にさせてあげるべきなのか、一時的に目を放してでも支援員を呼びにいくべきなのか?


「一緒にトイレに行く」というのはどの程度のことを言うのか? トイレの外で待つべきなのか、扉の前で待つべきなのか、一緒に入るべきなのか、清拭してあげるべきなのか、それ以前に同姓とはいえ、プロではない、実習生が、堂々と人の下半身を見てよいのだろうか?


真面目な子ほど、悩むだろう。できなくて当然なのである。




こういう話をすると、いやいや、それ以前に態度が悪いんだよ。それにわからないなら聞けばいいのに、ただ突っ立ってるんだよ。


という人が必ずいる。



実習生ってのはまだ、「社会人としての自覚」だとか「仕事をしている意識」だとかいうものを持っていない。


だって社会人じゃないんだもんよ。


・・・ていうか自分だってそういう意識をちゃんと持てるようになったのは最近だ。実習生なんぞが「高い意識」を持ってたら困るわ。何者だお前。って感じ。



実習生がダメダメなのは当然なのである。むしろダメダメなやつほどウェルカムなのだ。そうであるべきなのだ。


そういうやつに「プロってのはこういうものなんだぜ」というのを見せてあげるのが、実習なのだ。そういう「プロの姿勢」を見て学ぶのが、実習生の実習する目的なのだ。


それを「使える」だの「使えない」だの・・・・・・アホか。



確かに人にものを教えるのは難しい。特に福祉の仕事なんぞをしている人にはシャイで臆病で社交的でないのが多いから尚更だ。・・・自分もあまり人のことは言えないが。


ただでさえ忙しいのに、利用者さんだけでなく、実習生まで見るのは大変である。「教える」ってのが苦手な支援員なら、愚痴の一つも言いたくなるかもしれない。



しかし、後進を育てるのは大事な仕事の一つである。


いや、むしろ最も大切なことであると言ってもいいかもしれない。


何十人を支援する施設において、1人の支援員の力など、たかが知れている。


自分1人がレベルアップしたところで、それが即「いい支援」につながるということはない。


結局施設全体の、しいては「福祉」全体の底上げが必要なのだ。簡単に言えば「みんなでがんばろう」だ。・・・まあこれは福祉に限った話ではないだろうが。


「協力し合う」「苦手な所を補い合う」「育て合う」ということをせずに、ただ自分のみ「できるやつ」であろうとする人間は、組織の中にあっては、むしろ邪魔だ。足手まといだ。


まあ1人で10人ぶんくらいの働きができるっていうのなら、文句言えないけどね。・・・ただ、それでも実習生を捕まえて「使える」「使えない」言うのはアホだ。プロではない。



もちろん、カワイイ実習生がなかなか来ないからといってがっかりしているようなのも、プロじゃあない。ひでぶ。

「モンペ」の正体見たり…

教育・保育・福祉と渡り歩いてきた。・・・まあ、ちょっとずつだけど。


「人を見る」「人を預かる」「人に教える」・・・なんとおこがましいことをやっているのだろうか。


そう思う。そう思うべきだと、思う。


対して「預ける」側の保護者はこちらを「先生」と呼び、過剰な期待をしたりする。


「預かる」側はそれを受け止めなければならない。


「先生」という仕事は、こうした二律背反的な思いを常に抱えながら働いている。いるべきである。まあこれがとてもとても難しい話なのだが。




施設の支援員は「先生」ではない。しかし保護者から見れば、養護学校の延長みたいなもんで、当然のように「先生、先生」と言ってきたりする。「見てもらっている」「預かってもらっている」という気持ちなのだ。


