第四章 中編
銅鐸の島、海の入口
―松帆銅鐸群と南淡路の青銅祭祀圏―
前編では、北淡路を見ました。
-
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)
-
舟木遺跡
-
鉄器工房
淡路が単なる通過点ではなく、鉄器・海上交通・祭祀を抱えた重要な島だった可能性を考えました。
最初は、有名な遺跡が北方にあったのでこちらに注目しました。
しかし、淡路島の深さは北だけでは終わらないことを今になって知りました。
ちょうど、帰省の途中、いつもはうどんを食べたいので加速して香川に向かうところ、
南あわじ市松帆西路にある「南あわじ市滝川記念美術館玉青館」に有名な松帆銅鐸の本物が展示されているとのことで、今回は高速を降りて、そちらで見学をさせていただきました。
結論として南淡路へ目を向けると、まったく別の顔がありました。
北淡路が「鉄の島」だったとすれば、南淡路は、古い青銅祭祀の島だったようなのです。
鉄と銅、はかったようです。
しかもそれは、単に銅鐸が出たという話ではありません。
銅鐸。
銅剣。
貨泉。
仿製鏡。
銅鏃。
銅戈。
銅矛。
搬入土器。
半島系住居。
そして、三原平野の古代地形。
これらを重ねて見ると、南淡路は単なる農耕地ではなく、海から来た人々が船を寄せ、風を待ち、潮を読み、交易し、祭祀を行った、海峡型の中継地だったようにも見えてきます。
少し言いすぎかもしれませんが、弥生時代の南淡路は、後世の港町というより、もっと原初的な意味での「海のキャンプ地」のような地だったのかもしれません。
西から来た一行が、いきなり阿波へ入るのではなく、いきなり播磨や河内へ向かうのでもなく、まずここに船を寄せる。
そして火を焚き、荷を下ろし、海の神に祈り、次の航路を決める――。
そんな景色が、ちょっと頭をよぎりました。
1. 現在の三原平野だけを見てはいけない

【図1】:グーグルマップの三原平野、ハートマークは滝川記念美術館玉青館、昔は”御”原だったかも
現在の三原平野を見ると、広い平らな農地の印象が強いです。
しかし、南あわじ市の展示にあった古代地形ジオラマ↓を見て、かなり印象が変わりました。
弥生時代の三原平野には、海がかなり内側まで入り込み、内湾・潟湖のような水域があったことが示されています。これは?
つまり、ここは、
海から人が入り、物が入り、祭祀財が入り込む場所だった可能性があります。
弥生時代の三原平野復元ジオラマ。現在は農耕平野として見えるが、当時は海が内側まで入り込み、内湾・潟湖的な水域を抱えていた可能性がある。青銅器出土地や弥生遺跡がこの周辺に集中することは、南淡路が海から人・物・祭祀財を受け入れる入口だったことを示している。
江戸時代後期にいろんな記憶をまとめて描かれた淡路温故之図、三原平野を「内陸」とは描いていない。江戸時代の時点でここが内湾だった記憶は残っている。
いまの地図では陸地に見える場所でも、弥生時代には水辺だった。
しかも、そこに青銅器が集中する。
この組み合わせはかなり重要です。
青銅器は、ただの道具ではありません。
祭祀財であり、威信財であり、ときには集団の記憶そのものです。
そうしたものが、海の入口に集中する。
これは、南淡路がただの村落地帯ではなく、外から来る人々を受け止める場だったことを示しているように見えます。
2. 松帆銅鐸は、突然現れた奇跡か
南淡路の青銅器といえば、まず松帆銅鐸群が有名です。
2015年、南あわじ市松帆地区の砂山から、7点の銅鐸が発見されました。
さらに、銅鐸に伴う「舌(ぜつ)」も確認されました。
これは、日本の銅鐸研究にとって非常に大きな発見でした。
しかし、松帆銅鐸群は、何もないところに突然現れた奇跡ではありません。
淡路島には、それ以前から銅鐸や青銅器の出土が知られていました。
展示資料の「淡路島出土の弥生時代青銅器一覧」を見ると、銅鐸だけでもかなりの数があります。
さらに、銅鐸だけではありません。
-
古津路銅剣
南あわじ市松帆古津路出土。細形・中細形銅剣群
-
