水魚は交わらない
水は水。魚は魚。魚にとって水は「ないと困る」というだけの存在であり、逆に水にとって魚はあっても無くてもよい存在である。
水が魚の気持ちを理解することはない。その逆もしかり。
先日会議の場で先輩が言ったのだ。
「入所施設では支援の完全な統一はできない」
入所施設は交代勤務である。早番遅番夜勤などがあり、職員同士のすれ違いが多い。
一週間会わない、というようなこともザラである。
おまけに職員は30人以上もいるわけで、その30人全員が、同じように支援するというのは不可能に近い。
どんなに書面で「今日からこういうふうにやってください」と申し送ったところで、担当の人以外はすぐに忘れるし、忘れないとしても、担当の人と本当に同じようにやっているか、互いに確認できる機会は少ない。
支援の仕方のみならず、それ以前の「方向性の統一」さえ難しい。
とにかくすれ違ってばかりである。
しかしよくよく考えれば、人間と人間なんてものは、そんなものなのだろう。
本当に理解し合える関係など、滅多に無い。
いや、本当に理解するなどということは、不可能だろう。
なにせ、自分で自分を完全に理解するということさえ、不可能なのだから。
人間は理解し合えない。
分かり合えないのである。
しかし、だからと言って一人で生きていける人間はいない。
一人で成り立つ仕事ってのもありえない。
だからこそ優しさだとか礼儀だとかいうものが必要なのだろう。
理解できないからこそ、お互いを大事にするのだろう。
うちの施設の職員は皆、自分の担当部分に関しては、プライドを持って仕事している。
だから自分の担当のところで、他の職員が間違ったことをしていると、イラッとくる。
しかしこれはお互い様なのである。
自分も担当外のところでは失敗ばかりである(って、担当のところでも失敗しているか)。
人のこと言う前に自分を何とかしなきゃ。
っていうか、担当かそうでないかは利用者さんや保護者には関係の無い話。「ここは手を抜いていい」なんてところは無いはず。
とは言え、全てを100%の力でこなすのは、ちょっと難しい。
皆それぞれ苦手な仕事ってのもあるしね。
だからやはり「統一」は難しい。
じゃあどうする?
大事なのは過信しないことだろう。
他人を。そして自分を。
「人を見たら泥棒と思え」と言っているのではない。
「人ができることには限界がある」ということを知れということである。
時間的にすれ違いの多いうちの職場では、お互いのアフターフォローも難しい。
先手先手でいくしかない。
要はその都度「お願い」をし、さらに他の人に「何かあった場合のフォロー」をも「お願い」しておく。
安っぽい信頼など、ただの無責任だと思うくらいで丁度いいだろう。
人は人である。
「理解してもらおう」と思うこと自体が、空しい行為である。
ただ人は社会というものを介して繋がっている。
理解すべきは社会なのである。
では社会とは何か。
方法論である。
アメリカ人と仕事をするには、英語を使えばいいのである。
ワガママなヤツと仕事するには、「おだて」を使えばいいのである。
「こうやってください」と張り出すだけでは見てもらえない。見てもらっても、覚えてもらえない。覚えてもらっても間違って覚えられてたりする。
なら直接「お願い☆」と言えばいい。それでも無理そうなら、自分で事前に出来ることを、出来る範囲でしておけばいい。
何度も言うが、人の能力には限界がある。できないのは当たり前なのである。
自分も出来ないことばっかりだ。
まずもって三つ以上のことを一度に覚えられない。
そして忘れないようにメモった字が自分で読めない。
そんなおれは高木ブーだ。
まるで高木ブーだ。
いやさ、みんな高木ブーだ。
筋肉少女帯を聴こう。
あらさー
この仕事、体が資本である。
施設の利用者さんは今年度で全員が30歳以上になった。
自分も奥さんが30になったことで、なんか片足30代に突っ込んだ気分だ。
利用者さんの機能維持も大事だが、自分の機能も色々維持していかなきゃ。
意識を高めていきたいな、と。
色々やってはいる。
アクションショーやってるし、ソフトボールやってるし、ジムにも行きだした。
しかし全てがつまみ食いな感じで、継続してやってますとは言い難い。
継続は力也か。しかし継続するためにまた、力が要るだろう。
金とか暇とか、気持ちの若さとか、そういう「力」。
まあとりあえず気持ちを維持するか。気持ちだけならタダだ。
まだまだ俺ぁ若いぜ、ってね。
そう若い。
若いよ。
若いから、まだまだ、大丈夫。
・・・と言って、結局ダラダラ過ごすのである。
である。じゃねえよ(ノリツッコミ風)。
運動
久しぶりに職場の人達とソフトボールしようと思ったのに、どうやら週末は天気が悪いようだ。
折りしもWBCで巷は騒然としている。
自分も練習試合を東京ドームまで観に行ったが、いやはや、ドームにあんなに人が入っているのは久しぶりに見た。
実に「破壊の夜」以来だ。・・・それ、どんぐらいぶりだ? どうでもいいか。
ソフトと野球は違うが、「草」レベルでは同じようなもんだ。ハロウィンとガンマ・レイみたいなもんだ。アーライ!