そうするとやはり過剰な期待というやつも出てくるわけで、中には無理難題を言ってくる人もいる。


学校で言うところのモンスターペアレントだ。



例えば、利用者さんが家でできないことを、施設でできるようにしてほしいという要求がある。


無理とは決め付けられないにしても、難題である。


施設は集団生活である。家庭という「マンツーマン」で援助できる状況でできないことを、子どもならまだしも、大人になってから施設で覚えるというのは、とても難しい。


しかし保護者からすれば、こういうのは「当然」の要求なのである。


なぜなら、施設の支援員というのは、「先生」であり、その道の「プロ」だからである。


「プロなんだからできるでしょ?」


・・・できませんとは言えませんな。





保護者を批判するのは簡単だが、そこに好転する要素は無い。


面倒な保護者を「モンスターペアレント」と名付けたところで、問題の本質はますます見えづらくなるばかりである。


冷静に見れば、「お化け」も「枯れ尾花」だったりする。


実際、保護者の要求は、そのほとんどがたった一つの理由に起因している。


「うちの子をちゃんと見てほしい」


非常にシンプルな理由ではないか。





ただ、学校と違って、福祉施設に子どもを預ける保護者の心理は、もうちょっと、複雑だったりする。


どの保護者も多かれ少なかれ、「本当は自分がちゃんと見てあげるべきなのだが・・・」という思いを持っている。


中には施設に色々押し付けて逃げる保護者もいる。しかし、「逃げる」ということは罪悪感を持っているのである。



普通なら大人になったら自立する子どもを、一生世話しなければならない・・・。我が子とはいえ、理不尽であろう。


しかし、「でもやはりそこは親なのだから」とも思ったりするわけで・・・・・・保護者は「先生」以上に重い二律背反を、常に抱えているのだ。




だから、である。保護者は多少我侭を言ってもいいと思うし、支援員はその我侭に付き合うべきだと思う。


「あくまで利用者を支援するのが支援員だ」という人もいるが、それは狭い考え方だと思う。


利用者のために、その保護者のために、そして最終的には地域の、社会のために・・・というのが、「福祉」というものの本来の形なのだから。




まあまた重っ苦しい話になってしまったが、要は保護者の愚痴を聞くだけでも、それが結果として社会のためになっていたりするわけで・・・・・・愚痴ぐらい聞いてあげましょうよ。多少の我侭くらい聞くだけ聞いてあげましょうよ。実際できるかできないかは別にしてね。


というお話。

ということで

このブログで書くことは福祉の話題だけにします。


もう過去のこととか、趣味的なこととか、そういうのはなんだかよくなった。出し切って満足したのだ。多分。書きたいときは人のブログにコメントするわ。あるいはMIXIのコミュにコメントするわ。


ただ文章そのものは趣味的な書き方を続けると思う。書くことを楽しみたいから。読むほうもその方がいいと思うし。




まあそのうちまた方向性変わるかもしれないけど。


「俺解散。方向性の違いで。」


みたいな感じで。なんだそりゃ。


とにかく色々いるから、中に。

笑うは鬼か魔か

夏には魔物がいるらしいが自分は出会った事が未だ嘗て無い。




明日の午前の活動はプールである。晴れれば。予報を見れば微妙である。・・・またか。


毎年あるイベントなのに、一度も行った事が無い。いつも雨天なのだ。魔的に。


いいかげん行っておかないと・・・来年は5年目である。



「○○さんはプールの時、どんな感じですか? 何を注意したらいいですか?」


「わかりませぬ」


「5年もいてわからないんですか」


と言われてしまうかもしれない、来年。


来年が、怖い。





ちなみに明日、午後の活動はとうもろこし狩りである。晴れれば。これもまだ一度も行っていない。



「とうもろこしを『狩る』ってどういうことですか? むしろ『刈る』でいいんじゃないんですか?」


「わかりませぬ」


「5年もいてわからないんですか」


やはり来年が怖ろしいのである。

虐待!

普段より我慢しているのである。それがたまたま口に出てしまったのである。


「そりゃ虐待ですよ」


言われた方はたまったもんじゃないだろう。言ったほうもびっくりである。ああしまった。





知的障害者の支援業務というものは、マニュアルが有るようで無いのが実際である。何が虐待かどこからが虐待か、百人に問えば百様である。法律はある。しかし現場ではなかなか実践し難い。子ども扱いするなだとか、「○○しないと××できなくなるよ」というような言い方をしてはいけないだとか・・・・・・そんなもの一々守っていたら事が進まない。



・・・と、現場の人の多くは言う。



言い訳である。ちゃんと実践している人に、自分は会ったことがある。否定的な言葉を使わずに、支援はできる。




今の職場に就職して4年、仕事に慣れてきたせいか、あるいは広報誌作りで客観的な目線で職場のことを書き続けてきたせいか、「麻痺」していた部分が、敏感さを取り戻しつつある。今までの自分を省みて「いかんなあ」と思うと共に、他の職員の利用者さんに対する言動が、無意識に目に耳に入ってくる。


「あんたが悪いことしたからいけないんでしょ」


「どうして言うこと聞けないの」


・・・とってもイライラする。「悪いこと」って何? そういう障害だろ? 何のために「支援員」がいるの? 何で言うこと聞かないといけないの? どういう上下関係? ・・・いちいちイライラしてしまう。


「飴と鞭」という言葉を盾に、堂々と利用者さんを叱り飛ばす人もいる。何様であろうか。「鞭」を持つ資格など、我々はもらっていない。



ただ、たまには引きずってでも動かさないといけない時もある。押さえつけてでも止めないといけないときもある。「危険」のわからない方に対しては、そういう事もある。


だが、恥じるべきなのである。力ずくでないと動かせない、止められない、そんな自分の支援のレベルを。・・・「しょうがないじゃん」と開き直って支援が上手くなるのか? 利用者さんが幸せになるのか?