鉾田遺跡の小形仿製内行花文鏡
南あわじ市鉾田遺跡出土
-
嫁ヶ淵遺跡の青銅器付木製品
南あわじ市嫁ヶ淵遺跡出土
-
幡多銅戈
南あわじ市幡多周辺出土
-
入田稲荷前遺跡の貨泉
南あわじ市八木地区、入田稲荷前(いりたいなりまえ)遺跡出土
-
立石遺跡の銅鏃
南あわじ市立石遺跡出土
-
喜平成遺跡の銅鏃
南あわじ市喜平成遺跡出土
-
北田遺跡の貨泉
南あわじ市北田遺跡出土
-
銅鏡片
淡路島内遺跡出土。詳細な遺跡名・時期は資料確認が必要
-
銅矛
淡路島内出土。詳細な出土地・型式は資料確認が必要
-
角木遺跡の倣製鏡
淡路島内、角木遺跡出土
これだけ多様な青銅器が出てるんです。
もちろん、個々の資料については、出土地が「伝承出土地」であるもの、詳細な出土状況が不明なもの、後世に伝来したものも含まれます。したがって、すべてを同じ重さで扱うことはできません。
しかし、それでも重要なのは、淡路島、とくに南淡路周辺に、銅鐸・銅剣・銅戈・銅矛・銅鏃・貨泉・仿製鏡・銅鏡片といった多種類の青銅器が重なっていることです。
つまり、松帆銅鐸群は、孤立した発見ではありません。
淡路島に沈んでいた青銅器文化の厚みを、一気に見える形にした発見だったのです。
【写真2】淡路島出土の弥生時代青銅器一覧
青玉館の図録にあった淡路島出土の弥生時代青銅器一覧。銅鐸だけでなく、古津路銅剣、貨泉、銅鏡、銅鏃、銅戈、銅矛、青銅器付木製品などが確認される。南淡路を単なる銅鐸出土地ではなく、弥生青銅器文化の濃い島として見る必要あり。
つまり、松帆銅鐸群は、孤立した発見ではありません。
淡路島に沈んでいた青銅器文化の厚みを、一気に見える形にした発見だったのです。
3. 松帆銅鐸群――砂山から出た「古い音」
ここで松帆銅鐸群のすごさを開設しておきます。
それは、数だけではありません。
7点の銅鐸がまとまって見つかった。
それだけでも大発見です。
しかし、さらに重要なのは、舌が伴っていたことです。
銅鐸の舌とは、内部に吊るされて音を鳴らすための部品です。
つまり、松帆銅鐸は、ただ眺めるための青銅器ではありません。
鳴らされ、聞かれた銅鐸だったのです。
後の大型銅鐸は、しだいに「見る銅鐸」としての性格を強めていきます。
巨大化し、装飾化し、視覚的な祭器になっていく。
しかし、松帆銅鐸群は、古い段階の「聞く銅鐸」の姿をよく残している。
ここが非常に重要です。
【写真3】松帆銅鐸群と舌
松帆銅鐸群。7点の銅鐸と7本の舌が確認された。舌を伴うことは、銅鐸が視覚的な祭器である前に、音を鳴らす祭器であったことを示す。南淡路には、古い「聞く銅鐸」の祭祀が濃く残っていた。
ここで少し想像してみます。。。
三原平野の内湾。
砂嘴。
河口。
海から上がってきた人々。
潮待ちの夜。
火の明かり。
そして、青銅の音。
銅鐸の音がどのように鳴った?たまに資料館などで復元された銅鐸の音を聞くことができます。
カランカランと音がしましたが舌があるということは、少なくともそれは当時も沈黙する青銅器ではなかったということです。
南淡路の青銅祭祀は、音を伴っていた。
松帆銅鐸群は非常に特別です。
4. 14C年代――南淡路の時間が一気に古くなる
さらに松帆銅鐸群を重要にしているのが、年代です。
具体的には内部や入れ子の中に残っていた植物片の放射性炭素年代測定です。
ここは慎重に。
測定されたのは、銅鐸そのものではありません。
銅鐸内部などに残っていた植物片です。
したがって、「銅鐸そのものが紀元前4世紀に鋳造された」と断定することはできませんが、
しかし、それでもこの結果は重いです。
展示資料では、4号銅鐸の試料①〜⑤にある程度まとまりがあり、紀元前4世紀半ばから紀元前2世紀半ばほどの年代が示されています。
もしこの植物片が埋納時期に関わるなら、松帆銅鐸群は、従来考えられていたよりもかなり古い段階に埋納された可能性があります。
【写真4】舌と紐の写真
【写真5】測定結果がなんと紀元前22世紀?
なんと、紀元前4世紀はおろか、紀元前9世紀? 紀元前14世紀? 紀元前22世紀?
