ココハドコ? アタシハダレ? -86ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

明日香村の歩き始めはキトラ古墳から。古代の遺跡巡り。壺阪山で電車を降り、徒歩15分ほどでキトラ古墳に着く。想像はしていたが見事に公園化していた。古代の香りはどこへやら・・・。

発掘された壁画や古墳自体の保存や管理の難しさもあれば、致し方ないか。

 

 

 

キトラ古墳は7世紀末から8世紀初頭に造られたと考えられている。被葬者は皇族か側近の高官だろうという説もあるがわかっていない。墳丘は2段になっており下段の直径が13.8m、中央に石室があり、その内部は幅約1m、長さ約2.4m、高さ約1.3m、壁4面に玄武・青龍・朱雀・白虎の四神と十二支、天井に天文図と日月の壁画が描かれていた。石材は二上山から切り出された凝灰岩が使われている。これらは墳丘に隣接して建てられた壁画の保存管理施設「四神の館」で見ることができる。古墳一帯は国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備され、古墳は国の特別史跡に、5面の壁画は国宝に指定されている。

(「四神の館」のお許しをいただいてパンフレットから転載)

(北壁: 玄 武)

 

(西壁: 白 虎)

 

さして古代史に詳しいわけではない。なので全くの素人考えだが、仏教伝来のころを境にして古代の美術というのは大きく変化しているような気がする。仏像のような複雑で高度な立体造形やキトラ古墳や高松塚古墳の色彩豊かな絵画、これらが歴史上突然現れてくるのはやはり大陸からの渡来人の貢献が非常に大きいと思わざるを得ない。一体どれだけ多くの人々が大陸から渡って来たか。渡来人とひとことで言っても朝鮮半島から来た人々もいれば、中国から東シナ海を渡って直接来た人々もいるらしい。石室に描かれた四神は中国の神話の神である。これは日本に根付くことはなかったが、朝鮮半島、百済から伝わった仏教は見事に根付いて発展した。飛鳥時代は日本の国の形が未だ定まらぬ権力闘争の激しかった時代、どこでどんな歴史の綾が働いたか、そんなことがわかれば決して大きくはないこんな墳墓からでも絢爛たる歴史絵巻が誕生しても不思議ではない。そんな気がする。

 

 

 

 

 


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二上山の次は自然と當麻寺に足が向く。「たいまでら」と読む。近鉄南大阪線の駅名は当麻寺だが寺の名前は旧字体で當麻寺。住所名も當麻。ちなみに折口信夫の小説「死者の書」は地名に当麻の字をあて「たぎま」というルビを振っている。山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた地名という説にちなんだものだろう。また寺の名前も万宝蔵院と、當麻寺の前身といわれる寺の名前を使っている。また、能の当麻は「たえま」と読む。

 

創建については正史に記録がなくはっきりわからないらしい。當麻寺のパンフレットによると推古天皇20年(612年)に聖徳太子の異母弟麻呂子王によって創建、天武天皇10年(681年)に現在地に移されたという。

 

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仁王門をくぐって境内に入ると、背景に二上山。この寺が二上山の麓に抱かれるようにしてあるのが実感できる。山は寺の西、仁王門は東。南はどうなっているかというと山が迫っていて門はない。仁王門がいわば正門にあたるようだ。そして鐘楼が目に入る。梵鐘は国宝。銘がないため製作年は不明だが作風から日本最古級、七世紀の作と考えられている。

 

 

鐘楼の先、左手に中之坊がある。中之坊はもとは役行者が開いた道場。中に入ると、すぐ右手に中将姫が剃髪されたお堂と伝わる「剃髪堂」(上の写真)がある。本尊は十一面観音(導き観音)を祀っている。

 

 

 

 

建物の南側は「香藕園(こうぐうえん)」という庭園。国の名勝、史跡にも指定されており、大和三名園にもかぞえられるという。心字池を挟んで対面に三重塔(東塔)を借景とし立体感あふれる眺めを創り出している。花のきれいな季節に書院にすわってお茶でも飲めば気持ちよさそうだ。

 

 

當麻寺の三重塔は東塔(左)が奈良時代、西塔(右)が平安時代の創建とみられるが、西塔は飛鳥時代に建てられたものを再建したという説もあるようだ。いずれにしても東西両塔が創建当時のまま現存しているのは當麻寺だけという。ともに国宝に指定されている。

 

国宝ではないが金堂に置かれた四天王像(重文)は印象に残った。法隆寺の四天王像もそうだが後世の四天王像に比べるとポーズがおとなしくほぼ直立不動、手や剣を振り回していないし憤怒の表情もない。四天王像のポーズや表情が変わり始めたのはどうやら東大寺の戒壇院の四天王像あたりかららしいが、後世の邪鬼を踏みつけ怒髪天を突くような増長天像というのはどうやっても好きになれない。はっきり言って嫌いなのだが、當麻寺の増長天は実に寡黙な表情をしており、知的というか、哲学者のような顔をしている。寺のパンフレットにも使われているが一見の価値ありだと思う。