ととにかくのんびりモタモタやっておりますので、利用者さんも混じって外野で球を追っていたりする。そういうのがいいんですな。
職員も利用者さんも、運動しなけりゃなりません。
うちの施設は運動と言えば、主に散歩なわけでありますが、というか、ほとんど散歩しかしてないのですが、中には長距離は歩けない人たちもいるわけでして、そういう人たちの運動不足を防ぎ、機能を維持するために、何か面白い遊びやらリハビリ法やら、ないかしら? と、色々あちこち見たり調べたりしてまして。もちろんソフトボールなんて出来る人・理解できる人は一握りなわけでして。
何かないですかね。スロートレーニングとか出来ればいいんですけどね。いくらゆっくりでも腕立てとかスクワットとか、できませんよ。機能的な問題じゃなくてね、「やだ」と言われておしまいですからね。上手くノセられるものじゃないとね。難しいですね。
そういえば自分、こないだジム行きました。MSじゃなくてですよ。トレーニングするジムですよ。
町の体育館にあるんですね、ジム。町民は1回2時間3百円。筋トレ40分やって、ロードランナーで3キロ走りましたよ。
あと初めて「ジョーバ」もやった。
あのマシン、古くなったらうちの施設にくれないかなあ。
・・・自分ちょっと酔ったけど。
流れゆく皿の軌跡はメビウスを描く
目の前を過ぎる金目。既に五周目である。高いネタは今、売れない。
アジアナゴタマゴと掬われるのは皆庶民の味方的なヤツだ。
安いのが正義。
かと言って全皿百円の所になど、自分は行かない。
あれ、店の扉が開いた瞬間臭う。
「わしはこんなところにはきとうなかった」
そう思う。タダでも遠慮する。
食い物にはウルサイ。
たまに、年に一回くらい、施設の利用者さんと一緒に寿司屋に行く。
当然回る所である。
混む時間を避けて行く。
テーブル席に座る。
横を流れていく皿。
「それ」
と言うので取る。
頬張る。
頬張りながら、目は流れに向いている。
おそらく今口に入っているものが何なのかは、わかっていない。
「それ」
と言わず、指差す。
まだ口の中に先ほどの赤身が入っている。
言われたのを取る。
目は次を見ている。
「味わってるー?」
「うん」
視線の先、イカがテカッっている。
そんな感じで食べ続ける。
最終的にはこちらがストップを掛ける。
「もう入らないでしょう?」
「んーん、食える」
食欲ではないのだ。
回転寿司や、食べ放題のバイキングは、「自分のぶん」という枠が無い。
食べられるだけ食べていい。
そうなると、ここにあるものは「全て自分のぶん」だ。
腹に入るか否かは関係無い。もとよりどのくらい入るのか、計算など出来ない。
頭にあるのは「食わなきゃソン」ということだけだ。
とにかく他の人に食われる前に食う。味などどうでもよい。
果て無き不安・欲望だ。
これは幸せだろうか?
しかも最後には必ず「残す」ことになるのだ。まだまだあるのに残せと言われて、しかも他の人に食べられちゃうのだ。
これで満足できるだろうか?
