【7世紀までのマクロ的古代史】

5世紀の倭の五王は中国の冊封体制の中にあって勢力の拡大を図った。

6世紀初頭中国の斉が滅び、梁が起こると当初は朝貢したが、

502年の征東大将軍の授号を最後に中国の正史に登場しなくなる。

次に中国の正史に姿を現すのは『隋書』俀国伝。

601年俀国王多利思北孤は隋の高祖文帝に使者を送っている。

さらに607年には「日出づる処の天子」と自称して

対等外交を迫ったことが記されている。

対等外交を迫った俀国(倭国)は隋から断絶され、

続いて起こった唐とも新羅を通じて細々と関係を繋げる状態が続いた。

7世紀後半になり唐と新羅が同盟を結んで百済、高句麗を滅ぼすことになる。

この時倭国は唐と新羅の同盟に相対して百済救済、高句麗救済に動くが、

白村江の戦などで完敗し一挙に勢力を失う。

約2000名を乗せた唐の船団が筑紫に来たとの記述が

『日本書紀』に記載されている。

この時近畿に存在した日本国の前身王朝は「小国」(『旧唐書』による)で、

倭国の支配下にあったと考えられる。

倭国にとって幸いしたのは韓半島の主導権を巡り

唐と新羅が敵対し6年間にわたる戦争状態に入ったことだった。

その間に、白村江の戦などの唐・新羅軍との戦いに

ほとんど参戦しなかった日本国と、

敗戦によって大きなダメージを受けた倭国は

勢力関係に変化が生じた。

さらに天武7年(678)12月の筑紫国大地震、

天武14年(685)10月の白鳳南海大地震で

倭国は壊滅的な被害を受け、

倭国と日本国の勢力関係は完全に逆転した。

唐との緊張関係から倭国との関係を悪化させたくない新羅は

頻繁に親善のための使者を送ってきている。

新羅使は倭国と日本国の関係を注視しており、

倭国の主導権を天武朝へ移す画策をした。

686年の「朱鳥改元」は、

倭国の主権を天武朝へ禅譲させた瞬間であった。

 

【倭国と日本国が併存した7つの根拠】

ここでは、壬申の乱に勝利した天武が近畿地方の主導権を獲得した後、

天武紀下巻に記された、

近畿の天武朝(=将来の日本国)と

筑紫の倭国が併存していた根拠を示すと考えうる7つの事柄をとり出してみた。

最後にもう一度箇条書きにして整理してみることにする。

 

①   同時期に2グループの新羅使

天武5年11月~6年8月来朝の新羅使金清平と:天武5年5月に漂着した朴刺破一行

②新羅から3回の豪華な進物の行方

●1回目の進物:太子とは誰のことか

天武8年10月17日条、

新羅、阿飡(官位十七階の第六)金項那と

沙飡(官位十七階の第八)薩虆生を遣わし、朝貢。

調物は金銀鐵鼎錦絹布皮馬狗騾駱駝之類、十餘種。

またそれとは別に、

天皇・皇后・太子それぞれに金銀刀旗之類の獻物があった。

●2回目の進物:筑紫に滞在した新羅使

天武10年10月20日条、

新羅沙㖨一吉飡金忠平と大奈末金壹世を遣わして貢調した。

金銀銅鐵・錦絹鹿皮・細布之類各有數。

別に天皇・皇后・太子にたいしては金銀霞錦・幡皮之類を獻じた。

●3回目の進物:皇太子と太子は同一人物か】

天武14年11月27日条、

新羅使金智祥の官位は波珍飡(十七階の第四位)。

これまでの新羅使の中で最高の位階。

来朝目的は「請政」。

翌朱鳥元年4月19日条には

金智祥から天武朝に送られた豪華な品々が記されている。

細馬一匹・騾一頭・犬二狗・鏤金器、

及金銀霞錦綾羅虎豹皮、

及藥物之類、幷百餘種。

また智祥・健勳等は、以上とは別に獻物をした。

金銀霞錦綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類、各六十餘種。

さらに皇后・皇太子及諸親王等に献じる物が多数あった。

この中で注目されるのが、

これまでの個人別の贈答の時に「太子」と記されていた対象が

ここでは「皇太子」となっていること。

③新羅文武王の薨去の報告

681年7月に文武王が薨去した後、

新羅からは金若弼一行と金忠平一行とが来朝している。

金若弼一行は天武朝、

金忠平は筑紫倭国への

文武王薨去報告の使者だった。

⓸天武紀に記された3ヶ所の京

天武紀には上巻・下巻を通じて

近江・大和・筑紫の3ヶ所に京が記されている。

⑤筑紫までしか来ない高麗使

高麗使来朝の記事には筑紫しか出てこない。

近畿の天武朝廷まで出向いた様子は記されていない。

新羅使に付き添われて筑紫まで来て、

筑紫で饗応を受け、

筑紫から帰国の途についているのが高麗使に共通した行動である。

天武朝と同時期に筑紫には倭国が存在していたとすると、

高麗使は天武朝ではなく倭国に遣使していたことになる。

⑥皇太子の位階

日本書紀の中で、

皇太子に爵位(冠位)が賜与されているのは草壁皇太子だけである。

天武14年正月21日に爵位48階が制定され、

同日に草壁皇子尊に浄広壱位(正四位下相当)が授けられている。

令制では四位と五位は「通貴」で貴族に準じるくらいである。

三位以上が正真正銘の貴族。

天皇・皇后を除けば最も位が高いはずの皇太子である草壁皇子尊が、

貴族でもない通貴の身分ということはどういうことであろうか。

それでは一体三位以上の位階を持つ貴族はどこにいたのだろうか。

天武朝は倭国と併存しており、

制定された冠位48階は倭国の制度、

天武朝は倭国の下部組織であったということだろう。

三位以上の貴族は倭国の中枢部である筑紫の大宰府に集中していたと考えられる。

⑦請政とは何か

天武天皇紀に目的が「請政」となっている新羅からの使節が2回出てくるが、

ここに出てくる「政」を「征伐」の意でとらえると、

新羅が壬申の乱に勝利して近畿地方を制圧した天武天皇に対して

白村江の敗戦で弱体化した倭国を「征伐」することを求めたととることができる。