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教育・保育・福祉・・・といった仕事の現場に、上下関係はいらないと思っている。若手だろうがベテランだろうが、やることは同じだし、明確な「答え」が無い仕事だから「マスター」は存在しない。むしろ「慣れ」でやるのは危険な仕事だから、ベテランほど危うかったり。
それに子どもや障害者は、職員間の力関係を敏感に感じ取っていたりする。
3才くらいの子でも先生に対して「臨職のくせに」みたいなことを言ったりする(もちろん臨職なんて言葉は使わないが)。恐ろしい。先輩にヘコヘコしているところなんかを見せたら、間違いなくナメられるねー。
自分も「ナメられないよう」に、普段から結構気を遣っている。歩き方から声のトーンから。最初の職場が中学校だったから、その辺の意識は強い。まあ人に言わせると、もともと所作がおっさんクサイみたいだから、そんなにがんばんなくてもいいみたいだが・・・。
利用者さんに対する姿勢だけでなく、職員間においても、意識している。
言うべき事を言うべき時に言い合えるような関係を周りと作るためにも、普段から自分の意見は先輩相手でもズケズケ言っている。もちろん会議に出たらなるべく発言することにしている。・・・べつに発言しない人を批判するつもりはない。まったくない。ただ自分はあくまで「修行」みたいな感覚で、「会議出て黙ってるなんて給料泥棒だぜ」と自分に言い聞かせている。まあ単純に、「生意気」で済むうちに、言えることは言って、批判されるべきところはされといたほうがよいのではなかろうかと。そんな感じ。
世間的に立場が「下」のうちは難しくないのだ。根性さえあればやっていける。
問題は「上」になっちゃった時だ。
うちの職場では、「法人の職員としてはうん十年だけど、この施設は初めてでよくわかりません」というようなベテランが、入って数年の若造班長(これ自分)と組まされたりする。これが難しい。
ベテランはプライドを捨てきれないし、若造はその辺を上手く気遣えない。お互いナメられたくなかったり、逆に変な気の使い合いしちゃったり。「年齢も経験年数も関係ないじゃん」とはいかない。・・・職員の上下関係なんて、支援される側の利用者さんには無価値な事なのにねー。めんどくさ。
・・・まあプライド捨てるなんて、よっぽどでなきゃできないさね。その辺は北風と太陽よろしく、上手にくすぐってあげた方がうまくいくんだろうね。
「上」だの「下」だの、「デキる」だの「デキない」だの、そんなもんいらないって言ったって消えやしない。結局はうまく誤魔化し誤魔化し、渡っていくしかないんだろうねー。
自ずから由らざれば自由ならず
知的障害者にも自由を。
選択の自由。
買い物の自由。
恋愛の自由。
しかし月並みなことを言えば、自由には責任が伴う。
Aを選べばBを得られない。
買い物をすればお金が減る。
恋愛をすれば傷付く。
これらは絶対であり、避けては通れない。
どこまで自身の胸で受け止められるのか。
どこまで責任を持てるのか。
あるいは支援員が責任を持つか?
それでいいのか?
与えられた自由など自由ではない。
「自由を与える」などということは出来ない。
こと「自由」という概念を持たない人間に対しては。
・・・それはまた「幸福」にも言え、「平等」や「平和」にも言えること。
要は過剰な期待は禁物なのだ。
今出来る事をする。それが大事なのだ。サイコロの目は常に「1」で構わないのだ。
我々の仕事に明るく拓けた未来など、たぶん無い。
ただ暗闇の中の小さな光を、日々拾い集め続けるのみだ。
うーん、・・・なんて素敵な表現☆
いや、でも、そう思えば、「前に進んでるんだかどうだか判らないような日々」ってヤツも、なんだかそんなに悪くなさそうな感じじゃない?
