梨さんのブログ -110ページ目

ムンク展

12/11 国立西洋美術館にて開催中

「ムンク展」

に行ってきました。


平日ということで、参観者も少なく落ち着いて鑑賞することができた。


エドヴァルト・ムンク(1863~1944)

軍医の父の元誕生。

8歳の時には母を、継いで姉が病死。

妹は幼い頃から重い鬱病に悩まされ

今回の展示作品「メランコリー、ラウラ」にその姿が描かれている。


ムンクといえば「叫び」が、様々なモチーフとされ

身近で広く親しまれている作品かと思われます。

私自身その程度の認識しか持ち合わせていません。

兄筋情報によると、数年前に盗難騒動があったらしい。


その「叫び」は連作になっており

「不安」「絶望」が今回出展されていました。

いづれも「叫び」同様渦巻く空とフィヨルドを背景に、

人物が欄干で正面に体を据えた構図。


ムンクは、幼少時から精神的に弱いところがあり

その療法として絵を描いていたとのこと。


ムンクは自身の作品をその一点で捉えるのではなく

いくつかの連作を全体とすることを望んでいた。

一連の作品群を<…フリーズ>と称し

自身、アトリエでそのレイアウトに試行を重ねていた。


今回の展覧会ではムンクの代表的な作品

<生命のフリーズ>をはじめ

<リンデ・フリーズ>(<ラインハルト・フリーズ>のための習作)

<フレイア・フリーズ><労働者・フリーズ>

など、オスロ市立ムンク美術館などから108点を展観。


さらに、ムンクの装飾画家としての活動に注目した作品展示構成となっている。


私が一番心に響いた作品

「病める子供」

は、病床にふす我が子の手をとり、なすすべもなくうなだれる母子の図。

諦観した様子でうつろな視線が印象的な横顔の少女。


それを観て、うっかり目頭をあつくし、ひとりその場でとりつくろうのに難でした。


若くして亡くなった姉や、幼い頃から病に悩まされる妹の姿は

長くムンクの心に影をさし続けたのだと思われます。


一転し面白かったのは

眼科医リンデという、ムンクのパトロンの一人が依頼した

リンデ家の子供部屋に飾る為の絵についてのエピソードである。


出来上がったスケッチを見たリンデは

子供部屋に飾る絵としてふさわしいモチーフを取り扱うように注文をつけた。

男女がからむような絵は遠慮してくれ…というような内容である。


もともとムンクの絵は

「愛と死、喜びや絶望という『人間の魂の叫び』とも呼べるテーマを描いた作品」

が多く、その特徴が注目されている作家なはず…。


そのムンクさんに子供部屋にふさわしい絵を注文する

リンデさんもちょっと、その思惑が甘かったのではないかと。


結局、子供部屋の為に描いたその作品の多くはムンクの元に戻ったらしい。

その作品の一部

「公園で愛を交わす男女」(タイトルからこれだ)

は文字通り、緑の木々の公園ベンチで男女が抱擁、接吻する様子を背景に

画面最前中央に少女の顔面を描いたものである。


ムンクはこの作品の為に

夜の公園に、白夜のもとカップルが愛を交わす様を観察に訪れた際

暴漢に襲われた上に、自らも警察に囚われるといういわくつきだという。


音声ガイドのその案内を聞きながら、ひとり思わず笑ってしまいました。


その後、年老いてから、オスロ市庁舎のための壁画を非公式依頼されるも

そのプロジェクト最中、絶命。


若い頃は見向きもされなかったのに晩年、体の自由もままならない今頃になって…

と、ムンク自身無念であった様子。


労働者の姿を描いた一連の習作から

ムンクの心と視点の変化が伺われるような気がしました。


東京砂漠

・面倒なことには巻き込まれたくない
・他人と関わるのがわずらわしい
・自分の時間を他人の為に費やすのが惜しい
・自分の城を守るのに必死
・周囲へ配慮を配る、精神的余裕がない
・自分の存在を成り立たせる為に他人を蹴落とす
・排他的、閉鎖的な思考
・己の思惑通りにならないからと、他人を傷つける
・誤った過大な自己評価により、己の至らなさを省みず、

