【年齢の数え方】
古事記に第九代開花天皇までで
崩御年齢が記載されているのは10名いる。
安寧天皇49歳
懿徳天皇45歳
考安天皇123歳
孝霊天皇106歳
開化天皇63歳
【考察】
架空の物語に記された年齢の由来を考えてみても意味がない、
という声が聞こえてきそうだ。
しかし太安万侶が意味もなくこのような数字を書くだろうか。
信用できるかどうかは別にして、
ここに出てくる数字が記された原資料が
安万呂の手元にあったのではないだろうか。
安万呂がでっちあげるのであれば
全員を50歳から70歳くらいにしておけば何の問題もない。
しかし古事記にはこのような数字が残されているのである。
以下はこじつけである。
上記の10名を3グループに分けてみる。
A. 日子穗穗手見命580歳
B. 綏靖天皇45歳、安寧天皇49歳、懿徳天皇45歳、
孝元天皇57歳、開化天皇63歳
C. 神武天皇137歳、孝昭天皇93歳、
考安天皇123歳、孝霊天皇106歳
A、B、Cはそれぞれ時間か空間を共有していると考えてみた。
A.はひとり。日子穗穗手見命は580歳が死亡年齢である。
彼の年齢はおそらく月の運行を見て数えたものであろう。
日子穗穗手見命が生まれてから死ぬまでに、
月の満ち欠けが580周期行われた。
月齢のことはよくわからないので、
580歳を仮に13で割ると44歳余ということになる。
Bは現在に生きる我々にとってもあまり違和感がない。
何らかの関係で太陽暦に換算してあると考えられそうだ。
Cは所謂「二倍年暦」、
『魏略』に
「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」
とあるように、
春と秋に1歳ずつ年を取るとする考え方。
神武は68歳余、孝昭は46歳余、孝安は61歳余、孝霊は53歳となり、
ほぼ人間の死亡年齢として現実味を帯びている。
古事記が天武天皇のコンセプト通りに
「百王相続」であると考えると無理が生じる。
古事記が記すように神代の昔から大和朝廷が継続していたのではなく
日本のいろいろな地域に、
有力な勢力が複数存在していたことを前提するならば、
古事記が7世紀末の豪族たちから
それぞれの氏族に伝わる説話や系譜を提出させて、
集まってきたものを切り貼りして作られたものだと考えると、
上記のABC分類が妥当ではないかと思うがいかがであろうか。
古事記においては崇神天皇以下にも当てはまるので
トライしてみてほしい。