ゆびきられげんまん
「約束」とは「罰」へのフラグであろうか?
支援の現場のみならず、子育ての場でもよく聞かれる、「○○する約束でしょ!」という叱責、言ってる方は正しい事を言ってるつもりなのだろうが、言われている方は大抵、腑に落ちない。落ちないが、なぜ落ちないのかが自分でもよくわからないから反論できない。ただうつむくのみである。
すると追い討ちがくる。
「悪いのはだれ?」
反論できない人間に追い討ちをかけるとは卑怯千万、残酷極まりない行いであるが、言ってる方は正しいと思っているし、言われている方も自分は間違っていないという理由を自身で見出せない。結論は出ている。
「ごめんなさい」
不貞腐れながら。
・・・予想できる更なる追い討ちについては省くが、これはどういうことだろう。「約束」とはなんなのであろうか。
自分は子どもの頃、どうしても「朝ピアノの練習をする」という「約束」を守れなかった。
毎日怒られていた。
自分はピアノはともかく、「ピアノの練習」というのが大嫌いだった。
もともと嫌いだったのか、嫌いになってしまったのか。
ともかく腑に落ちなかった。
母が怒る理由は「約束を破ったから」なのであるが、今思えば横暴である。
ピアノの練習そのものが嫌な自分としては、「約束」を守ることで発生するメリットが何一つ無いのである。
あるとすれば、「練習すれば怒られずに済む」ということであるが、そんなもん、初めからその「約束」が無ければ、怒られるも怒られないも無いのである。もちろん「ピアノが上手になる」というメリットもあろうが、嫌いになっては意味がないし、嫌々やって上手くなるものでもない。
母の言う「約束」とは「法」のようなものであった。一方的に決められ、破れば「罰」を受ける。ただそれだけのものだった。子どもにとってはストレス以外の何でもない。
「約束」とは「交わす」ものだ。「利益」を「交換」するものだ。
「○○してあげるから、△△してね」 「○○してほしいから、△△します」
というものだ。
「働いたら給料を出します」
これが「約束」。
「働かなければ罰を与えます」
これは「約束」ではない。ていうかこれじゃ奴隷ですな。
「奴隷」と言ったが、冗談ではなく、これに近いことをしていないだろうか?
利用者さんが、あるいは子どもが嫌がることを、「約束」として押し付けていないだろうか?
「出来るようになれば本人のためになる」というのは理由にならない。
本人が「出来るようになりたい」と思っているなら、多少のスパルタもいいかもしれないが。
改めて言うが、「ピアノが好き」とは、これっぽちも思っていない子に練習を強いてもやるわけがない。苦痛でしかない。
改めて言うが、甲子園にもプロにもまったく興味が無い子に、千本ノックしたって仕様が無い。拷問でしかない。
・・・あ、これは言ってないか。
夏ですなー。