「食べることが一番の幸せだから」
よく聞く。
趣味を持ったり、スポーツに打ち込んだり、友達をたくさん作ったり・・・そういうことが難しい障害者にとって、食べるということは最も身近で、下手をすれば唯一の楽しみだったりするのだ、実際。
で、「食べ放題」だ。短絡的だろう。・・・が、しかし、教えられるのか? 味を楽しむってことを。食べる「場」の雰囲気を楽しむってことを。あるいは食べる以外の趣味を。
難しい。
ただひたすら、「不安」や「不満足」という穴を埋める。埋め続ける。
・・・そうではなくて、「知る喜び」だとか、「過程を楽しむ」だとか、「より良いものを目指す」だとか、そういうものを提供していきたいのだが。・・・いや、そこまで高度でなくてもいい。「食べることしか興味が無いからとりあえず食わす」っていうのはちょっと・・・・・・うーむ。
「人間らしさ」の押し売りかもしれんが。
師走
大きな仕事があらかた終わって、ショーの方も今年は今日でおしまい。あとは年賀状の宛名書き(まあワードで打つんですが)と来月の引越しの準備ぐらいかな。
ああ、そうだ、はい、引っ越すんです。
と言っても近所。1キロも離れていません。
年が明けたらすぐ引越します。小さな家を買いましたのです。まあ中古です。
で、それはいいとして、今年…の特に夏以降は結構忙しかったですね。
体調が万全の日などほとんどなかったんじゃなかろうか。
…しかしまあ他の人よりはマシなんでしょうね。基本が健康なんで。周りと比べるとね。
疲れは溜まっていますが、まあこの一年、たいした怪我も大きな失敗もせずに乗り越えられたことに感謝感謝です。
来年はもうちっとのんびりした年にしたいですな。……もうちっとのんびりした人間になりたいですな。
肉肉野菜肉野菜
次から次へと追加される仕事を片っ端からやっつけていると、脳内麻薬みたいなヤツが分泌されるのか、テンションが上がってくる。
テンションが上がると、強気になる。ついでによくしゃべる。
根が攻撃的なもんだから、強気になるとタチが悪い。
余裕ぶっこいてる状態だから、利用者さんには優しくなるのだが、反面、同僚にキツイことを平気で言ってしまったりする。
後で凹む。
そして素に戻ったとき、しゃべるのが前以上におっくうになる。
余計周りと上手くいかなくなる。
無理してイイ人するからよくないのだ。攻撃的な性格だと解ってるんなら、それ相応のセルフコントロールの仕方があろうに。
・・・ただ仕事柄、イイ人もしなきゃいけないんけどね。・・・大事なのは切り替えだ。
はっちゃける時ははっちゃけ、落ち着くべき時は落ち着く。
そういう大人に、私はなりたい。
いやもう忙しくて
それがいけない。忙しい忙しい言っていると、忙しいが喜んで寄って来るのだ。・・・・・・寄って来る? いやさこちらから積極的に呼んじゃっているのだ。間違いない。
そう、気付けば残業している自分にちょっと酔っていたりするのだ。酔ってばかりだ自分。いやほんと。
仕事の出来ないヤツほど残業する。「質」で不足している分を「量」で埋めようというのだ。それで出来た気になるのだ。もちろん思い過ごしである。達成感はあくまで感覚であって実質とは関係無い。
仕事は山登りではない。出来不出来は他人が決める。他人を喜ばせるのが良い仕事であり、他人の喜びを喜びとして働けるのが良い仕事人である。
「いやあ今日は15時間も働いたわ俺がんばった俺おつかれ!」
・・・自己満である。労働時間の長短に意味は無いし、がんばりはただの過程でしかない。問題は結果である。結果は他人のところにある。他人を思えないやつが、意味も無く残業に酔う。・・・ちなみに15時間が長いか短いか、その辺は自分にはよくわからない。
昔からよく言う。
よく働くヤツはよく遊ぶ。
全力で働いたら全力で休め。
寝る子は育つ。
英雄色を好む。
・・・なんか微妙に違うところがあるような気がするが気にしない気にしない。要は人間、偏ってはいかんのです。1と2と真面目にやったら、3はアホになっといた方がよいのです。それくらいでよいのです。大事な事が何なのかわかっている人には、それで十分なのです。
なんかやたらと忙しい時は一息入れて、足元を見たほうがいい。大抵自分で呼んじゃってるから。間違いない。