わけがわかりませんが、2号銅鐸の分析は炭素量の不足によるばらつきということらしい。
でも紀元前2~4世紀の信頼性もゆらぐので、とても気になります。

【写真6】植物と14C年代
松帆銅鐸群内部に残っていた植物片の14C年代測定。
銅鐸そのものの製作年代ではない点に注意が必要だが、南淡路の銅鐸埋納が弥生中期のかなり古い段階にさかのぼる可能性を示す。
見えてくるのは、南淡路が「後から銅鐸祭祀を受け取った地域」ではなく、かなり早い段階から青銅祭祀の前線にいた可能性です。
南淡路は、遅れた場所ではなかったっぽい。
むしろ、かなり早く銅鐸祭祀が始まった場所だったのかもしれません。
5. 青銅の成分と鉛同位体比
松帆銅鐸群では、青銅の成分分析や鉛同位体比の分析も行われています。
青銅器は、銅・錫・鉛などを含みます。
その比率や鉛同位体比を調べることで、原料や系統、他の青銅器との関係を考える手がかりになります。
展示資料では、松帆銅鐸群が、古い型式の銅鐸や半島系青銅器との関係を考えさせる資料として紹介されています。
しかし、成分が近いことは、ただちに「同じ場所で作られた」ことを意味しません。
-
素材の供給源が似ているのか
-
工人集団が関係するのか
-
流通ネットワークが重なるのか
そこは丁寧に分ける必要があります。
【写真7と8】出土状況と複数埋葬と聞く銅鐸出土例の展示パネル
古い型式の銅鐸や半島系青銅器との関係を考えるうえで重要な資料で。ただし、成分の近さは鋳造地の同一性を直ちに示すものではなく、素材・工人・流通圏を考える補助線として扱うべき。
それでも、松帆銅鐸群が南淡路だけで完結する資料ではないことは明らかです。
南淡路は、古い青銅器ネットワークに深く関係していた可能性が高い。
この点はかなり重要です。
6. 兄弟銅鐸――松帆は孤立していなかった
松帆銅鐸群でさらに重要なのが、同笵銅鐸の存在です。
古ーい銅鐸ですが、なんと同笵銅鐸が存在するんです!びっくり。
同笵とは、同じ鋳型、あるいは非常に近い鋳型系列で作られた銅鐸の関係です。
いわば「兄弟銅鐸」です。
展示資料では、松帆銅鐸群と他地域の銅鐸との驚くべき関係が示されています。
同笵関係として、次のような対応が示されています。
-
松帆2号・4号銅鐸 = 淡路の慶野中の御堂銅鐸
-
松帆3号銅鐸 = 島根の加茂岩倉27号銅鐸
-
松帆5号銅鐸 = 島根の荒神谷6号銅鐸
松帆銅鐸群は、南淡路だけで閉じていません。
淡路島内だけでなく、なんと島根出雲方面ともつながる広域青銅器ネットワークの中にある。
別記事で、丹後と播磨、阿波はつながっているという記事を書いたのですが、島根出雲ともつながっています。
しかも、紀元前2~4世紀の時点で。
これはかなり気になります。
【写真9】兄弟銅鐸 松帆銅鐸パンフレットから
【写真10】兄弟銅鐸の展示パネル
松帆銅鐸群の同笵関係を示す展示。松帆銅鐸は、淡路島内の慶野中の御堂銅鐸だけでなく、島根県の加茂岩倉・荒神谷出土銅鐸とも兄弟関係を持つ。これは南淡路が、広域の青銅祭祀ネットワークに接続していたことを示す。
ここで通常の感覚だと、「出雲から来た」と思うのですが、ちょっと踏みとどまって考えます。
荒神谷や加茂岩倉は、大量一括埋納という特殊な性格を持ちます。
そこにあった銅鐸が、すべてその土地で長く使われていたとは限らないのかなと。
あれだけの銅鐸が一括で埋納されていたわけです。これはおそらく訳ありです。
これは想像ですが、何か政変があって、そのときの銅鐸祭祀の王族がこれらを回収してここへ持って帰った、または持ってきたということも考えれます。
見た感じ、ここで使われていたものをまとめたという感じではなさそうです。
むしろ、畿内や丹波丹後を移動しながら回収してきたものかも知れません。
これが神話の国譲り? とするなら、かなり古い時代の話ですけど。。。
同笵関係が示しているのは、単純な出雲起源ではありません。
銅鐸や人の移動があった。