おっさんホイホイ
ニコニコ動画における「おっさんホイホイ」に引っ掛かる自分は、片脚を「おっさん」に、もう一方の脚を「オタク」に、突っ込んでいるのかそれとももう両方に両脚なのかそうなのか。
うちの職場は35歳前後が多い。
その世代はもう世代的に否応無しに機動戦士色をしているのであり、
あるいは金銀胴と言えば五輪ではなしに聖衣であり、
もしうちの職場の隅に「おっさんホイホイ」を仕掛けようものなら、
そりゃもうわさわさと、
わさわさと、超人ホイホイが如くに。
そんなんだからゲーマーも多く、
実は今度PSP買って主任等と「狩りしようぜ」という話に。
今オークションで安いの見付けて競り中。
本来は仕事の話で盛り上がるべきだが、
まあ仲が良いに越したこたあない。
利用者さんの中にも「おっさんホイホイ」に掛かりそうな人は多い。
特にアニソンになると熱い。
そんな話題になるともうほんとに「友達」である。
「友達」であるのがプロとして良いのか悪いのかはともかく、
おっさんスキルにオタクスキル、持ってて損は無い。無駄では無い。
人生何事も「使いよう」なのだろう。
「あなたとは違うんです」
知的障害者とは己を客観視することがほとんど出来ない人のことだとも言えるが、
「健常者」とて完全に己を知っているわけではない。
完全に知るなど不可能だ。
己とは不変ではないからだ。
また己のみが己でもない。
もし完全に己を客観視できる者があるとしたら、
その者が見ているものは「絶望」に違いない。
あるいは「無」か。
客観視の出来ない知的障害者の世界とは子どもの世界であり、
犯されざる世界である。
それは楽園とも言える(色々と困ることも多いだろうが・・・)。
同情は、お門違い。
「絶望」の一端を垣間見ただけの「健常者」が何をか笑う。
笑ってる時点で「違い」など無きに等しい。
異論があるなら「幸福だ」と叫んでみろ。
それこそ世界の中心で。
中心が分かればの話だが。
新型鬱(うつ)病
今、「新型鬱」が喧しい。
今更である。
喧騒の中身を覗くと、だいたい「病気だ」「いやそんなもん病気じゃない」
という感じである。
今更である。
うちの職場にもこんな感じの人がいたし、前の職場にもいたし、その前の職場にもいたし。
大体にして鬱そのものが理解されていない。
「職場でだけなる」「自分でなく他人を責める」・・・そんなこと書かれたら余計理解されない。
鬱の人と接するのに慣れていない人には、「人間性」と「病気」を別にして考えるということが難しいようだ。
「わがままだから病気じゃない」
これでは話がめちゃくちゃである。
「わがまま」と「鬱」は別の問題である。「わがまま且つ鬱」もいるし、そうでない鬱もいる。
また、結果症状が「わがまま」だからといって、それが「病気」であることを否定する理由にはならない。
人間は日々色々な刺激を受けながら生活している。
鬱病だとか、パニック障害になるということは、その刺激を受ける「受け皿」に「ヒビ」が入るということである。入院レベルの重度の鬱は「割れた」状態であろう。
「受け皿」の大きさは人それぞれであろう。「ヒビ」の入りやすさも人それぞれであろう。「ヒビ」が入ってから「割れる」までの長さも人それぞれであろう。そして、素通りした刺激に対して「どのように痛がるか」も人それぞれであろう。
・・・と言ってもわからない人はわからないんだろうなあ。
福祉の現場には鬱が多いそうだ。直接他人と触れ合う仕事だし、思い通りにいかないのが常だし、「耐える」という場面が多いし、待遇も極端に悪い(うちはかなりいい方だが)。まあ当然だろう。
しかしそれでもあまり理解されていない。外で遊んでる姿なぞ見られた日には終わりである。「サボり」決定である。
福祉の現場でこうだから、企業では風当たりはもっと強いだろう。
教室の扉の前で震える子を見たことがある。
家ではなんともないのである。外でも遊べるのである。学校に来ると、ダメなのである。
さて問題。何が悪いのでしょうか?
学校が悪いのか? 本人が悪いのか? 家庭が悪いのか? 社会が悪いのか? それとも「学校サボって外で遊んでいる」ということが悪いのか?
原因なんてどうでもいいし、症状だってどうでもいい。だって他人事だもんさ。
みんなして他人の事とやかく言うから、みんなして鬱になるんだ。
何十年働く間の一年や二年、長期休暇取ったっていいじゃねえか。勝手じゃねえか。
うちの利用者さん達なんか、一生会社休んでるようなもんだ。それでも日々苦楽があって、出会い別れがあって、なんか頑張ったりして、とにかく生きてるんだ。なんか文句あるか?
サボりならサボりでもいいじゃん。・・・そのくらいに思わないと、次に鬱になるのは自分だと思うよー。
しんたい
こんなニュース がありました。
事件そのものについてあーだこーだ言うのは避ける。誰もが言うことだろうから。
ここで注目するのは「しんたい」という言葉である。
言うまでもなく「しんたい」とは「身体障害者」の略である。
で、被害者はというと、「知的障害者」である。
ごっちゃなのである。
少なくともこのガキどもにとっては「知的」も「身体」も同じなのである。
「自分等と違う」
それだけなのである。それ以上の情報は持っていないし、興味も無いのだ。
実は自分も小学生の頃は障害者を「しんたい」と言っていた。
自分はというか、みんな言っていた。
これは地方で違ったり、世代で違ったりするようなのだが、少なくとも自分等の小学校では、その頃はみんなそう言っていた。
要は教育がなされていなかったのだ。
その頃から20年である。
何も変わっていないのだなあ。
と思ったわけだ。
他の地方、他の世代だとどうなのだろう。誰か調べてないかな?
