私が育ったような家庭。
それが叶うなんて、かつて荒れていた自分に教えてあげたい。

 

 

 由美ゆみは弓道を始めるような、芯の強い子に育ってくれた。

 

 あの子がもしかしたら嫉妬するかもしれない。
なぜ、私にはそうしてくれなかったのかと。

 

 

 あの子で失敗した経験が生きる。
主人もかつての私の失敗を知るだけに、とても気を遣ってくれた。

 

 由美にはね、お姉ちゃんがいたんだよと償いのつもりで語る。
あちらにいってあの子に会えたなら、許してくれなくても謝らなくては。

 

 

 由美が中学生に上がると、日本社会に大きな変化が起こった。

 

 

 高齢化が進みすぎたため社会保障費が増大し、国は消費税を含めた増税を試みた。

 

 年金も健康保険も、毎月徴収する保険料と、年金は積立金でも維持しているはずなのに、増税とはどういうことだと疑問の声が各地で上がったのだ。

 

 

 政府は抱える国債残高が膨大だと、疑問に対してさらなる問題を突きつけたが、職員の天下り先への出資金や貸付金をはじめとした政府資産残高が積みあがっていることを隠し通すことはできなかった。

 

 

 行政法人が株式会社の株や債権を持ち、その枝葉は会計検査院の検査対象から外れることを利用した税金の流用が明らかとなり、政府が資産を持ちすぎているのではないかという指摘になすすべなどない。

 

 

 時の政府は、政府資産の圧縮を決め、より透明性のある政府会計を実現すべく閣議決定した。

 

 

 その勢いで、省庁間や職制上やり取りする資料や書類などはほぼすべてがデジタル化され、インターネットを介しても通信が可能な独自のプロトコル通信環境の整備が進められた。

 

 

 併せて、人工知能の活用も同時に組み込まれる。

 

 すると、公務員が余る事態となる。

 

 この問題に政府は、最低給付保障制度を採用することにした。

 

 これは、日本国籍を持つ日本国民であれば毎月、登録した本人名義の銀行口座に物価を考慮した給付金が振り込まれるという制度だ。

 

 その代わりに、それまであった年金制度と、健康保険制度、そして生活保護制度を廃止、すべて最低給付保障制度へ移行することとなった。

 

 詳しくはこうだ。

 

 まず、社会保障番号を対象の国民に割り当て、専用のポータルサイトが整備され、様々な手続きを可能とした。

 

 同時に、投票もハッシュ値を活用したトークンで行う事により、有権者は手元の端末で投票ができるようになった。

 

 移行に伴う経過措置として、それまでの不在者投票制度をそのまま活用することとし、従来の投票用紙による投票も一定期間維持された。

 

 最低給付保障制度創設により、精米5kgが1,500円で買える地域であれば、国民一人毎月10万円を本人名義の口座に振り込むこととされた。

 

 夫婦2人であれば合計20万円が、子供が5人いる夫婦合わせた7人家族であれば合計70万円が給付される仕組みだ。

 

 犯罪者は判決で決められる金額になるというペナルティが課されることとなった。

 

 従来の量刑に加え、出所した際の最低給付保障制度対象への復帰時に、通常の給付金に0.9を乗じた金額、10万円であれば9万円になってしまうというペナルティ、一定期間か生涯かは司法の判断によるとされた。

 

 原則、デジタル手続きで行われるが、災害などやむを得ない場合は、それぞれできるだけ最小の行政拠点で現金対応することが決められた。

 

 現金も、デジタル小切手やプリペイド番号方式に順次移行されることが決まっている。

 

 この最低給付保障制度と重複する年金、生活保護の両制度は廃止。

 

 年金機構はかつての社会保険庁と同様廃止、生活保護制度の維持のために審査管理する職員をはじめとした福祉事務所も廃止された。

 

 退職した職員も最低給付保障制度の給付を受けられるため、そのまま退職するかほかの省庁で勤務するか選択が出来るとされた。

 

 最後に健康保険制度だが、
国民健康保険と社会保険は統合され、財団化された。

 

 国民皆保険制度は厳密には廃止された形になる。

 

 医療保険に加入をすれば、ちょっとした病気にも保険金を受けられ、利用を根拠にした医療保険料の引き上げは法律で禁止された。

 

 各医療保険と財団は相互に協力し、国民の健康の増進に資することを目的とすることとされ、特に高額な医療については、子供はすべて、大人は労働年齢人口層、そのほかは資力に応じて割合で保障することとされた。

 

 これにより、もう助からないのがあらかじめわかっているにも関わらず、数百万から数千万の医療費を皆保険で提供するという矛盾が排除された。

 

