↑のつづき。


さて、出張から帰ってきた10日後には、また出張だった。

年末から2月にかけて、怒涛の仕事(神社巡り)は、とても楽しかった。

つまり、『出張の合間の神社巡りシリーズ』の記事は、まだまだ続くことになるのだが…

それを記事にする前に、書いておきたいことがあったので、ダラダラと書いております。


ワタシがずっと疑問に思っていたこと。


例えば、

古事記では、タケミカヅチに負けたタケミナカタは、出雲から諏訪まで逃げたが捕まり、観念した。

ちなみに、出雲から諏訪湖までは、いい加減に計算しても徒歩で大体5日間はかかる(しかも休み無し)。
何日も追って、諏訪で捕まるというのは不可解である。

そんな疑問から↓のような記事も書いた。
ざっくり言うと、タケミナカタを祀る諏訪大社の、
『元宮』があるという話。




例えば、

何故、古事記の中でも多くのページを使う出雲の神
大国主が、出雲風土記には登場しないのか。


例えば、

何故、アマテラスやツクヨミは目から生まれ、スサノオは鼻から生まれた…という描写があるのか。

それを、「神話だからね」とか「偽書だからね」とか「不比等さんの策略だね」などと簡単に切り捨てて、古史古伝や他の文献等にばかり眼を向けてしまっていた自分を、最近恥じた。

もう少し素直に読むと気づくのだ。


「場所」と「年代」のカラクリに。


神武天皇が即位した「紀元前660年」という年代は、現在では否定される説も多く、実際には3世紀頃のことだとも言われている。

日本書紀を数理考古学的な考察で解き、西暦282年前後に即位したと提唱する書籍もあり、ここでは詳しくは書かないが、極めて論理的で「大いに可能性がある」と思ってしまった。


もちろん、年代がウソだったとしても、それだけでは「神武天皇はいなかった」とするのは乱暴な話である。


個人的には、
「初代天皇はいたけど、事実はちょっと違う」。



記紀には出てこない『邪馬台国』は中国の文献から出てきた国名だが、実際に中国で使用されてきた漢字は『邪馬壹國』なのだそうな。
※魏志倭人伝では、倭国を説明する箇所に「丹有り」という記述があることも重要だ。