相手への依存度が高く、何か問題が生じるとそれを責任転嫁する


今、周辺で発生している状況を思い浮かぶままに連ねてみました。

重複する内容もあるでしょう。

これらは他人の態度を示すだけでなく、自分自身も該当する点があります。


残念なことですが、この社会で生き延びるには
誰もが時に非情にならざるを得ない状況があります。


それは主に自分の身を守る為、自分とその周辺環境の平和維持の為

いた仕方ない態度であり、本意ではないことかもしれません。

いえ、できれば本意ではないと願いたいものです。


そう願うことにより、自身の中で生じる矛盾を紛らわすという

自己欺瞞でしかないかもしれませんが。


プロフの‘みんなへの一言!’

「安全値を高くとるのは、必ずしも保身のみに基づくことでないことを信じたい。」

という言葉は、実はそのような状況を指しています。


だからといって、もちろん他人を傷つけることの言い訳にはならないことは当然です。


しかしこのような状況というのは、

もはや、至極真っ当な精神では社会生活を送ることができない

そんなことを意味するのではないかと思われます。


真っ当な精神の定義も、今の時代あやふやな気がしますが

何だろう

優しすぎると自己破綻に陥るというか…


精神的に苦しい立場、肉体的にも過労状態

そうなると、まともな判断が難しくなり、ふいに自害という行動に至ることもあるそうで

そういう症状も、鬱ではみられるらしい。

しかしそのように追い込まれた状態の人の、その死に対し

病気のせいだと片付けるのは乱暴すぎます。


気が付くと、いつの間にか殺伐とした世の中になったのは何が原因?

政治?教育?社会?経済?それら全ての時代変化による必然?


今の自分にできることといえば

自分の足元から見直し、できることから始める程度です。


あっという間に師走突入

気が付くと師走に入っていました。

2007年も、残すところ1ヶ月をきってしまった。


職場の自分の覚書帳に、11月の間ずーーっと

Octと表記していたことに、12月に入って気が付いた。

Nov不在の私の2007年。


さて365日の過ぎ行く体感速度が、年々早く感じられるお年頃。

小学生の頃は、夏休みは永遠のように感じられたのに…。


たまに、水平線に沈む夕日を見たくなることがある。

地元なら、お気軽に海岸へ赴きその様を堪能することができる。


しかし、今の環境ではそうもいかない。

そもそも、夕日を見る機会も少ない。

先月栃木に行った際、山際に沈む夕日を見て感動したくらいだ。


太陽は地球の自転と公転により、絶えず動いているように見えるのは

確かだしその速度も一定のはず…ですよね。

なのに、沈む直前の夕日はなんであんなに早く感じるのかな。


月食なんかでも、そのはるかかなたの巨大な存在が徐々に、

しかし確かに変化するその様を、目視観察できる不思議体験のひとつ。


出勤間際、身支度の時も、あっという間に過ぎていく不思議な時空にある。


仕事は適度に忙しい方が、その勤務時間があっという間に感じられ都合良い。


しかし、短時間のウチにあまりにも多くの処理がなされるような状況に陥り、

ひと段落済んで時計を見る余裕ができた時

「まだ、こんだけの時間しか経過していないのか」

という風に驚くこともある。


実感としては

「あれだけ、いろんな出来事があったのに、

実際にはたったこれだけの時間の経過のウチでの出来事だったのか」

という具合である。


自分が居心地の悪い状況に身を置く時間というのは、

比較的長く感じられる傾向にあるよう。


日本標準時は明石市で統一。

なので、いづれも気のせいであることは、確かなこと。


日本人の平均寿命約80年として

その人生は長いと思われるか短いと思われるか。


何かをしようと思うと短いし

何もしないでいると長いような気もするし


しかし、私くらいの世代の平均寿命値はどう変化するのか

大いに疑問とされるところである。


始めの話題からそれてしまった。

今年の抱負は…

あまり良い方向に作用されなかったふしがある。


来年はどういう年にしようかな…。

その前に年賀状、ハガキさえ買ってないぞ。

ここ2・3年横着してるので、今年はキチンとしようと思ったはずが…

いかんいかん。