檜隈寺跡。ひのくまでら、と読む。キトラ古墳からほど近い丘の上、於美阿志(おみあし)神社の境内に古代寺院の痕跡、講堂や塔の礎石が残っている。
於美阿志神社の祭神は阿知使主(あちのおみ)。阿知使主は百済を経て日本に来た漢人で日本書紀によると応神天皇の20年に「己が党類十七県を率て、来帰り」とあるそうだ。応神天皇の実在についてははっきりしないことが多いらしいが実在したとしたら3世紀から4世紀にかけての時代らしい(5世紀という説もあるようだ)。このころの日本は朝鮮半島にも中国(晋・宋)にも折にふれ人を派遣しており、向こうから人が来る環境のようなものはかなり整っていたのだろう。「党類十七県」がどのくらいの人数だったか、阿知使主は後の大和朝廷で次第に勢力を伸ばしてゆく東漢氏(やまとのあやうじ)の祖と言われている。
そして、その彼らが拠点としたのが檜隈の地で、檜隈寺は東漢氏の氏寺だったとされている。
(講堂跡の礎石)
(塔跡に残る十三重石塔・重要文化財)