言ってやりたいが言えない。言ってもたぶんわからない。でも本当は言うべきか? もし言うなら優しく言うべき。よし言おう。優しく、優しく。



「虐待ですよ★」



・・・もうアホである。怒るに決まっている。超反省。

こだわり

「くつしたー」


と言い続けること三時間。靴下はちゃんと揃っているのである。何を探しているのかさっぱりわからない。


このようなことは珍しくないが、今回は原因がわからない。パンツもあるし、サンダルもあるし、コップもあるし、タオルもあるし・・・なんだろう?


洗濯物をひっくりかえし、タンスも全員のを調べた。その間も「彼」は叫び続けている。真夜中である。


「くつしたー」


興奮しながら自分の後を付いてくる。百キロの巨体である。これ以上興奮させると怖い。


「彼」は典型的な「こだわりの強い自閉」である。ちょっとでも「いつもと違うこと」があるとこうなる。



結局原因はわからなかった。・・・ではどのように「彼」を納得させたのか?


実は何もしていない。もう日が替わる・・・という時間になったら、何事もなかったかのように、布団に入って寝てくれたのである。


流石に疲れたのか? 眠気には勝てなかったのか? 実は勘違いで、そのことに気付いたのか? 「こだわり」はどこいったの?



・・・自閉と言えど、いつもいつもパターン通りではないのである。100%一本道ではないのである。


なぜなら人間だからである。気分もあるし、周囲の影響も受ける。


当たり前の事だが、支援する側も「慣れ」でやっていると、それこそ自閉的になる。色々決め付けがちになる。柔軟性が無くなる。


障害者だって一人一人違うし、一日一日違う。

障害・障碍・障がい

なにやら二日続けて障害者のことを書いたせいで、それ関係の人やら、障害児のお母さんだとかが何人も見に来てくれているようで、なんというか気が引き締まるというか、「やべえ、ちゃんと書こう」とか思ったり、思わなかったり。


・・・正直言うと自分の記事で傷ついた人がいるのではなかろうかとちょっと心配している。



例えば「自閉」「精神」「知的」・・・こういう略し方は当人やその保護者的には嫌だと思う。こちらとしては専門用語的に使ってるだけなんだけどね。


もっと言えば「障害」というのがもう嫌かもね。最近結構ウルサイもんね。「障がい」にしろだとか「障碍」が正しいだとか。


「障碍」って・・・・・・それ読めねえよ普通。どんだけ一般から切り離すつもりだよまったく。



自分は職場の広報誌を担当していて、そこでは「障がい」と書いてますよ。ものすごい気を付けてますよ、その辺。


でもこういうところで本音を書く場合、そういう建前はギリギリまで削ぎ落としたい。というか、むしろ敢えてキワドイ書き方をしたりもする。


人に「伝える」というのは、すごく大変なことだ。広報を編集するようになってから、以前に増してそう思うようになった。


わかりやすく書かないといけない。でも、差し障りの無い言葉ってのは「力」がないから、心に残らない。


単純な話だ。例えば女の子からこう言われたとしよう。


1、「好き」


2、「嫌い」


どちらの言葉が信用できる? 信憑性がある?


もう一つ。例えば何かに悩んでいる時、苦しんでいる時言われた一言。


1、「がんばって」


2、「死ね」


どっちが心の奥まで届く?


まあ自閉をよく知る人なら、こんな喩えしなくてもわかるだろう。差し障りの無い言葉と攻撃的な言葉、どっちが頭に残るか・・・ってね。



良い子な文章は、伝わらないんよ。説得力がなくなっちゃうんよ。それじゃ意味がないんよ。


もちろん誰も傷つけないような文章で、多くの人に伝えたいことを伝えられるのなら、それに越したことはないけどね。


言葉って奥が深いのよ。


自分の言葉で人を傷つけてしまうかもしれない。怖いね。


だけどそれがきっかけで議論が始まるかもしれないし・・・・・・それならそれは有益なことだよね。



日本では福祉に関しての議論がぜーんぜんなされていない。みんな行政に文句言うだけでね。


文句言うだけじゃダメだよね。自分がどう障害と向き合うかっていう、「足元」の部分も、ちゃんと考えなきゃ議論しなきゃ。文句言うだけなら、2ちゃんの偏見差別に満ちたカキコの方が、よっぽど社会にとって意味がある。・・・たぶん。



あー、なんだか話が逸れそうなのでここまでにしよう。





そのうち「障害」に代わる言葉が生まれて、そして定着するなら、それが一番いいね。


でも今は無理だ。「障がい」ねえ。逆に「害」だけをピックアップして強調しちゃってるような気がするけどねえ。「障害」二文字で一つの意味なのにねえ。


まあしょうがないね。「障害」はまだいいとして、「障害者」という言葉は、確かに言葉としておかしいもんねえ。実際はどちらかというと「被障害者」だもんねえ。代えられるもんなら代えた方がいいねえ。でも今は無理だ。



というわけで、他の語が浸透するまでは「障害」と書くと思う。プライベートでは、だけど。