ネットでは「知的」「知障」が普通に多いかな。2ちゃん用語だと「池沼」とかあるね。
いずれにしても、もうちっとイメージのよい呼称は無いかね。
呼び方の違いで差別はなくならないという意見もあるだろう。
そりゃそうだ。
しかし差別は無知ゆえに起こるわけで・・・・・・知的障害者を「しんたい」と呼ぶ、その「知らなさ加減」は半端じゃないよね。
まず最低限、そういう呼称を使うガキがいなくなる程度の教育はしてほしい。
まず、そこからだろうね。
俺とダルビッシュの如何ともし難い距離
盆にかえらないのはこぼれた水だけではない。
テレビではダルビッシュが炎上しているが、ビール飲みながら応援している暇は無い。ただ蒸し暑さのみ、会場と共有している。
夏休みだろうがオリンピックだろうが、そんなものは関係ない。仕事である。
そして自分が仕事をしているということは、利用者さんが施設に残っているということである。実に半数いる。
かわいそうだと思う反面、保護者に対して「盆くらいゆっくり休んで」という思いもある。複雑である。何にせよ我々が励む他無い。
利用者さんをバタバタと追いかけながら、目の端で中継を盗み見る。代わった成瀬がまた打たれている。
北京は遠い――。隣国からの映像が、とても遠く遠く感じる。
ただこんな時期のこんな時間に、あんた等も俺等もがんばるねえと、そこだけ近しく思ったり思わなかったり。
コラボ
今年の職員バンドは、利用者さんとの「コラボレーション」だった。
普段コンサートなどで発表するのが難しい人たちに、「人に見てもらう場」を提供しようという試み。施設の夏まつりの1コーナーということで観客は関係者のみだが、それでも大変だった。そういうメンバーだったのだ。
結果は全員参加という予想外の大成功。内容はどうでもいい。参加できたことに意義がある。そういうメンバーだったのだ。
新しいことをするのは難しい。大量のエネルギーを要する。
何より知的障害者に対して「がんばろう」と言うことそれ自体が批判の対象になったりする。人前に出ようとなればなおさらである。障害者支援、こと自閉傾向のある人を支援する場合、いかに「いつも通り」の環境を作るかが、我々の「仕事」の主となる。単純に考えると「行事」というものはそれに反する。
「一見楽しそうだが、リスクに見合うものを得られるのか?」
・・・それが「行事」を否定する側の意見である。
そういう批判を覚悟してやらなければならない。利用者さんだけでなく、こちらに掛かるリスクも大きい。
しかし、やればみんな出来るのである(もちろん本人達の力だけでは出来ない。今回も多くの職員が協力してくれたから出来た)。結果論ではない。やる力はみんな持っているのである。単純に、やらないのはもったいない。やれば楽しみが増えるかもしれないのに。
本人達は何もしなくても幸せなのかもしれない。「いつも通り」で全然文句無いのかもしれない。「より人間らしい生活をさせてあげたい」とかそういうのは、こちらの勝手な思いなのかもしれない。
しかし、少なくとも保護者は嬉しそうにしていた。他の利用者さん達も一緒に歌ったりして楽しそうだった。それを見て我々は微笑ましく思った。
そういう思いが、次の日につながれば、優しい支援につながれば、それだけでも意味があるんじゃなかろうか。
「行事」ってのは、そういうものでいいんじゃなかろうか。
と、偉そうなこと書いたが、肝心のバンドの方はかなりヘタクソなのであった。みんなよくアレに合わせて演ってくれたもんだ。感激。
カミナリさん
3歳のA君は軽くパニックになっていた。
耳を塞ぎ、「ゴロゴロ!ゴロゴロ!」と小さく叫んでいた。
稲光と雷鳴が、ほぼ同時に起こっていた。
丁度お昼寝の時間だった。他の子ども達は轟音にもかかわらず、寝ているか、おとなしくしていた。
先生達が代わる代わるA君を抱きしめ、大丈夫だよ大丈夫だよと繰り返していた。
A君は怯え続けていた。
雷雲はなかなか頭上から去ってくれず、先生達は困り果てていた。
すると、寝ていると思われていたC君が、がばっと起き上がった。
「Cちゃん・・・」
注意しようとする先生を見向きもせず、C君はA君に近づき、彼の手を取ってこう言った。
「Aくん、だいじょうぶだよ、カミナリさんが来たらCちゃんがやっつけてあげるよ」
その言葉で、A君は落ち着いた。
・・・奥さんの職場(もとい自分の前の職場)での話。A君は軽度の自閉がある子である。
子どもってすごい!
