Shel Silverstein を知っていますか?
「ぼくを探して」はとてもヒットした絵本童話だと思うのですが、現実的には知らない人の方が多いみたいですので、簡単に説明しますね。
「ぼく」は円から円弧を切り取ったような形をしています。
私の年代なら「パックマン」を思い出すとわかりやすいかも。
「ぼく」は「何かが足りない」と思っていて、足りない何かを探して旅にでます。
円弧を切り取った円なのですから、足りないのはその円弧だと、読んでる人間にはわかります。
「ぼく」も旅の途中にいろんな円弧に出会い、足りない部分にはめてみます。
それはちょっと大きすぎたり、小さすぎたり、短すぎたり、長すぎたり。
なかなかぴったりの相手に出会えませんが、それでも「ぼく」は、歌を歌ったりしながら楽しく旅を続けます。
そしてやっと「足りない相手」と巡り会いました。
めでたしめでたし……とはいかないんですね。
「足りないもの」を得た「ぼく」は、完全な円となり、スムーズにコロコロ転がり続けます。
だけど、もう歌えないんですね。
足りないからこそ、歌えたんです。
この絵本のメッセージは一通りではありません。
後輩男子は、
「別れた彼女からこの絵本をもらいました。どういう意味だと思います?!」
って言ってました。
どういう意味かは別れた彼女にしかわかりませんが、多分、
「一緒にいて楽しくない」
って意味なのかなと想像します。
本当に、いろんな意味に受け取れる童話でしょ?
シルヴァシュタインは、そういう絵本ばかり書いてます。
私が彼を知ったのは「大きな木」原題は「giving tree」です。
私の高校は、イギリス国教会系の学校……つまり、プロテスタント系の学校で、朝礼でクリスチャンの教師がこの絵本を紹介してくれました。
主人公はりんごの大きな木。
木は少年と仲良しです。
少年はりんごの木陰で時間を過ごすのが大好きでした。
少年は大人になり、いろいろ必要になります。
りんごの木はまずりんごの実を与え、それで足りないと木を切らせて船になり、最後は切り株を少年だった男の休憩の場として差し出すのです。
そしてりんごの木は「幸せだった」んですね。
キリスト教系の学校で聞いたからか、私はこの木がイエス・キリストと重なりました。
神の愛「アガペー」とは、こういう愛なんじゃないかと思った。
苦痛を感じるまで与える愛です。
ゴールデンウィーク最終日、天気は雨だし予算は使ってしまったし、家で何を過ごそうかとアマゾンプライムビデオで「紙の月」を観ました。
宮沢りえちゃん主演の映画で、「すごい」と評判になってたんで、気になってたんです。
主人公は評判の良い銀行員だったけど、恋人に貢ぐために横領に手を染め、破滅してしまう。
そして彼女は貧しい国の子どもたちに寄付するために、父親のお金を盗んだ過去を持っています。
で、「あ~この主人公はGiving treeなのね」って思った。
とにかく、与えるのが幸せな人。
恋人のことなんて、本当は好きでもなんでもないんです。
ただ、与える対象がほしい。
与え続けることで逸脱してしまうのだけど、それで幸せなんです。
義賊。
不正に富んだ者から盗み、むくわれない人たちに与える。
それが幸せだという人。
それは本当の正義ではありません。
だから当然、いつかは行詰ります。
自分の度量の範囲で与えるのが「常識」なのに、誰かから盗み取って与えるなんて、続くはずがない。
だってその「誰か」は、与えることに同意してないんだから。
本当ならば、その誰かに「与える」ことに同意してもらわなくちゃいけないのに、その手間は惜しんでるんです。
手間を惜しみつつ、与えたい。
無理がありすぎます。
だけど、幸せなんですね。
だって、与えるって、ものすごく幸せなことじゃないですか。
あまりにも身勝手だけれど、逸脱できない人間には、なんか羨ましく見えてしまう(笑)
「それはダメだろ」と思うのに、羨ましい。
だけど一線は越えられない……という役どころが小林聡美で、これがもう、絶品でした。
どっちが正解なんでしょうね。
正しい場所にいて、苦しんでる人を見捨てるのと。
いろいろ間違いながらも、欲しがってる人に与えるのと。
私は……自分が思える「正しい場所」にいたいと思います。
そうじゃなきゃ、いつか行詰って動けなくなるから。
でも、「正しい場所」って、どこなんでしょうね?
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