 同時に、日本国籍を持たないにも関わらず皆保険で医療を受ける矛盾も排除された。

 

 このように、国として未来の国民、つまり将来の納税者となるはずの子供を作らなければならない事と、現在の国民に広く最低限の生活費を保障することで、そうなりやすい環境と不平等感が解消されることとなった。

 

 また、日本国民になれば最低保障給付金を受け取れるようになるという制度は、海外にも注目され、日本版グリーンカードを求めて移住を目標に渡航してくる外国人も徐々に増えていくこととなった。

 

 日本の国籍を取得するためには、最低限日本語の読み書きが可能であることと、労働期間が5年以上で審査資格が得られる。

 

 資格を満たす人物の中から抽選で選ばれ、永住権が付与されるという仕組みだ。

 

 これにより、一定の納税者の確保と、外国人の積極的な来日を後押した。

 

 最低給付保障制度で得られる給付金だけでは、物足りない、または足りないと感じる国民は、そのまま雇用を求め、それで得られる所得からは税金を納めるという形になった。

 

 海外旅行や、より高度な教育、将来の高度な補償外の医療に備えて資産運用をするなどの通貨への需要が、そのまま労働力へとつながった。

 

 現行の学校教育制度は廃止。

 

 インターネットを活用した、動画や教材を活用した個別教育を軸として、高校卒業程度まで学力認定を受ければ、その先の研究施設や海外留学なども選択肢に個人の興味や目標に沿った教育を受けられるように整備された。

 

 自宅で勉強できるだけでなく、学校の代わりに設置された各教務センター内の学習室で同様の学習ができるようになり、教諭資格を持つ職員が運営事務を主な業務とすることで常駐することとなった。

 

 任意で部活やサークルもコーチや監督といった管理者を雇えるのであれば設置できるようにされた。

 

 このように、存在する技術はフル活用、限りある財源を最大限有効活用することを最優先として、国全体が大きく変わったのだった。

 

 もう一人、子供を作ればよかったかもしれない。

 

 

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

 

※この作品は2024年4月5日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 私なんかがそんな人生を送っても良いんだろうか。

 

 

 あの時のおまわりさんで、ずいぶん年上の彼がプロポーズしてくれるなんて思いもしなかった。

 

 

 二十代の頃に流されるまま、求められるままの人生で思い出したくもない過去ばっかりな上に、自分の子供まで死なせた人間なのに。

 

 

 娘にも父にも顔向けできない私は、母まで失ってしまった。

 

 

 確かに死ぬ権利は誰にでも与えられるようになったものの、そんな噂が地域で広まれば、身内の私に世間の目は厳しい。

 

 

 区役所からは働けるなら働いてとせっつかれるが、こんな過去と経歴の私に居場所なんて早々見つかりはしない。

 

 

 仮に運よく見つかっても、自分たちのコミュニティにちょうどいいストレス発散の対象物でしかない異物が入ってきたような扱いだ。

 

 

 誰かをおとしめることで、もともとのコミュニティは円滑に機能するらしい。

 

 結果、役所にお世話になったり、また抜けたりと繰り返してきた人生だったが、もういい加減それにも決着をつけようとやっとの思いで出向いた警察署に彼はいた。

 

 

 そして、私に死んでほしくないと言ってくれた。

 

 

 そんなことを言ってくれる人間がこの世にいるとは。

 

 

 

 なぜ、彼は私にこんなに良くしてくれるのかわからないが、彼の言葉が生きるただ一つの道筋になっていった。

 

 

 警察官である彼の紹介で火葬場の仕事に就く。

 

 

 経済的にも余裕が出た私は、それまで住んでいた地域から引っ越すことができたのだ。

 

 ようやく、あの地域から逃れることが出来た。

 

 ゴミを出すことすらままならなかった。

 

 

 

 人間は、自分よりも確実に劣る、見下せる人間を見つけると容赦がない。

 

 それは中身がない人間ほど顕著なようだ。

 

 そうして自分はこいつよりはマシだという、居場所を確保したいらしい。

 

 

 どうせあの時に無くなっていた命だ。

 

 

 彼には何か恩返しをしないと、それこそ死んでも死にきれないだろう。

 

 向こうでそれこそ父親に怒られてしまう。

 

 俺はなんのために死んだんだって。

 

 

 私は彼のプロポーズを受け入れて、共に生活することにした。

 

 こんな私でもいいのであればと。

 

 

 しばらくして、彼との子供を授かる。

 

 女の子のようだ。

 

 

 彼はこの年で子供を授かれるなんて思いもしなかったなんて言っていたが、それは私も同じ思いでいっぱいだ。

 

