↑のつづき。

さて、八倉比賣神社にたどり着いたワケだが、当社を紹介する前に少しだけ。

↑でも少し触れた話だが、日本の神話や歴史でよく議論される話題と言えば、
『アマテラス=卑弥呼説』。

「いやいやまさか、都市伝説でしょう」

「時代が違うでしょう。卑弥呼は3世紀頃の人だし」

「面白ければ良いという問題ではない」


全てはワタシの固定観念だったのかもしれない。

自分では、「神名は役職名みたいなものだから、同じ名前の神様が何人もいるのです」と偉そうに言っておきながら、『アマテラス=卑弥呼説』を全否定してしまうのは、考えてみればおかしな話だった。


一回、今までの常識を捨ててしまおう。

「否定」とは、自分の口から出る言葉であり、
「肯定」とは、他人の言葉を自分の耳から受け止めることだとワタシは思う。

人間には、
「口はひとつしかない」が、
「耳は二つもある」。

「聞く力」の方が勝っていて然るべきである。


まっさらな気持ちで、改めて阿波徳島を楽しみましょう。





『天石門別八倉比賣神社』。

ようやく、憧れの神社の鳥居をくぐる。



中々の階段を登る。

この心拍数の上がり方は、体力の無さか、それともワクワクドキドキのせいか。


拝殿が見えてきた。



不思議な顔の狛犬。


なんか好きだ。


手水舎。







式内大社・阿波国一宮
「天石門別八倉比賣神社」の論社
『天石門別八倉比賣神社』

鎮座地 徳島市国府町矢野字宮谷
創建 不詳
祭神 大日靈女命(オオヒルメノミコト)
ご神体 杉尾山
神紋 抱き柏
別名 杉尾さん 杉尾大明神

元々は、この杉尾山の峰続きの「気延山」山頂(212.2m)に鎮座しており、後に気延山南麓の杉尾山の標高110m付近(現在地)に鎮座した。
1773年の文書には、鎮座から2150年と記述されている。
つまり、鎮座当初は紀元前378年。



社殿は古墳の前方部に建てられており、後円部の頂上には奧の院がある。
つまり、前方後円古墳の上に建てられているのだ。


拝殿から境内。





当社の略記には、
式内正一位 八倉比賣神宮と記載されている。
延喜式に記録された「式内名神大社」。
その圧倒的な社格は、同格の神社を見ればお分かり頂けることだろう。

徳島の山の中にあるこの重要度の高い神社は、社格の割には余り知られていないのではなかろうか。

こんなに素晴らしいのに。





そして、驚くべきことが記載されている。

~~~~~~~~~~~~
「八倉比賣大神御本記の古文書は、
天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、
●道案内の先導『伊魔離神(いまりのかみ)』
●葬儀委員長『大地主神(おおくにぬしのかみ)』
●『木俣神(きまたかみ)』
●『松熊(まつくま)二神』
●神衣を纏った『広浜神(ひろはまのかみ)』
が記され、八百万神のカグラは『嘘楽』と表記、
葬儀であることを意味している。」
~~~~~~~~~~~~

これは驚くべきことである。

アマテラスつまり、当社の祭神の葬儀の詳細が記されており、しかも葬儀委員長が…
『オオクニヌシ』❗

オオクニヌシが祀られている大御和神社は、ワタシが証明したように徒歩圏内に鎮座している。





本記には、
日靈大神(ひるめのおおかみ)のまたの名を、
『八倉乃日靈大神(やくらのひめおおかみ』だという記述があり、当社の祭神『アマテラス』こと『大日靈女命』が、社名の『八倉姫』のことだというのは間違いなさそうである。