さあさあ明日も忙しいけど、人に任せられる事は任せて定時でさっさと帰ろうね。いや、今日も定時で帰ったけどさ。
職場で使える(?)俺ことわざ
・シチューに餅を入れる
人と意見がぶつかった時は、新たなアイデアが生まれる時だと思うべきなのである。「ありえない」と思う人の意見でも、そこに自分なりの工夫を加えれば、結構イケたりする。
・去年売れた芸人を思い出せ
何か失敗した時は、「ミスに気付けた」と思うべきなのである。失敗は早めにしておいた方が絶対いい。「ベテラン」と呼ばれるようになってから自分のダメさに気付いても遅いと思う。
・怒りは友と思え
無理矢理自分の感情を抑えることよりも、「自分は何に怒るのか?」ということをちゃんと把握しておくことが大事。そうするとそれだけで、感情をそこそこ上手くコントロールできるようになる。
・馬の耳によしよし
念仏を聞かない馬も、褒められればうれしく思う。それに、「○○してください」「○○しないでください」「ちゃんとやってください」と言われるより、「○○は××さんにまかせればきっと大丈夫だよね!」とか言われた方が、やらざるをえなくなるよね。
・みんな冷めててみんないい
仕事に取り組むうえで、温度差はどうしても生じる。それは仕方がない。仕事と家庭と自分と・・・どれをどれだけの割合で大事に思っているか、それは人それぞれ違う。また、常に職場全体の事を考えて仕事している人もいれば、まず自分の担当部分をしっかりやって全体はそれから・・・って考えの人もいる。どっちも偉いと思う。まずそういう違いをヨシとしないと、チームプレーなど無理。
・壁に耳貼れ障子に目貼れ
どこまでがしつけでどこからが虐待か?・・・線引きを悩む必要は無い。「とりあえず外部の人に見られたらマズイことは誰も見てなくてもするな」・・・それだけ。「外部の人の目」で見るクセを付ければ、「あ、これはマズイな」というのはすぐ気付けるようになると思う。
こういうことを定期的に言ったり書いたりしないと、自分自身忘れてしまうんよね。
ポニョお断り
ちょっとかんべんしてほしいと言ったのだ。
確かにみんな精神年齢低いさ。
でも一応大人なのさ。
本人達は喜ぶかもしれないが、
親御さん方は、どう思うかねえ。
ちょっと子どもっぽすぎないかねえ。
どうしてもやりたいというなら、
自分なんかじゃなくて
もっと若い、女の子に頼んでよ。
「おじさん」に片足突っ込んでる自分がやるには、ちょっとあまりにも・・・ねえ?
それにフルで聴いたことある?
「♪あしっていいな かけちゃお」
・・・ですよ。うちの法人、車椅子の人もいっぱいいますよ。障害者に、「♪早く人間になりたい!」とか歌わせられます? それと似たようなもんですよ。
まあそれは極端として、ちょっと今回はやめときましょうよ。いや、恥ずかしいからじゃなくて。いや、恥ずかしいけどね。ていうか、それを言ったらもう、毎年恥ずかしいんですよ? 恥ずかしくないわけないじゃないですか、人前で踊れってんだから。ポニョはないよポニョは。保育所じゃあるまいし。恥ずかしい。
ということで今年の運動会のダンスは
『羞恥心』
・・・にあいなりました。
今年もまた自分が前に出て見本になります。
見本と書いて「さらしもの」と読みます。
犯罪と孤立
福岡市の事件に関しては、誰もが「やっぱり」と頷いた。
「やっぱり」と言うのはもちろん、
「やっぱり母親が犯人だったか」
というものであるが、実はもう一つの「やっぱり」があって、これも予想していた人は多いとは思うが・・・というかここでわざわざ書くという時点で読めるとは思うが、
「やっぱり障害児だったか」
という「やっぱり」である。
「将来を悲観して」という供述に、「またか・・・」とゲンナリする。
今回の事件は更に特殊で、母親が手足にちょっと障害があったようである。
障害を持った母と子。どれだけ孤立感を抱えていたかは想像に難くない。
「弱い人間が図らずも犯罪に手を染めてしまう」と以前書いたが、人間は孤立すると本当に弱い。
ただでさえ社会的にハンデを持っているうえに孤立してしまっては、まっすぐ生きろというほうが難しい。
孤立させてはいけない。
孤立させない。
それが今、「福祉」がやるべき一番の仕事なのだろう。
・・・入所施設で働く我々には何ができるだろうか?