山田寺は以前来た時も今も誰も住んでいないようで古びた観音堂と庫裏が建っているだけである。
ただ、この小さな土地の裏側に発掘調査された寺の跡がきれいに整地され公園のようになっていた。前に来た時は畑だったか田んぼだったか、記憶にないが農地が広がっていたように思う。
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の発願により641年に建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。石川麻呂は、蘇我馬子を祖父とし、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたるが中大兄皇子、中臣鎌足らが起こした645年の乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)では中大兄皇子の側について、その後右大臣にもなっている。それが自害に至るのは異母弟・蘇我日向が石川麻呂に謀反の意思ありと密告したからである。石川麻呂は抗戦せず完成前の山田寺の仏前で一族とともに自害したが、この謀反については陰謀説や冤罪説もあり真相はわかっていない。
(金堂跡 後方の建物が庫裏)
(回廊跡)
石川麻呂自害事件の後も数度の中断をはさみつつも寺の造営は進められており、天武天皇の時代、685年に丈六の薬師如来像の開眼がなされている。
石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、当時石川麻呂の娘遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の妃となっており、さらにその娘鸕野讃良皇女(うののさらら)も天武天皇の皇后(のちに持統天皇)として造営の後ろ盾になったと推定されている。
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上記の薬師如来像は、その頭の部分だけが残っており、現在は「山田寺仏頭」として興福寺国宝館で見ることができる。記録によると1187年、興福寺の僧兵が山田寺を焼き討ち、薬師三尊像を強奪し興福寺の東金堂に据えたという。山田寺はこの時焼失したとみられている。ただ興福寺も東金堂が1411年に火災にあい薬師三尊像の両脇侍(日光菩薩・月光菩薩)は救出されたものの薬師如来像は頭部を残して焼け落ちたという。その後この仏頭は忘れ去られたままになっていたが、1937年東金堂の解体修理中に発見された。
実にのびやかな他に類を見ないほど美しい顔をした仏様である。