ココハドコ? アタシハダレ? -85ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

高松塚古墳から橘寺、川原寺跡方面へ向かう途中に天武天皇と持統天皇が合葬された檜隈大内陵がある。

 

第40代天武天皇は天智天皇と父母を同じくする兄弟で、天智天皇の死後、672年の壬申の乱で大友皇子を破って即位する。天武天皇は一人の大臣も置かず自ら政務をみた。自らが君臨しかつ統治した点で、日本史上でもまれな天皇専制をなしとげたといわれる。日本ではじめて天皇を称したのも、「日本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力らしい。

 

鸕野讚良(うののさらら=持統天皇)は天智天皇(中大兄皇子)の娘で13歳で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。したがって天武天皇とは叔父と姪の関係になる。天武天皇の即位にともない皇后、天武天皇崩御後、皇太子の草壁皇子も間もなく薨去、草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)の成長を待つ形で自ら天皇として即位した。

ちなみに、持統天皇の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。石川麻呂は蘇我入鹿のいとこにあたるが、入鹿を暗殺した乙巳の変(いっしのへん)では中大兄皇子についた。にもかかわらず、その後中大兄皇子に謀反の嫌疑をかけられ自害している。

そういう過酷な政争の渦中にあって遠智娘は中大兄皇子との間に大田皇女と鸕野讃良皇女(持統天皇)を産み、中大兄皇子はそのふたりを大海人皇子に与えている。大海人皇子との間に大田皇女は大津皇子を、鸕野讃良皇女(持統天皇)は草壁皇子を産んでいる。母大田皇女を早くに失くし有力な後援者のいなかった大津皇子を謀反の嫌疑で刑死させたのは持統の陰謀という説もある。いずれにせよ天武天皇を補佐して様々に政治について助言、自らも政務を執った有能な女性だったことは確かなようだ。

 

 

 

墳丘の構造は下の写真の通り。持統天皇は火葬された最初の天皇と言われているが、墓は鎌倉時代に盗掘にあい、銀製の骨壺は盗まれ、遺骨は路上に捨てられ散逸したという。

 

 

 

 

 

 


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高松塚古墳に向かう途中、文武天皇陵と治定されている栗原塚穴古墳に立ち寄る。この古墳と高松塚を挟んでちょうど反対側、北側にある中尾山古墳が真の文武天皇陵とする説も近年の調査から有力になっているらしい。

 

 

 

文武天皇は第42代、在位期間は697年- 707年の10年、14歳で即位し24歳で崩御。祖母持統天皇の譲位を受けて即位したが若かったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についたという。後の院政の原型と言われている。文武天皇の在位中の出来事として大宝律令の制定(701年)がある。

681年に天武天皇に制定の詔が発せられ、20年をかけて編纂された大宝律令によって天皇を中心とした本格的な中央集権統治体制が成立したといわれている。

 

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その文武天皇陵の裏、道を挟んですぐのところに公園化した高松塚古墳がある。下段の直径23m、上段直径18m、高さ5mの二段式の円墳で、築造は7世紀末から8世紀初頭とされている。形状も推定される築造時期もキトラ古墳とほぼ同じ、サイズ的にはやや大きい。

被葬者には忍壁皇子、高市皇子ら天武天皇の皇子という説、朝廷の高官だった石上麻呂という説、朝鮮半島系王族という説など諸説あって結論は出ていない。

 

 

 

石室内で発見された壁画は実物は公開されていない。発見後外気に触れた事や、その他さまざまな原因で黒カビが発生し急激に劣化が進んだらしい。隣接する「高松塚壁画館」で発見時の精密な模写と修復後の模写を見ることができる。極めて貴重な歴史資料であり、当然国宝にも指定されているが、その保存については未知の部分が多く、これからも並大抵のことでは終わらないだろう。2020年3月、カビなどを除去する修復は終了した。将来は石室に壁画を戻したいというが、その後の劣化防止の技術にメドはたっていない。

 

 

この写真は墳丘の前に設置された説明の銘板に掲載されたもので、黒っぽい部分がカビで汚れた個所かと推察。

 

 

 

 

 


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檜隈寺跡。ひのくまでら、と読む。キトラ古墳からほど近い丘の上、於美阿志(おみあし)神社の境内に古代寺院の痕跡、講堂や塔の礎石が残っている。

 

 

於美阿志神社の祭神は阿知使主(あちのおみ)。阿知使主は百済を経て日本に来た漢人で日本書紀によると応神天皇の20年に「己が党類十七県を率て、来帰り」とあるそうだ。応神天皇の実在についてははっきりしないことが多いらしいが実在したとしたら3世紀から4世紀にかけての時代らしい(5世紀という説もあるようだ)。このころの日本は朝鮮半島にも中国(晋・宋)にも折にふれ人を派遣しており、向こうから人が来る環境のようなものはかなり整っていたのだろう。「党類十七県」がどのくらいの人数だったか、阿知使主は後の大和朝廷で次第に勢力を伸ばしてゆく東漢氏(やまとのあやうじ)の祖と言われている。

そして、その彼らが拠点としたのが檜隈の地で、檜隈寺は東漢氏の氏寺だったとされている。

 

(講堂跡の礎石)

 

(塔跡に残る十三重石塔・重要文化財)

 

 

 

 

 


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