その25 奈良・明日香へ(13) 飛鳥宮跡 | ココハドコ? アタシハダレ?

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自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

昔々。高校卒業の春、卒業旅行みたいな一泊の旅。初日奈良を歩き、夕方、桜井からバスで多武峰の談山神社前にあったユースホステルに1泊。翌朝、そこから山を下って明日香村へ出た。飛鳥寺や山田寺跡などを見て、最後は橿原神宮までずっと歩きとおした。その時撮った写真が下。当時、ここは発掘調査の真っ最中だった。伝承で飛鳥板蓋宮跡と言われていた場所で、後に「伝・飛鳥板蓋宮跡」という名がついた。

 

   

(発掘調査中の伝・飛鳥板蓋宮跡)

 

板蓋宮は皇極天皇の皇居で、645年の乙巳の変の舞台となった。宮中で蘇我入鹿が刺殺され、父の蝦夷も自害、ここから中大兄皇子、中臣鎌足らによる大化の改新が始まった。皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位すると皇居はいったん難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)宮に遷るが、654年孝徳天皇崩御に伴い皇極上皇は板蓋宮において再度斉明天皇として重祚した。蘇我氏の専横から朝廷へ権力を取り戻した、そういう歴史上の大事件の舞台となった場所である。

 

 

(整地されて現在は「飛鳥宮跡」となっている)

 

そして現在。かって私が訪れた飛鳥板蓋宮跡と言われた場所は発掘調査が進んでゆく中で、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかってきたらしい。今では飛鳥板蓋宮の遺構だけでなく飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮の遺構もあることがわかってきて、史跡名称も「飛鳥宮跡」と変更された。

遺構が重なっているということは、一番上にある遺構は浄御原宮の遺構ということだろうか。まだ付近では長期にわたる発掘調査が続いているためか、この場所についての具体的な説明を近くで見つけることができなかった。

 

浄御原宮は壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江大津宮から飛鳥に都を戻すためこの宮を造り、ここで天武天皇として即位した。以後天武・持統の二代の皇居となり、ここで大宝律令の前身となる飛鳥浄御原令が制定されている。

 

ということは、この場所は大和朝廷による日本建国のメイン・ステージだった、そういうことなのだ。

 

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地中深く広がる古代の王宮の遺構。かってここには都市があった。

その、歴史という時の流れに限りない慈しみを覚えるためには

なんとしても、この田園の風景が必要だ。

 

そう思うのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 


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