【崇神以降の崩御年齢(崩御した年の干支)】
崇神天皇168歳(戊寅) C=二倍年暦使用
垂仁天皇153歳 C
景行天皇137歳 C
成務天皇95歳(乙卯) C
仲哀天皇52歳(壬戊) C
神功皇后100歳 C
応神天皇130歳(甲午) C
仁徳天皇83歳(丁卯) CorB=太陽暦使用
履中天皇64歳(壬申) BorC
反正天皇60歳(丁丑) BorC
允恭天皇78歳(甲午) BorC
安康天皇56歳 BorC
雄略天皇124歳(己巳) C
清寧天皇(不記載)
顕宗天皇38歳 B
仁賢天皇(不記載) B(本文の内容から)
武烈天皇(不記載)
継体天皇43歳(丁未) B
安閑天皇(不記載、乙卯)
宣化天皇(不記載)
欽明天皇(不記載)
敏達天皇(不記載、甲辰)
用明天皇(不記載、丁未)
崇峻天皇(不記載、壬子)
推古天皇(不記載、戊子)
【考察】
日子穗穗手見命の死去した時の年齢580歳が、
月の満ち欠けの周期(28日で1周期)で数えたと考えると
44歳余ということになり現実性を帯びてくる。
古事記の中にも500歳を超えるような年齢はここにしか出てこない。
神代記に唯一出てくる年齢である。
(この580歳は「坐高千穗宮、伍佰捌拾歲」と記されているので、
海幸彦を滅ぼした後支配者になっていた期間との解釈も可能だが、
どちらにしても
月の満ち欠けの周期を基準にしていると考えることはできる。)
Bの太陽暦に換算していると考えられるのは、
欠史八代で5名、崇神以降で3名。合わせて8名。
Cの二倍年暦と考えられるのは、
神武、欠史八代の内の3名、崇神以降では9名、合わせて13名である。
BともCとも考えられる天皇が崇神以降に4名いる。
A、B、Cはそれぞれの経過を経て記録を残しているので、
別の勢力と考えるのが合理的であろう。
継体天皇の43歳を最後に
古事記には天皇の崩御年齢の記載がなくなるが
その理由はわからない。