明日香村の歩き始めはキトラ古墳から。古代の遺跡巡り。壺阪山で電車を降り、徒歩15分ほどでキトラ古墳に着く。想像はしていたが見事に公園化していた。古代の香りはどこへやら・・・。
発掘された壁画や古墳自体の保存や管理の難しさもあれば、致し方ないか。
キトラ古墳は7世紀末から8世紀初頭に造られたと考えられている。被葬者は皇族か側近の高官だろうという説もあるがわかっていない。墳丘は2段になっており下段の直径が13.8m、中央に石室があり、その内部は幅約1m、長さ約2.4m、高さ約1.3m、壁4面に玄武・青龍・朱雀・白虎の四神と十二支、天井に天文図と日月の壁画が描かれていた。石材は二上山から切り出された凝灰岩が使われている。これらは墳丘に隣接して建てられた壁画の保存管理施設「四神の館」で見ることができる。古墳一帯は国営飛鳥歴史公園キトラ古墳周辺地区として整備され、古墳は国の特別史跡に、5面の壁画は国宝に指定されている。
(「四神の館」のお許しをいただいてパンフレットから転載)
(北壁: 玄 武)
(西壁: 白 虎)
さして古代史に詳しいわけではない。なので全くの素人考えだが、仏教伝来のころを境にして古代の美術というのは大きく変化しているような気がする。仏像のような複雑で高度な立体造形やキトラ古墳や高松塚古墳の色彩豊かな絵画、これらが歴史上突然現れてくるのはやはり大陸からの渡来人の貢献が非常に大きいと思わざるを得ない。一体どれだけ多くの人々が大陸から渡って来たか。渡来人とひとことで言っても朝鮮半島から来た人々もいれば、中国から東シナ海を渡って直接来た人々もいるらしい。石室に描かれた四神は中国の神話の神である。これは日本に根付くことはなかったが、朝鮮半島、百済から伝わった仏教は見事に根付いて発展した。飛鳥時代は日本の国の形が未だ定まらぬ権力闘争の激しかった時代、どこでどんな歴史の綾が働いたか、そんなことがわかれば決して大きくはないこんな墳墓からでも絢爛たる歴史絵巻が誕生しても不思議ではない。そんな気がする。