優しさなんて
自分で言うのもなんだが、優しい人だとよく言われる。
一方で意地悪だともよく言われる。
どちらも本当だと思う。
なんせ人間には色々な面がある。
・・・というのもあるが、それ以前に、「優しさ」というものに、色々種類があるのだと思う。
・己の強さ・立場・大きさを誇示するための優しさ。・・・「偉い」と言われたい、ナルシストタイプ。
・自分の居場所を守るための優しさ。・・・家族を取ったら何も残らないような、依存タイプ。
・優しくされたいが故の優しさ。・・・傷つくのを怖れる、臆病タイプ。
・責任を負うのを避けるための優しさ。・・・敵を作ると面倒だから本音を言わない、イエスマンタイプ。
・自分を卑下するため自己犠牲的優しさ。・・・「自分なんて」の裏返しで人を立てる、自虐タイプ。
・・・とかね。
かなり否定的に書いちゃったけど、大切なのは、なぜ「優しさ」という概念がこの社会にはあって、必要とされているかってことであり、「優しさ」というもが「本当に」あるのか否かというところではない。
なぜ「優しさ」というものがあるのか、必要なのか。
・・・それは、誰も1人では生きられないからだ。
と自分は考えている。
単純と言えば単純だ。特にひねりの無い話だ。
ただ事実は事実であろう。
誰もが自分を一番大事に思っている。しかし1人で生きられない。だから誰もが必要とあれば優しくなるし、そうでないときは意地悪になったりする。「両方ある」のではない。根本は一つなのだ。自己愛だ。
要は「優しさ」とは本能ではなく社会性なのだ。
福祉の仕事は「優しさ」が大事なようなイメージがある。「優しさ」で仕事をしているように見られたりする。
しかし長く現場で働いている者ならわかると思うが、現場においては福祉の仕事とは「優しさ」よりも「我慢」である。そういうイメージが強くある。
前述した通り「優しさ」とは社会性である。社会性とは「あなたがこうするから私もこうする」というものである。実も蓋も無い言い方をすれば、見返りを期待できない相手に、あるいは環境で、「優しく」あるというのはとても難しい。
重度の知的障害者から見返りを求めるのは難しい。笑顔があったり、甘えてきてくれたりすれば、それだけでも「優しく」なれたりするのだが、それすらも無い人もいる。そういう人に対しては、どうしても「我慢」で接することになったりする。
次第に「優しさ」で接することのできない自分にイライラしてくる。そうするとまた「優しさ」が削られる。悪循環。
どうすればいいのか?
いけないのは1対1になることである。見返りの期待できない相手と2人っきりになることである。
なら2人以上で接すればいい。要は、支援する相手以外に見返りを与えてくれる人がいればいいのである。
・・・何が言いたいかと言うと、「みんなで協力して支援して、誉め合え」ということだ。
キレイ事を言っているのではない。これはシステムの話である。
誉めてくれる人がいれば、人は「優しく」なれる。そういう風に「できている」のである。
虐待は密室で行われる。それは人が見ていないから好き勝手できるということではない。人が見ていないということは、見返りが無いということだからだ。
1人で障害児を育てているお母さん・・・1人で痴呆の親を観ている子ども・・・追い詰められるのは見返りが無いからだ。
個人の人間性に頼るのには限界がある。この世に「聖人」などいない。
福祉が「優しい」仕事であるためには、自分を、人間を、社会を知り、そこにシステムを嵌め込む必要がある。「優しい」人を集めただけでは「優しい」仕事はできないのである。残念ながら。
ちなみに自分は典型的なナルシストタイプである。よくわかってるでしょ?
あー、自慢するとこじゃないって?