 

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さて、中将姫が一夜にして織り上げたという伝説の當麻曼陀羅、これは寺では根本曼荼羅とよんでいるが、損傷が激しく非公開になっている。曼陀羅堂で一般に公開されているものは16世紀文亀年間に転写されたものということで、これも重文に指定されているが織物ではなく絵画らしい。「らしい」というのはこの文亀本當麻曼陀羅には前面にネットがかけられており、それを薄暗いお堂の中で見るので識別できなかったのだ。

根本曼荼羅は縦横4m近い大きなもので、先染めした絹糸を使ったつづれ織りということが調査で分かっている。。つづれ織というのは織物において、色のついた横糸をだぶつかせ柄を描いてゆき、縦糸が見えないように打ち込みを多くした織り方だそうで、現代の西陣織などでも一日に数センチしか織れないこともあるという非常に手間のかかる織り方らしい。つづれ織の起源はエジプトで、シルクロードを経て東洋に伝わり、日本には飛鳥時代に遣隋使や遣唐使が持ち帰ったものと考えられている。中将姫の伝説は伝説としてロマンを楽しむとして、当時の日本に精緻な絵柄を持ったこの大きな曼陀羅を織るだけの技術があったかどうかは疑問の残るところで、学術的には大陸で作られたという説が有力らしい。

 

曼陀羅堂ではわからなかったが、家に戻って印刷物で見ると、なるほど美しい曼陀羅で、いずれ折を見て再訪し、じっくりと見てみたいと、そう思った。

 

 

 

 

 


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二上山に沈みゆく夕日。撮影は3月14日午後5時50分頃。撮影場所は大神神社に隣接する久延彦神社。彼岸の中日、春分のころになると夕日は、この二上山の雄嶽と雌嶽の中間、鞍部に沈む。それでこの山には西方の極楽浄土への入り口があるという信仰が生まれた。

 

 

この二上山のふもとに中将姫の伝説で知られる當麻寺がある。伝説によると中将姫は出家する前から『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成すなど仏行に励み、當麻寺に入って尼となってからは仏の助力を得て、蓮糸で観無量寿経の曼陀羅(当麻曼陀羅)を一夜にして織り上げたといわれる。29歳で入滅、その時阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる、そういう話である。
 

折口信夫はこの中将姫の伝説を下敷きにし「死者の書」という幻想的な小説を書いた。小説は二上山に眠る(大津皇子らしき)俤びとと藤原南家の郎女(中将姫)の霊的交感のようなものから始まり、曼陀羅を描き上げた郎女が極楽浄土へと旅立ってゆくと思われるシーンで終わる。小説の中では具体的に「阿弥陀如来」も「来迎」も明示的には描かれてはいないが、この小説について「山越しの阿弥陀像の画因」という文章で、日本独特の構図である山越しの阿弥陀像という来迎図が生まれた由来を考える中で書き継いできた「山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物」であると語っている。

また、平安時代の恵心僧都の作と伝わる金戒光明寺の山越阿弥陀像の上に押された色紙に書かれた七言律一首について

 

 『「……光芒忽自眉間照。音楽新発耳界驚。永別故山秋月送。遥望浄土夜雲迎」の

   句がある。故山と言うのは、浄土をさしているものと思えるが、尚意の重複するものが

   示されて、慧心院の故郷、二上山の麓ふもとを言うていることにもなりそうだ。』

 

と述べ、更に

 

 『此図の出来た動機が、此詩に示されているのだろうから、我々はもっと、「故山」に執して

  考えてよいだろう。浄土を言い乍ながら同時に、大和当麻を思うていると見てさし支えは

  ない。』

 

と述べている。

とすると金戒光明寺の山越し阿弥陀像に描かれた山のモデルとなったのは、この二上山ではないかと折口信夫は考えたのだろうし、であればこそ二上山に阿弥陀如来が来迎し極楽浄土へ姫を迎え入れる物語も書く理由があったとはいえるだろう。


 

目の前に実際の二上山を見、そこに山を見下ろすような巨大な阿弥陀像を想像してみる。この壮大なイリュージョン、それはそのまま古代の人々の想像力の大きさに他ならないということに思いを至そう。

 

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さて、束の間の幻から醒めて、二上山。国道165号線から撮った姿である。東京八王子の高尾山の標高が600m、こちらは雄岳で標高517m、さしたる高さではないとナメてかかったら、坂が思いのほか急でえらい目にあった。途中、雄岳頂上の手前にあった大津皇子の廟所を見逃してしまった。頂上にあるとばかり思い込んでいたのだが、息も絶え絶えで、坂を下ってまた登りなおす気には到底なれず結果パス。

 

 

下の写真は雌岳頂上。こちらは整地され見晴らしも良く、公園ぽくなっていた。標高474m。

 

 

雌岳から見た三輪山方面(中央より左よりの山並み)。午後になって気温が上がって、靄が出て山並みの輪郭がぼけてしまったのが残念。

 

 

 

 

 

 


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