二上山の次は自然と當麻寺に足が向く。「たいまでら」と読む。近鉄南大阪線の駅名は当麻寺だが寺の名前は旧字体で當麻寺。住所名も當麻。ちなみに折口信夫の小説「死者の書」は地名に当麻の字をあて「たぎま」というルビを振っている。山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた地名という説にちなんだものだろう。また寺の名前も万宝蔵院と、當麻寺の前身といわれる寺の名前を使っている。また、能の当麻は「たえま」と読む。
創建については正史に記録がなくはっきりわからないらしい。當麻寺のパンフレットによると推古天皇20年(612年)に聖徳太子の異母弟麻呂子王によって創建、天武天皇10年(681年)に現在地に移されたという。
*****
仁王門をくぐって境内に入ると、背景に二上山。この寺が二上山の麓に抱かれるようにしてあるのが実感できる。山は寺の西、仁王門は東。南はどうなっているかというと山が迫っていて門はない。仁王門がいわば正門にあたるようだ。そして鐘楼が目に入る。梵鐘は国宝。銘がないため製作年は不明だが作風から日本最古級、七世紀の作と考えられている。
鐘楼の先、左手に中之坊がある。中之坊はもとは役行者が開いた道場。中に入ると、すぐ右手に中将姫が剃髪されたお堂と伝わる「剃髪堂」(上の写真)がある。本尊は十一面観音(導き観音)を祀っている。
建物の南側は「香藕園(こうぐうえん)」という庭園。国の名勝、史跡にも指定されており、大和三名園にもかぞえられるという。心字池を挟んで対面に三重塔(東塔)を借景とし立体感あふれる眺めを創り出している。花のきれいな季節に書院にすわってお茶でも飲めば気持ちよさそうだ。
當麻寺の三重塔は東塔(左)が奈良時代、西塔(右)が平安時代の創建とみられるが、西塔は飛鳥時代に建てられたものを再建したという説もあるようだ。いずれにしても東西両塔が創建当時のまま現存しているのは當麻寺だけという。ともに国宝に指定されている。
国宝ではないが金堂に置かれた四天王像(重文)は印象に残った。法隆寺の四天王像もそうだが後世の四天王像に比べるとポーズがおとなしくほぼ直立不動、手や剣を振り回していないし憤怒の表情もない。四天王像のポーズや表情が変わり始めたのはどうやら東大寺の戒壇院の四天王像あたりかららしいが、後世の邪鬼を踏みつけ怒髪天を突くような増長天像というのはどうやっても好きになれない。はっきり言って嫌いなのだが、當麻寺の増長天は実に寡黙な表情をしており、知的というか、哲学者のような顔をしている。寺のパンフレットにも使われているが一見の価値ありだと思う。
*****
さて、中将姫が一夜にして織り上げたという伝説の當麻曼陀羅、これは寺では根本曼荼羅とよんでいるが、損傷が激しく非公開になっている。曼陀羅堂で一般に公開されているものは16世紀文亀年間に転写されたものということで、これも重文に指定されているが織物ではなく絵画らしい。「らしい」というのはこの文亀本當麻曼陀羅には前面にネットがかけられており、それを薄暗いお堂の中で見るので識別できなかったのだ。
根本曼荼羅は縦横4m近い大きなもので、先染めした絹糸を使ったつづれ織りということが調査で分かっている。。つづれ織というのは織物において、色のついた横糸をだぶつかせ柄を描いてゆき、縦糸が見えないように打ち込みを多くした織り方だそうで、現代の西陣織などでも一日に数センチしか織れないこともあるという非常に手間のかかる織り方らしい。つづれ織の起源はエジプトで、シルクロードを経て東洋に伝わり、日本には飛鳥時代に遣隋使や遣唐使が持ち帰ったものと考えられている。中将姫の伝説は伝説としてロマンを楽しむとして、当時の日本に精緻な絵柄を持ったこの大きな曼陀羅を織るだけの技術があったかどうかは疑問の残るところで、学術的には大陸で作られたという説が有力らしい。
曼陀羅堂ではわからなかったが、家に戻って印刷物で見ると、なるほど美しい曼陀羅で、いずれ折を見て再訪し、じっくりと見てみたいと、そう思った。