二上山に沈みゆく夕日。撮影は3月14日午後5時50分頃。撮影場所は大神神社に隣接する久延彦神社。彼岸の中日、春分のころになると夕日は、この二上山の雄嶽と雌嶽の中間、鞍部に沈む。それでこの山には西方の極楽浄土への入り口があるという信仰が生まれた。
この二上山のふもとに中将姫の伝説で知られる當麻寺がある。伝説によると中将姫は出家する前から『称讃浄土佛摂受経』1000巻の写経を成すなど仏行に励み、當麻寺に入って尼となってからは仏の助力を得て、蓮糸で観無量寿経の曼陀羅(当麻曼陀羅)を一夜にして織り上げたといわれる。29歳で入滅、その時阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、生きたまま西方極楽浄土へ向かったとされる、そういう話である。
折口信夫はこの中将姫の伝説を下敷きにし「死者の書」という幻想的な小説を書いた。小説は二上山に眠る(大津皇子らしき)俤びとと藤原南家の郎女(中将姫)の霊的交感のようなものから始まり、曼陀羅を描き上げた郎女が極楽浄土へと旅立ってゆくと思われるシーンで終わる。小説の中では具体的に「阿弥陀如来」も「来迎」も明示的には描かれてはいないが、この小説について「山越しの阿弥陀像の画因」という文章で、日本独特の構図である山越しの阿弥陀像という来迎図が生まれた由来を考える中で書き継いできた「山越しの弥陀をめぐる小説、といってもよい作物」であると語っている。
また、平安時代の恵心僧都の作と伝わる金戒光明寺の山越阿弥陀像の上に押された色紙に書かれた七言律一首について
『「……光芒忽自二眉間一照。音楽新発耳界驚。永別二故山一秋月送。遥望二浄土一夜雲迎」の
句がある。故山と言うのは、浄土をさしているものと思えるが、尚意の重複するものが
示されて、慧心院の故郷、二上山の麓ふもとを言うていることにもなりそうだ。』
と述べ、更に
『此図の出来た動機が、此詩に示されているのだろうから、我々はもっと、「故山」に執して
考えてよいだろう。浄土を言い乍ながら同時に、大和当麻を思うていると見てさし支えは
ない。』
と述べている。
とすると金戒光明寺の山越し阿弥陀像に描かれた山のモデルとなったのは、この二上山ではないかと折口信夫は考えたのだろうし、であればこそ二上山に阿弥陀如来が来迎し極楽浄土へ姫を迎え入れる物語も書く理由があったとはいえるだろう。
目の前に実際の二上山を見、そこに山を見下ろすような巨大な阿弥陀像を想像してみる。この壮大なイリュージョン、それはそのまま古代の人々の想像力の大きさに他ならないということに思いを至そう。
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さて、束の間の幻から醒めて、二上山。国道165号線から撮った姿である。東京八王子の高尾山の標高が600m、こちらは雄岳で標高517m、さしたる高さではないとナメてかかったら、坂が思いのほか急でえらい目にあった。途中、雄岳頂上の手前にあった大津皇子の廟所を見逃してしまった。頂上にあるとばかり思い込んでいたのだが、息も絶え絶えで、坂を下ってまた登りなおす気には到底なれず結果パス。
下の写真は雌岳頂上。こちらは整地され見晴らしも良く、公園ぽくなっていた。標高474m。
雌岳から見た三輪山方面(中央より左よりの山並み)。午後になって気温が上がって、靄が出て山並みの輪郭がぼけてしまったのが残念。