ココハドコ? アタシハダレ? -84ページ目

ココハドコ? アタシハダレ?

自分が誰なのか、忘れないための備忘録または日記、のようなもの。

山田寺は以前来た時も今も誰も住んでいないようで古びた観音堂と庫裏が建っているだけである。

ただ、この小さな土地の裏側に発掘調査された寺の跡がきれいに整地され公園のようになっていた。前に来た時は畑だったか田んぼだったか、記憶にないが農地が広がっていたように思う。

 


山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の発願により641年に建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。石川麻呂は、蘇我馬子を祖父とし、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたるが中大兄皇子、中臣鎌足らが起こした645年の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)では中大兄皇子の側について、その後右大臣にもなっている。それが自害に至るのは異母弟・蘇我日向が石川麻呂に謀反の意思ありと密告したからである。石川麻呂は抗戦せず完成前の山田寺の仏前で一族とともに自害したが、この謀反については陰謀説や冤罪説もあり真相はわかっていない。



(金堂跡 後方の建物が庫裏)

 

(回廊跡)

 

石川麻呂自害事件の後も数度の中断をはさみつつも寺の造営は進められており、天武天皇の時代、685年に丈六の薬師如来像の開眼がなされている。

石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、当時石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の妃となっており、さらにその娘鸕野讃良皇女(うののさらら)も天武天皇の皇后(のちに持統天皇)として造営の後ろ盾になったと推定されている。

 

 

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上記の薬師如来像は、その頭の部分だけが残っており、現在は「山田寺仏頭」として興福寺国宝館で見ることができる。記録によると1187年、興福寺の僧兵が山田寺を焼き討ち、薬師三尊像を強奪し興福寺の東金堂に据えたという。山田寺はこの時焼失したとみられている。ただ興福寺も東金堂が1411年に火災にあい薬師三尊像の両脇侍(日光菩薩・月光菩薩)は救出されたものの薬師如来像は頭部を残して焼け落ちたという。その後この仏頭は忘れ去られたままになっていたが、1937年東金堂の解体修理中に発見された。
 

実にのびやかな他に類を見ないほど美しい顔をした仏様である。

 

 

 

 

 


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飛鳥寺は蘇我氏の氏寺として588年に蘇我馬子により発願され、596年に創建された日本で最初の仏教寺院である。飛鳥寺には複数の呼称があり法号は「法興寺」または「元興寺」という。現在の飛鳥寺は蘇我馬子が建立した法興寺の中金堂の跡にあたる場所に建てられたもので「安居院(あんごいん)」という。また718年に平城京に移った寺は「元興寺」と称している。

 

 

 

7世紀にはいると百済、高句麗、ついで呉から多くの僧が渡来、相次いで飛鳥寺に入寺している。飛鳥白鳳期にあってはこの渡来僧が学問仏教の先駆をなし、三論・法相の教学の中心となっていった。  当時としては唯一の仏教教学の研究機関であり、やがて朝廷からの庇護も受けるようになったようだ。645年の乙巳の変ではこの寺が蘇我氏討伐の本陣となっており、すでに蘇我氏の氏寺という以上に朝廷との強いつながりを持っていたらしい。
 文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて正式に朝廷の保護を受けるようになり、平城京遷都後も元興寺が南都七大寺の一として朝廷の保護を受け続けている。

 

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仏像は撮影禁止の寺院がほとんど少だが、ここはありがたいことに許可してもらえた。

飛鳥寺の本尊釈迦如来像である。飛鳥大仏の通称で知られる。605年推古天皇の誓願により造立が始まり609年に完成したと言われている。法隆寺の釈迦三尊像と同じ鞍作止利(くらつくりのとり)の作。中国北魏の仏像の様式の影響を受けた、古式の衣文や服制、杏仁形の眼、アルカイックスマイルなどに仏像の特色があるとされている。銅造である。鞍作止利は祖父が南梁からの渡来人と言われる司馬達等(しばたつと)で、彼ら渡来人によって大陸伝来の卓越した鋳造技術を用いた造像とされている。

 

寺は887年と1196年、二度にわたる火災で焼失し、室町時代には廃寺同然、この釈迦如来像は雨ざらしだったという。当初あったとされる左右の脇侍像もいつのまにか失われ、本尊自身も大きな損傷があった。あちこち補修を受けながら、それでも生き延びた。飛鳥時代以来座り続けている現在の台座から動いたことはないことがわかっている。上の大仏殿の写真で見るように、建物の前に並ぶ石はかって法興寺と言われた時代の中金堂の礎石である。この仏様は自身を容れる建物が変わってもずっとここにいたのである。ずっとここにいて、時代の移りゆく様を見ていたのである。

 

奇跡としか言いようがない日本最古の仏像である。  合掌。

 

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この仏様に見守られながら、ずっと一緒にここに佇んでいたのか、蘇我入鹿の首塚。向こうは甘樫丘。


飛鳥寺

 

 

 

 


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昔々。高校卒業の春、卒業旅行みたいな一泊の旅。初日奈良を歩き、夕方、桜井からバスで多武峰の談山神社前にあったユースホステルに1泊。翌朝、そこから山を下って明日香村へ出た。飛鳥寺や山田寺跡などを見て、最後は橿原神宮までずっと歩きとおした。その時撮った写真が下。当時、ここは発掘調査の真っ最中だった。伝承で飛鳥板蓋宮跡と言われていた場所で、後に「伝・飛鳥板蓋宮跡」という名がついた。

 

   

(発掘調査中の伝・飛鳥板蓋宮跡)

 

板蓋宮は皇極天皇の皇居で、645年の乙巳の変の舞台となった。宮中で蘇我入鹿が刺殺され、父の蝦夷も自害、ここから中大兄皇子、中臣鎌足らによる大化の改新が始まった。皇極天皇は退位し孝徳天皇が即位すると皇居はいったん難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)宮に遷るが、654年孝徳天皇崩御に伴い皇極上皇は板蓋宮において再度斉明天皇として重祚した。蘇我氏の専横から朝廷へ権力を取り戻した、そういう歴史上の大事件の舞台となった場所である。

 

 

(整地されて現在は「飛鳥宮跡」となっている)

 

そして現在。かって私が訪れた飛鳥板蓋宮跡と言われた場所は発掘調査が進んでゆく中で、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかってきたらしい。今では飛鳥板蓋宮の遺構だけでなく飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮の遺構もあることがわかってきて、史跡名称も「飛鳥宮跡」と変更された。

遺構が重なっているということは、一番上にある遺構は浄御原宮の遺構ということだろうか。まだ付近では長期にわたる発掘調査が続いているためか、この場所についての具体的な説明を近くで見つけることができなかった。

 

浄御原宮は壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江大津宮から飛鳥に都を戻すためこの宮を造り、ここで天武天皇として即位した。以後天武・持統の二代の皇居となり、ここで大宝律令の前身となる飛鳥浄御原令が制定されている。

 

ということは、この場所は大和朝廷による日本建国のメイン・ステージだった、そういうことなのだ。

 

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地中深く広がる古代の王宮の遺構。かってここには都市があった。

その、歴史という時の流れに限りない慈しみを覚えるためには

なんとしても、この田園の風景が必要だ。

 

そう思うのは私だけだろうか。

 

 

 

 

 


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