 

 また子供を授かれるなんて考えてもいなかった。

 

 彼の両親はすでに他界しているので、この子におじいちゃん、おばあちゃんはいない。

 

 

 せめて私の両親が生きていればと思うが、それを成そうとするなら私は子供時代からやり直さなければならない。

 

 

 最も、そうなると彼と出会う事はなかっただろう。

 

 

 過去の事はいいと受け入れてくれた彼に感謝をするしかない。

 

 

 この子だけは、あの子の分まで精一杯守ろうと心に決めた。

 

 

 彼の職業は人間の闇を扱う。

 

 

 私も、かつてそのお世話になろうとした一人だ。

 

 

 そして、どういうわけか人間の最期を片づける仕事をもらった。

 

 

 純粋に死を悲しむ遺族もいれば、待合室ですでに遺産相続の話で揉めている人たちを目の当たりにする。

 

 

 私たちは、一線の向こうでそれぞれの立場から俗世を観察している。

 

 

 

 この子は人間の真実から目を背けることなく、強く生きていって欲しい。

 

 そう願いを込めて、二人の名前から一文字ずつ取って「由実ゆみ」と名付けることにした。

 

 

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

 

※この作品は2024年4月4日にnote.comに掲載したものです。

 

 

 

 彼女はごくごく一般的な女子高生で、家庭も恵まれている環境に育った。
ただ、携わる環境につきまとう人物に恵まれなかったのだろう。

 

 

 容姿でも能力でも、突出した人物の足を引っ張ろうとする他者のねたみやひがみは、時に一人の人生を大きく狂わす。

 

 

 そういう事だったと思わないと仕方がない。

 

 今頃それらを画策した人物は、ほくそ笑んでいるか、行為自体忘れてしまっているのかもしれない。

 

 

 ただ、忘れてはならないのは私たちの世界は決して、目に見えるものだけしか存在しないとは限らないという点だ。

 

 

 正当な恨みや呪いを買ってしまったそれら人物は、必ずやどこかのタイミングでその代償を支払う事になる。

 

 そして、それは等価とは限らない。

 

 

 例えば彼女は、何も問題なく、普通の家庭を持ち、普通に自分の生涯を全うしたかもしれない。

 

 

 しかし、何らかの欲と妬みと僻みで、彼女の人生を狂わせ、ひいてはそれまで代々続いてきた家の名前まで汚した結果になった。

 

 

 この結果は、彼女の代々続く先祖の恨みを見事に買ったことも同時に覚悟しなければならない。

 

 

 これを仏教用語で因縁と呼ぶが、仮に生まれ変わって理不尽な環境下に置かれたとしても、犯した罪の代償の一部とされ文句は言えないだろう。

 

 

 

 そうして、もはや一人の人間の器では収まらない罪を抱えた人物は、その魂が存在しうる限り罪人として永遠に漂う事になるかもしれない。

 

 

 仮に、成仏できない人間が心霊スポットで漂っているのが事実だとするならば、なぜそうした存在が漂う事になっているのか、答えは出ている気がするがどうだろう。

 

 

 余計な訓垂れで他人の人生を下手に惑わすのも控えた方が良い。

 

 

 生きているうちにはその愚かさゆえに気づけない人間がほとんどで、死んでからしまったと後悔するかもしれない。

 

 

 そしてある意味、その優劣で世界は回っていると考えると納得がいく。

 

 

 彼女は明らかにそれら被害の先で今ここに座っている。

 

 もし、彼女が犯した罪があるとすれば、関わる人間をちゃんと選べなかったことだろう。

 

 

 とはいえ、それだけの代償としてはあまりにも大きい。

 

 子供に対する罪は致し方なく、その子供に償うほかない。

 

 

 彼女は今、仕事をしていないという。
母親がつい最近にこの世を去ってから、思いつめて今という事だろう。

 

 

 僕は当然、彼女に死んでほしくはない。

 

 

 自分の事を私なんて表現したのは後にも先にも、はじめてこの喫茶店で彼女と話した時だけだった。

 

 

 それだけ、彼女の存在は僕にとって特別らしい。

 

 

 思い返すとなんだかむずがゆいが、恥ずかしいことは何一つしていないはずだ。

 

 

 さて、遺体は一定期間安置した後、警察署から火葬場へと運ばれるのだが、その火葬場が人員を募集しているらしい。

 

 

 どうだろう。

 

 

 おそらく、彼女の子供も母親もそこで土に帰ったはずだが、そこに居場所を作ってもらった方が精神的にも安心だ。

 

 

 そう彼女に提案する。

 

