その24 奈良・明日香へ(12) 天武・持統天皇陵 | ココハドコ? アタシハダレ?

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自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

高松塚古墳から橘寺、川原寺跡方面へ向かう途中に天武天皇と持統天皇が合葬された檜隈大内陵がある。

 

第40代天武天皇は天智天皇と父母を同じくする兄弟で、天智天皇の死後、672年の壬申の乱で大友皇子を破って即位する。天武天皇は一人の大臣も置かず自ら政務をみた。自らが君臨しかつ統治した点で、日本史上でもまれな天皇専制をなしとげたといわれる。日本ではじめて天皇を称したのも、「日本」という国号を採用したのも天武天皇とする説が有力らしい。

 

鸕野讚良(うののさらら=持統天皇)は天智天皇(中大兄皇子)の娘で13歳で大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。したがって天武天皇とは叔父と姪の関係になる。天武天皇の即位にともない皇后、天武天皇崩御後、皇太子の草壁皇子も間もなく薨去、草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)の成長を待つ形で自ら天皇として即位した。

ちなみに、持統天皇の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。石川麻呂は蘇我入鹿のいとこにあたるが、入鹿を暗殺した乙巳の変(いっしのへん)では中大兄皇子についた。にもかかわらず、その後中大兄皇子に謀反の嫌疑をかけられ自害している。

そういう過酷な政争の渦中にあって遠智娘は中大兄皇子との間に大田皇女と鸕野讃良皇女(持統天皇)を産み、中大兄皇子はそのふたりを大海人皇子に与えている。大海人皇子との間に大田皇女は大津皇子を、鸕野讃良皇女(持統天皇)は草壁皇子を産んでいる。母大田皇女を早くに失くし有力な後援者のいなかった大津皇子を謀反の嫌疑で刑死させたのは持統の陰謀という説もある。いずれにせよ天武天皇を補佐して様々に政治について助言、自らも政務を執った有能な女性だったことは確かなようだ。

 

 

 

墳丘の構造は下の写真の通り。持統天皇は火葬された最初の天皇と言われているが、墓は鎌倉時代に盗掘にあい、銀製の骨壺は盗まれ、遺骨は路上に捨てられ散逸したという。

 

 

 

 

 

 


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