さらに、略記には天照のイミナと言われる
『撞賢木厳之御魂天疎向津媛命』のことまで…

ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメと読む通り、「月」の神格を持っている。

太陽神なのに何故に月❓️

という疑問には、ワタシならこう説明する。

女神であり巫女であるアマテラスは、「神そのもの」というより「神を降ろすことができる存在」であった。

降ろす神は「日の神」あるいは「天の神」。

「日の神」を降ろせることが、巫女の存在価値である。

つまり、「太陽に照らされてこそ月は輝く」のだ。

太陽と月は陰陽であり、太陽あってこその月。

だからこそ、アマテラスが月の神格を持っていても不思議はない。

例えば、夜の闇を照らすのは、太陽の力を借りた「月」である。



世界中の神話を見渡しても、ほぼほぼ太陽神は男神であり、月と言えば女神だ。

これこそが、日本神話におけるアマテラスの男神説と女神説の真相なのではなかろうか。


そして、巫女である『アマテラス』とは、なんと呼ばれていたか。


『日の巫女』でしょうねやっぱり。




柿本人麿の詠んだ奉納古歌
妻籠る 矢野の神山露霜に
にほひそめたり 散り巻く惜しも

実は、当社のご神体である「杉尾山」は、古代には「矢野神山」と呼ばれていたのだ。
※柿本人麿はなんと阿波出身だとする説があり、その根拠を知ったとき、思わず「さもありなん」と頷いてしまった。

当社の地名も「矢野」であり、付近には矢野遺跡、矢野古墳がある。

さらに西にいけば、徳島県名西郡神山町がある。



境内社の稲荷社。


当社は式内大社・阿波国一宮
「天石門別八倉比賣神社」の論社と言われるが、その他の論社をみてみるととても興味深い。

●『上一宮大粟神社』
鎮座地 徳島県名西郡神山町神領字西上角
祭神 大宜都比売命 

●『一宮神社』
鎮座地 徳島県徳島市一宮町西丁
祭神 大宜都比売命 天石門別八倉比売命

元々は上一宮大粟神社が阿波国一宮であったが、参拝に不便だった為、国府に近い場所に分祠したのが一宮神社だと言われている。

そして、上一宮大粟神社の鎮座地は、
神山町神領。

地名だけでもはや神の領域である。



『大宜都比売命』はイザナギイザナミの国産み神話において、阿波国の別名として登場する。

言い換えれば、阿波を最初に統治したとも解釈出来る。

そして、天石門別八倉比賣神社の論社の三社の祭神は全て同一神。


八倉比賣=大日靈女=大宜都比売


大宜都比売は『大月姫』。


大宜都比売は「日の巫女」だったのだ。



大宜都比売命の神名は「大いなる食物の女神」の意味であり、ウカノミタマやウケモチ、
そして『豊受大神』と同一視されているのは周知の事実。

そして、もはや恒例の『ぐーたら気延山日記』さんの記事を参考にさせて頂きます。↓

いつもありがとうございます。


『豊受』と言えば伊勢神宮外宮の祭神で有名だが、
伊勢神道の根本経典と言われる『神道五部書』の
『豊受皇太神御鎮座本記』にはこう記述されている。

天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也

これは本当にすごい記述です。

要するに、阿波国に座す二社が正統なる皇祖皇統の末裔だと書いてあるのです。

そして、『天村雲命』を祀る『天村雲神社』は
日本全国でも阿波徳島にしかないのだそうな。




左から本殿。

左にはさらに山道があり、気延山山頂へと続いているらしい。

時間があれば、登っちゃうところだ。



今度は右側から本殿。


ここで、『卑弥呼』の話を少しだけ。

『魏志倭人伝』では、卑弥呼は西暦247年頃に死去したという記述があり、これが定説となっている。

一方、『三国史記』新羅本紀では、西暦173年に
倭の女王卑彌乎が新羅に使者を派遣したとある。

この年代を一旦素直に読み解いた上で、この時代の平均寿命を考慮すると、新羅本紀の卑弥呼が仮に当時10歳だったとしても(ありえないが)、84歳まで生きたことになる。

つまり、


『卑弥呼』は世襲制であり、1人ではなかったということである。


卑弥呼には子供はいなかったとされており、
アマテラスもまた、「子供を産んでいない」。



そして、本殿左側のこの階段は、奥の院に続いている。

では行って参りましょう。


『卑弥呼の墓』と言われる場所へ。


つづく。


ではまた❗




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