・・・と感動話にするのは簡単である。
自分が言いたいのは「大人の力なぞたかが知れてる」ということだ。
大人だから、先生だから、支援員だからと、自分を大きく見ていないだろうか?
小さい・弱い存在を相手にしていると、錯覚を起こしやすい。
研磨を怠れば子どもにも劣る。
カミナリさんは倒せなくても、子どもには負けないように頑張りたいところである。
となりのキルドレ
『スカイ・クロラ』 を観てきた。
「眠くなる」という押井作品には毎回見られる前評判に反し、見入ることができた。
圧巻の空戦は言うまでもないが(最初の3分だけでも金払う価値がある)、人間ドラマの部分が今までの押井作品と比べて非常に解りやすく、素直に娯楽作品として楽しめた。
主人公達は歳を取らない。17歳くらいで成長が止まっている。よって「戦死」するまで永遠に思春期を繰り返すのだ。
「明日死ぬかもしれないのに、大人になる必要があるのでしょうか」
しかし実際には「戦死」しても、一部の記憶を受け継いだクローンが派遣され、また同じ生活を繰り返す。前にも後にも進まない人生。そこに「生きがい」だとか「幸せ」だとかいうものが、果たしてあるのだろうか。
自分が普段接している人達も、大人にならない。
ただし、肉体ではなく、精神が。
2歳、3歳・・・言語理解力だけみれば1歳以下の人もいる。
彼等は本当の意味で「自立」することが無い。あらゆる支援は「自立」を目指して計画されているが、現実には、彼等は一生、福祉施設や制度による支援を必要とするだろう。世間が言うところの「大人」にはならない。
彼等は幸せなのだろうか?
彼等は死ぬまで、あまり変化の無い生活をしていくのだろう。もちろん、知的障害者には、特に自閉度の高い人たちには、「いつも通り」の生活を提供することが大切で、変化のある生活はリスクが大きい。・・・というのが普通の考え方ではある。
本当だろうか?
彼等だって、世界が広がれば、何らかの良い変化にめぐり会えるのではないだろうか。
彼等の大半は、屈託の無い笑顔を見せる。
しかし彼等の大半は、精神系の薬に頼って生きている。
彼等は幸せなのだろうか?
「昨日と今日は違う。今日と明日もきっと違うだろう。いつも通る道でも違うところを踏んで歩くことができる。いつもと同じ道だからって景色は同じじゃない。」
しかし我々福祉施設の職員は、想像を止めてはいけないのだと思う。
もっといい道があるかもしれない。
変化はリスクが大きいかもしれないが、現状でよいのだと決め付け、その現状に甘んじることも危険だ。
しかしだからといって変化そのものにこだわってもいけない。
必要なのは、常に考え、想像することだ。
彼等は今、幸せなのだろうか?
子どもは意味が無くとも、毎日を全力で生きる。
大人はそこに意味を見出せないと、生きることに迷う。
一見子どもの方が幸せである。
しかし、子どもに世界の広さを教えることは、決して悪いことではないだろう。不幸ではないだろう。
・・・それが苦痛や迷いにつながろうとも。
もし苦しみ迷った末に同じ道に戻っても、その時景色は違って見えるのだろうから。
自分の隣にいる彼等は決して大人にならない。世界の広さを教えようが何しようが。
しかし、大人になること自立すること、それだけが幸せではない。では何が幸せなのか?
わからない。
わからないが、青い鳥は一羽ではないと思うのだ。内にもいれば外にもいると思うのだ。
決め付けることだけはしたくないのだ。
足元を見つつ、空を見上げる。結果として首をかしげている。
滑稽だ。
しかしそれでいいのだと思う。
その滑稽な姿こそが、我々のあるべき姿なのだ、と思う。
とかなんとか考えながら観てた(もちろん思いを言葉に整理したのは今)。
しかし、映画を観終え、退場しようとしたとき、なんとまあ、ポニョの歌が流れた。
超、脱力。
完全に空気ぶち壊し。
おかげで、妄想から覚める。
考えすぎもよくないよねー。
楽にいきましょう。眉間に皺寄せて仕事してたら、本末転倒だわ。