【岡田英弘「倭国の時代」(2009年、ちくま文庫)から ⑤】
本日は余談として推古紀と「隋書俀国伝」との相違点に言及したい。
岡田は日本書紀の記述の不審な点の例として次のように言っている。
「(推古帝と摂政の聖徳太子について)日本書紀の記述は『隋書俀国伝』の
伝える事実と全く違う。この時代(615年)の俀王は女ではなく、
阿毎・多利思比弧・阿輩雛弥(あめ・たらしひこ・おほきみ)という称号を持つ
男王で、妻もあれば太子もあったことは、疑問の余地なくはっきりしている。
当然、日本書紀が嘘をついていることになる。
中略
(日本書紀で)聖徳太子が天皇でないことによって、
次の舒明天皇の即位が正当化しやすくなることを指摘しておこう。」
岡田は舒明帝即位の正当化のために、
日本書紀が『隋書俀国伝』と食い違う内容を作り上げたとしている。
しかし、推古紀のその部分を読むと理解に苦しむことが多い。
先ず、「隋」とすべきところを全て「大唐」、「唐」、「唐国」と言っている。
天皇家の誰も阿毎・多利思比弧・阿輩雛弥にあてはまらない。
『隋書俀国伝』では俀王は有名な「日出る処の天子、・・・」の
国書を隋の皇帝煬帝に送り、怒りを買ってその後関係が悪化するが
日本書紀では良好な関係を保っている。
私は日本書紀のこの部分は天皇家に伝わる話ではなく、
7世紀の初めの頃に隋と交渉のあった俀国の出来事を
流用したのではないかと思っている。
『隋書俀国伝』に「阿蘇山あり」と出ていることから考えて、
北九州の国(竹斯国)が俀国ではないか。
本日は「日本書紀の読み方」から少し離れた余談に終始したようだ。
(To be continued)