『邪馬壹國』。

「台」ではなく「壹」。

「豆」が入っているから、
読み方は「とう」や「と」。

邪馬壹國の読み方は『ヤマトコク』なのだ。

次に、日本から当時の中国にやってきた女王は、
『親魏倭王』の封号を得た。

「しんぎわおう」と読むが、すごく素直に読むと違う。

「倭」は「ワ」とは読まず、「イ」と読む。

「委員会」の「委(イ)」と同音だ。

本当は『倭王(いおう)』、イの国王なのだ。


では、「イ」という国とは何ぞや。


例えばだが、

「倭(イ)」
  ↓
「委(ワ)」
  ↓
「大委(ダイワ)」
  ↓
「大和(ダイワ)」
  ↓
「大和(ヤマト)」

のように変わっていった。



では、「大委(ヤマト)国」とは何処か。


それは定説通り奈良だろう。

しかし、「大」がついた段階で、中央政権に移動があったと考える方もいる。


「委の国」と「大委の国」は場所が違う。


元々あった場所が在った。


つまり、
「委(イ)ヤマト」と「大委(オオヤマト)の国」は明確に違うのである。


さてさて、もうひとつ。

『卑弥呼(ヒミコ)』の存在。


ワタシは、邪馬台国論争や卑弥呼論争を馬鹿馬鹿しいと思っていた。


やれ畿内だ、やれ九州だ…と。

「ヒミコ」は「日の巫女」であり、一人ではないし、邪馬台国は「ヤマト」なんだから「日本」ってことて良いでしょうよ…と。


アマテラス=ヒミコという話も、「そうでもあるし、違うとも言える」くらいの感覚である。



しかし、冷静に考えてみると、とても不思議だ。


仮に神武天皇が、西暦200~300年代に存在した人物であった場合、卑弥呼が活躍された西暦240年頃と、年代がかぶる。

神武天皇の活躍した時代を西暦282年頃とする説もあり、そうなると、むしろ『ヒミコ』の方が数十年前の人物になる。

ワタシの固定観念は逆転する。


さらに、古事記の疑問点をもうひとつだけ。

高天原を追放されたスサノオは、空腹になり、
『大気都比売神(オオゲツヒメ)』に食物を求めた。

しかし、オオゲツヒメが体中から食物を出して調理していたのを見て、「汚いものを食わせやがって❗」と激怒し、オオゲツヒメを殺してしまう。

すると、オオゲツヒメの体から穀物などが生まれて…というハイヌウェレ型神話が展開されるのだが…

大事なことは、「高天原から追放されたスサノオはどこでオオゲツヒメに出会ったか」である。


追放直後の話と仮定すると、高天原からはそう遠くない場所。

そして、イザナギとイザナミの国産みのシーンで、伊予二名国の『阿波国』の別名を『オオゲツヒメ』と呼んでいるのだ。


つまり、高天原追放直後のスサノオは、阿波国にいたということになる。

そして、少なくとも古事記の『高天原』という場所も、阿波国付近、または阿波国内に存在していたことに他ならない。


オオゲツヒメは『穀物』を生んだ。

「穀(こく)」とは、「国(こく)」のことだった。


オオゲツヒメは「国を生んだ(創った)」。


『粟(アワ)』とは、穀物であり国のことである。



イザナギイザナミの島生みのシーンでの
生んだ順番はとても不思議である。

最初に、淡道之穂之狭別島

2番目に、伊予之二名島(四国)


2番目に四国が出てくるのに、その後パッタリと出て来なくなる。

しかも、最初に生んだ淡道之穂之狭別島の島名の「淡道」は、「アワへの道」つまり、アワありきでつけられた名である。

後にヤマト国の中心となる大倭豊秋津島(本州)が生まれるのは、8番目とかなり後なのだ。
※「大倭」は、「倭」とは違う場所である。


伊予之二名島とは、「イの国とヨの国の二つで構成された島ですよ」とも解釈できる。



そして、阿波は昔、『イの国』と呼ばれていたのだそうな…





イザナギイザナミは、まだ混沌とした大地を天沼矛でコオロコオロとかき混ぜた。

イザナギ達にとっては、「混沌」とは、なにも統制されていない未開の地。


コオロとは、「航路」。

淡道之穂之狭別島を淡路島と仮定した場合、そこよりさらに大きな島「四国」に渡る途中で出会ったのが、『鳴門の渦潮』である。

「かき混ぜた」という描写は、「渦潮」から得た着想だったのかもしれない。


「島生み」とは、実際に島を生み出したワケではなく、イザナギイザナミが統治していった順番だった。


つまり、全てではないにしろ、はじまりは四国周辺だった可能性が高いのではなかろうか。


恐らく、古事記のイザナギやそれ以前の神は、縄文時代(もっと昔かも)と、弥生時代がギュッと凝縮されている。


現在の歴史の教科書でも、現代に近づくにつれ、情報は多くなり、ページは増える。

昔に遡れば遡るほど、情報は残ってはいないからだ。



●ヒルコの次に産まれた『島』

●イザナギが禊をした『阿波岐原』

●ウガヤフキアエズは『ウガヤフキアワセズ』


もっともっと素直に考えてみても良いのかもしれない。

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最後に、

『阿波(粟)の国』の由来の中に、とても面白い説がある。

徳島の東西を流れる吉野川に、日本最大の川中島がある。

阿波忌部族が粟を植えたところ、よく実ったので『粟島』と名付けられた。


これが『アワの国』の由来である。



粟島は、大正初期までは3000人もの人々が暮らしていたのだそうな。


現在は、『善入寺島』と呼ばれている。


ある時、島民は島からの立ち退きが命じられた。
吉野川は暴れ川と呼ばれるほど川の氾濫が激しく、改修工事をおこなう為だったのだそうな。

それ以降、島西北にあった善入寺の名をとって、『善入寺島』と名付けられた。



『粟島』の名は消えた。




それだけならまだ良い。



善入寺島には浮島八幡宮という神社が鎮座していた。



主祭神は『天日鷲命』。





その神社は、政府によって爆破された。



ワタシはこの話を初めて知ったとき、さすがに衝撃を受けた。



さて、何故なのでしょうか。




これは陰謀論ではありません。




これは『隠蔽』です。



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ではでは、次回から次の『出張の合間の神社巡りシリーズ』にいってみましょうー😊




もちろん、『四国編』です❗


つづく。


ではまた❗



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