 僕もちょくちょく仕事中に顔を出せるし、どうだろうと。

 

 

 それがきっかけとなって、喫茶店で会うのもそこそこに仕事や秘密も共有する特殊な間柄となって、付き合うようになった。

 

 

 年は一回り離れているが。

 

 

 彼女がぴったり30歳になった時とはいかなかったが、次の誕生日に結婚を申し出てみようと思う。

 

 

 

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

 

※この作品は2024年4月3日にnote.comにて掲載したものです。

 

 子供を死なせた。
罪を告白するように打ち明けてくれる。 

 

 

 彼女が思い切って発した言葉に、何と返していいかわからない。

 

 この場面でなければ、他人にこんな話をすることはなかっただろう。

 

 

 外から入る陽の光はとうになくなり、コーヒーの香り漂う店内の明かりが棚に並ぶウイスキーボトルを照らしている。

 

 

 入り口から少し離れた窓際の席が人気で、お客さんがパスタやハンバーグといった料理を楽しんでいる。

 

 これらの料理が美味しいと名が通っている店でもある。

 

 

 彼女をひとまず送り出して、退勤時間までどんなに長く感じたことか。本当に来るかどうかわからないのに。

 

 

 もう二度と顔を見ることはないかもしれない。

 

 気まずければ、他の警察署に行けば済む。

 

 

 そうなると、自分に出来ることはもう何もない。

 

 

 ようやく迎えた退勤時間、同僚から声を掛けられるものの、この後は用事があるからと、軽く受け流す。

 

 

 めずらしいなと笑われ、ちょっとムッとしつつも、こんなこと明らかになったら後日責められるかもしれないと内心びくびくしている事を悟られないようにそそくさと裏口から出た。

 

 

 そうして外を見渡すも彼女の姿など無く、ともかく指定した喫茶店へ駆け込むようにして入って今、窓の外からでもわかるようにカウンターの席に座り、彼女を待つ。

 

 

 この店は少し広いので、店内のジャズBGMに紛れるように奥のボックス席で話せばいいだろう。

 

 

 問題は本当に来るかどうかだ。

 

 あの状況で仕方なかったとはいえ、咄嗟とっさに出た提案だ。
もしかして、伝わっていなかったか。

 

 

 さすがにマスターが席に着くやいなや出してくれたお冷だけでこの時間を耐えることはできない。

 

 コーヒーを注文する。

 

 ようやく落ち着いてきたところで、カウンターの椅子は少し高いので店内が軽く見渡せることに気づく。

 

 

 すると、一番奥にそれらしき人物がうつむいて何かを待つように座っているのに気づいた。

 

 あっと身体が反射的に反応する。

 

 マスターに奥の席に移ることを告げて、彼女の元へ向かった。

 

 

 よかった、いてくれたか。

 

 そう思わず彼女の前で声が漏れてしまった。

 

 

 少しの間きょとんとしていたが、彼女の身体から緊張が抜けていくのを感じた。

 

 簡単なことは署の説明室で話してくれていたが、改めてそうか、子供がいたのかと当時聞いた話も併せて思い出す。

 

 

 単純にあの時もこの時も頭がいっぱいだったので、改めてここで聞く話は新鮮だと、そのまま伝えた。

 

 

 当時はこんなに若いのに、そんないくつも歳を数えることが出来る子供がもういるのかと思った。なのに、あんな夜の公園で途方に暮れている状況が理解できなかった。

 

 

 身元を引き受けに来た彼女の母親も、うちの娘がすみませんというばかりで、詳しい事情は知らない。

 

 

 事件であれば話は別だが、そこまで踏み入ることはできなかった。

 

 

 その母親も、すでにあの地下で先に逝ったという。

 

 わからなかった。
おそらく非番の時だったかもしれないが、気づかなかっただろう。

 

 

 署で日誌や履歴を調べればすぐにわかる。

 

 違う、彼女の話を裏付けている場合じゃない。

 

 

 それはなぜかと少しずつ聞いていく。
彼女は色々な感情を混ぜながら、一言ずつ打ち明けてくれる。

 

 

 傍から見れば、まるで自分が泣かせているようだが、幸い誰かに見られているような様子はない。

 

 

 ちょっとした衝立ついたてがあるので、個室で話しているような感覚になる。

 

 

 子供を失い、次いで母親も失った彼女が自分の身の価値はないと思い込み、あの場へ来るには十分だという理由をようやく理解した。

 

 かけてあげる言葉なぞ見つかるわけがない。

 

 署で聞けた話をわざわざこうして席を設けてまで聞こうとした自分の欲を今告げる。

 

 

 私は君に死んでほしくない。

 

