↑のつづき。


さて、神山町のさらに深い世界へ。


神山町南東へと進んだ先の
地名は『鬼籠野(オロノ)』。

名前の格好良さもさることながら、
実はスダチの一大産地である。

海抜200mというこの土地は、
日中は暖かく、朝晩は温度が下がる。

その温度差がスダチの香りを
強くするのだそうな。


鬼籠野(オロノ)』の地名には、
鮎喰川を「肥河」に見立て、
大蛇(オロチ)』との繋がりを想起させる。

また、
別の伝承では、↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昔、この地で里人を苦しめていた
悪鬼を退治するために
天児屋根命である藤原某が
祈祷をしたところ、
六神降臨して神力によって
ここより六丁辰巳の方にある
ケ谷に追い詰めて悪鬼
退治したために
鬼籠野と称したとする伝承がある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

鬼籠野は明らかに当て字であり、
古い表記には「尾呂野」とも書かれていた。

』と『』は、この伝承の後に
用いられたのだろうか。

たどり着いた鳥居。

朝夕の寒暖差が激しいと言われるが、
冬至のこの日は基本極寒である。




手水舎はカチコチに凍っていた…


まるでスケート場のようだ。






拝殿。

『鬼籠野(おろの)神社』

鎮座地 徳島県名西郡神山町鬼籠野字東分
創建 不詳
別称 中一宮大明神
祭神
大日靈尊
金山彦命
埴安姫命
軻遇突智命
句句逎馳命
罔象女命
国常立命






横から本殿。

鬼籠野神社の本殿は町指定有形文化財。

一間社春日造の建物であり、
建立年代は8世紀末頃と推定されている。

神山町神領に鎮座する
『上一宮大粟神社』の分霊を奉祀し、
江戸時代には「中一宮大明神」と
称されていた。

さらに西の徳島市一宮町には
上一宮大粟神社を勧請したと云われる
『一宮神社』が鎮座地しており、
「上」「中」「下」の関係性があるとも。




ここにも素晴らしい樹木が
堂々とそびえ立っている。


阿波特有の五角形『地神塚』。

なぜか大好きです。




大正~昭和時代の歌人『岡本呑洋』の歌碑。



境内には、小さな祠や石碑が
多く祀られている。




神山町には興味深い伝承が多い。


例えば、弘法大師空海さんの逸話↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昔、名西郡神山町に神通力を持った
大蛇が住みついていた。
大蛇は大雨を降らせたり、
大風を起こしたりして、
人々に大きな被害を与えていた。

弘法大師空海が修行のため、
ちょうどこの地を訪れた時も、
大蛇が吐いた火で
目の前の山は真っ赤なの海。
これはただ事ではないと感じた空海は、
人々が止めるのも聞かず、
真言を唱えながら山へ登っていった。

すると、不思議なことに
は順々に消えていったのだそうな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは、
徳島県名西郡神山町下分字地中
四国八十八箇所第十二番札所
焼山寺』辺りのお話。


実はこの伝承にリンクするのが
お遍路の起源と伝わる
衛門三郎』である。

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お遍路は空海が張った結界✡️
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よく言われる都市伝説的な話だが、
正確にはお遍路は
空海が定めたことではない。

江戸時代のガイドブック的なものとして
広まったとも言われるが、
元を作ったのが『衛門三郎』であった。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~
天長年間、伊予国浮穴郡荏原郷
(現在の愛媛県松山市恵原町)を治めていた
河野家の一族に衛門三郎という者がいた。

衛門三郎は欲深く、民の人望も薄かった。

ある時、
みすぼらしい身なりの僧侶が現れ、
托鉢をしようとしたが
衛門三郎は追い返した。

しかし、
翌日から何度も僧侶が現れたため
怒った衛門三郎
僧侶が捧げていたを竹ホウキで
叩き落とすと、8つに割れてしまった。

それ以降、僧侶は現れなくなった。


その後、衛門三郎の家では不幸が続いた。

8人の子供たちが毎年1人ずつ亡くなり
ついに全員亡くなってしまった。

悲しむ衛門三郎の枕元に
あの時の僧侶が現れ、三郎はその僧侶が
弘法大師だったことを知った。




己の行動を深く後悔した衛門三郎は、
全てを人へ譲り渡し、
お詫びをするために弘法大師を追って
四国巡礼の旅に出かけた。

20回巡礼を重ねても会えなかったが、
どうしても弘法大師に会いたかった
衛門三郎は、それまでとは
逆の順番で回ることにした。

しかし巡礼の途中、
徳島の焼山寺の近くで病に倒れてしまった。

死を目前にした衛門三郎の前に
弘法大師が現れると、
衛門三郎は過去の過ちを詫びた。

弘法大師衛門三郎
最後の望みを聞くと
「来世も河野家に生まれ、人の役に立ちたい」
という言葉を残して息を引き取った。

弘法大師は路傍のを拾い
衛門三郎再来」と書き、
その手に握らせた。


翌年、河野家に
左手を握りしめた男の子が生まれた。

握りしめたまま何をしても開かないため、
不安になった両親がお寺へ連れて行き
祈祷してもらうと
左手の中から「衛門三郎再来」と
書かれたが出てきた。

そのはお寺に納められ、
今も大事に祀られているのだそうな。
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ちなみに、その
現在の愛媛県松山市にある
51番札所の石手寺に現在も祀られており、
松山市恵原町には、
衛門三郎八人の子を祀った
八ツ塚」が点在しているのである。


そして、
この伝説が四国の寺院を巡る
四国遍路の起源だと云われ、
また、
出会いのお遍路と云われる「逆打ち」は、
弘法大師空海に出会うために
衛門三郎が始めたことが由来だった。



知られざるお遍路の秘密。


空海焼山寺で出逢った
大蛇衛門三郎

明らかに意識された『』という数字。

ハチ


八(ハチ)』を逆にすると
チハ』になる。


先代旧事本紀によると、
粟国造(あわのくにのみやつこ)は、
応神天皇の御世に
高皇産霊尊の九世孫の
千波足尼(チハノスクネ)
国造に定めたことに始まるとされる。


千波足尼の末裔ともされる『粟飯原家』。
(重要文化財 粟飯原家住宅は
 神山町下分栗生野に在る。)


また、
阿波忌部は房総半島を開拓し、
安房(あわ)国を造った。


安房国は現在の
『千葉県(ちばけん)』である。




神山町には、
まだまだロマン溢れる伝承があるのだ。


雪帽子の狛犬が見る景色。


画像では分かりにくいが、
また雪が降ってきた。



さてさて、
まるでカゴメカゴメさながら、
「鬼を籠に封じ込めた町」を後にして
ついに神の領域へと入ります。


地名は『神領』❗

つづく。


ではまた❗








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