【岡田英弘「倭国の時代」(2009年、ちくま文庫)から ⑥】
第二 天武天皇は兄の天智天皇の皇位継承を正当化する必要があった。
舒明帝の皇后宝皇女(皇極=斉明帝)には
天智帝、間人皇女、天武帝の3人の子があった。
妃の法堤郎媛(ほほてのいらつめ、蘇我馬子の娘)には古人大兄皇子がいた。
舒明帝の死後、長男の中大兄(後の天智帝)はまだ16歳だったので、
聖徳太子の息子の山背大兄の即位を阻止するために、
皇后宝皇女は自ら即位した。皇極帝である。
舒明帝の葬儀が終わった643年、
蝦夷の息子入鹿は古人大兄を天皇に立てようと計画し、
斑鳩を攻撃し、山背大兄以下の聖徳太子一族を滅ぼした。
権勢を強めた蝦夷・入鹿親子には横暴な振る舞いが目立つようになった。
入鹿に謀反心があると察した藤原鎌子は中大兄に働きかけて、
乙巳の変(645年、大化の改新)を実行する。
乙巳の変で蘇我一族を滅ぼした後、鎌子は中大兄に、
「兄(異母兄)の古人大兄がいる以上、今無理して即位するのは
得策じゃない。ここは舅の軽皇子を立てましょう。」
と諭し、皇極帝が譲位して軽皇子が即位する。孝徳帝である。
孝徳帝の治世の実際の権力者は皇太子となった中大兄であるが、
孝徳紀では中臣鎌子(後の鎌足)を持ち上げて印象付けている。
岡田は「鎌足の曾孫の聖武天皇のためにする作為である。」
と日本書紀の企みを見抜いている。
その後、中大兄は古人大兄を反逆罪で滅ぼし、
662年の白村江の敗戦のほとぼりがさめるのを待って、
668年に即位する。
「舒明天皇の即位から、その長男の天智天皇が最終的に天皇になるまでの
三十九年間に、皇位は舒明→皇極→孝徳→斉明→天智という回り道をし、
中略、
天武天皇は、この皇位が舒明家に固定するまでのいきさつを
正当化しなければならなかったのであった。」
(To be continued)