 

 しばらくの沈黙が流れ、彼女はこんな私にそんな価値や資格なんかないと言い張るが、その価値を知ってほしいと言うと、彼女はただ声を殺して泣くだけだった。

 

 

 ただ、彼女がここにこうして目の前に座っている。つまり、道はあると何の根拠もないがそう確信できる自分がいた。

 

 

 これから毎週、ここで話を聞かせてくれないかというと、彼女は涙を拭きながら少しだけ笑ってうなずく。

 

 

 マスターが淹れてくれた今日のコーヒーは、少しだけしょっぱかった。

 

 

 

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

 

※この作品は2024年4月2日にnote.comにて掲載したものです。

 

 

 

 当時は保護したが、今度は見送ることになるのだろうか。

 

 

 いままでどれだけの命を見送ってきたかわからないのに、今回ばかりはそうしたくないという気持ちがあるのはなぜだろう。

 

 

 法律や規則では、あくまで本人の判断を尊重しなければならない。

 

 

 本人が続けるというのであればそうしなければならないし、辞めてくれるというのであれば、もちろんこのまま帰ってもらって構わない。

 

 

 尊重か。

 ならば。

 

 

 彼女は交番での時間あのときを覚えていて、あの時間を自分にもたらした人物が目の前にいることに動揺しているようだ。


 いつもの重苦しい空気とは何か違う。

 

 

 思いつめて、心を決めてここに来る人が多い。でなければ、貸し出される銃の説明を始めたところで恐ろしくなり、我に返る。

 

 

 一度、僕の話を聞いてくれませんかと奥の部屋を前にして小さく告げる。

 

 

 この廊下もだが、部屋の中はもっと監視されているからだ。

 

 彼女はきょとんとしている。

 

 もし、よければ、と続ける。

 

 政府がこの制度を始めて以来、少なくとも線路への飛び込みやビルからの飛び降りは減った。

 

 

 それだけでも、この死ぬ自由という制度は、ある程度の社会の混乱を代わりに引き受けるという役割を果たしている。

 

 

 このことで、生きるか死ぬかの選択は誰のせいでもなく、すべて自分の判断と責任

で決めるという自由が加わり、それぞれが自分の命について考えるきっかけにもなった。

 

 

 他の誰のせいでもない。

 

 

 ただ、この先へ進む人の中には、自分の死という結果を恨む相手に思い知らせることで一生背負う十字架にしてやろう、そんな手段にする人もいる。

 

 

 かと思えば、ただ死にたいとそれだけの人もいる。

 

 

 犯罪を犯した結果、最低給付保障金ベーシックインカムを生涯減らされる判決処分を受け、死ぬまで働いて生きざるを得なくなった人生を嘆き訪れる人もいる

 

 

 事情は様々だが、この施設の目的はただ一つ。

 

 死ぬ自由を形にすることだ。

いつでも死ぬことはできる。

 

 

 それが本当に今なのかどうかだけだ。

 

 できるだけ思い止まってほしい。
そんな我々の小さな願いが叶う事は簡単では無い。

 

 

 その人にとって、人生で最期に会話した人となってしまう私たちには、職責とは別の責任を抱えているように思えてならない。

 

 

 一回一回が心の負担になる。

自分自身で命とはとそれぞれに考えながら、いつもの場所に座っている。

 

 

 彼女は少し考えている。

 

 もしかしたら僕は今、規則に違反したかもしれない。

義務じゃなくて尊重だと、ひらめいての行動だった。

 

 

「はい。」

 彼女が返事をした。

 

 彼女がどういう経緯でここに来たのかまだ聞いていない。聞いていないが、この部屋に入れてしまったらもう戻れない気がする。

 

 

 じゃあ、戻りましょうかと伝える。

 

 

 彼女は静かにうなずくと、どうやらその時は今ではないと決めてくれたらしいとホッとする。

 

 

 このあと夕方に、仕事をあがったら裏の喫茶店で待ってますからと伝えると、また小さく返事が返ってきた。

 

 

 階段の上から、課長から話を聞きつけた同僚が降りてきた。

 

「あれ?」

 あ、今日は、と言いかけると、ホッとした様子で引き返した。

 

 

 彼女を外まで見送ると、また席に戻る。
こんな日があるんだな。

 

 

 課長と目が合うと、ちょっとドキドキしたが特に何も言われなかった。

 

 

 改めて、今日ばかりは出勤していてよかったと思った。

 

 

 

※この物語はフィクションであり、実在する人物や団体とは一切関係がありません。架空の創作物語です。

 

※この作品は2024年4月1日にnote.comにて掲載したものです。