ほんとうに広い西日本の祭祀ネットワークがあった。
南淡路はその一つのつながる拠点だった。
まずはここまでを押さえるべきかも
7. 古津路銅剣――南淡路は銅鐸だけではない
南淡路の青銅器を銅鐸だけで見ると、半分しか見えません。
もう一つ新しい重要な発見が、古津路銅剣群です。
古津路では、昭和41年に銅剣が10本発見
され、その後の調査で4本が加わり、合計14本がまとまって出土したことが分かっています。
分類としては、細形・中細形銅剣です。
しかもこの古津路は、松帆銅鐸群の推定出土地に近いのです。
【写真11】古津路銅剣
古津路銅剣。南あわじ市松帆古津路で発見された細形・中細形銅剣群。松帆銅鐸群の推定出土地に近く、南淡路が銅鐸祭祀だけでなく、瀬戸内海沿岸の青銅武器形祭器ネットワークにも接続していた可能性を示す。
細形・中細形銅剣は、瀬戸内海沿岸の青銅武器祭祀と深く関わります。
その銅剣群が、松帆銅鐸群のすぐ近くにある。
これは、南淡路が銅鐸圏と銅剣圏の交差点だった可能性を示しています。
ここまで来ると、南淡路は単なる銅鐸の島ではありません。
銅鐸、銅剣、さらに銅戈、銅矛、銅鏃、仿製鏡、貨泉まで視野に入る。
南淡路は、複数の青銅器文化圏が交差する結節点だったのです。
8. 仿製鏡と銅矛――祭祀は消えたのではなく、姿を変えたのか
今回の青銅器一覧で、意外に重要だと感じるのが仿製鏡と銅矛です。
-
鉾田遺跡の小形仿製内行花文鏡
-
角木遺跡の倣製鏡
-
銅鏡片
-
そして、銅矛
これは、松帆銅鐸や古津路銅剣とは少し違います。
銅鐸・銅剣の古い祭祀が、その後そのまま大型銅鐸祭祀へ伸びていったようには見えにくい。
しかし、だからといって南淡路から青銅器文化が消えたわけではありません。
むしろ、貨泉・仿製鏡・銅鏡片・銅鏃・銅戈・銅矛のような、より複雑な青銅器文化へ姿を変えた可能性があります。
これはかなり大事な視点です。
以前は、私は「南淡路では古い青銅祭祀が早く閉じた」と整理していました。
それは今も大筋では正しいと思います。
しかし、今回の一覧を見ると、もう少し精密に言うべきです。
南淡路では、古い銅鐸・銅剣祭祀は早く立ち上がった。
しかし、その後に青銅器文化が消えたわけではない。
大型銅鐸へ一直線に進むのではなく、貨泉・仿製鏡・銅鏃・銅戈・銅矛・銅鏡片など、別の青銅器文化へ変化した可能性がある。
これは、「祭祀の断絶」ではなく、祭祀表現の集合と見た方がよいのかもしれません。
淡路は祭祀も集まる場所だった。
9. 入田稲荷前遺跡――青銅祭祀が閉じても、交流は続いた
ここで重要になるのが、南あわじ市八木地区の入田稲荷前(いりたいなりまえ)遺跡です。
入田稲荷前遺跡では、中国・新の時代に鋳造された貨泉が3枚、重なった状態で出土しています。
弥生時代に貨幣経済が成立していたわけではないでしょう。
しかし貨泉は、交易品、威信財、青銅素材、あるいは装身具のような意味を持っていた可能性があります。
さらに重要なのは、入田稲荷前遺跡で、讃岐・阿波地方などからの搬入土器が確認されていることです。
【リンク】入田稲荷前遺跡・貨泉関連資料
入田稲荷前遺跡からは、中国・新の時代の貨幣である貨泉が3枚重なって出土している。さらに讃岐・阿波地方などからの搬入土器も確認され、南淡路が弥生後期にも広域交流の玄関口であったことを示す。
つまり南淡路は、松帆銅鐸や古津路銅剣の古い祭祀だけで終わった場所ではありません。
その後も、阿波・讃岐・河内・紀伊、さらには大陸系の文物まで受け入れる海峡型の交流圏であり続けた可能性があります。
青銅器を主役にした古い祭祀は、早い段階で閉じたのかもしれない。
しかし、人や物の交流は消えていない。
祭祀の表現が変わっただけで、南淡路は海の入口であり続けた。
これは、かなり重要な見方だと思います。
10. 南淡路は、貿易港だったのか
ここまで見てくると、南淡路はかなり「港」っぽく見えてきます。
ただし、ここでいう港とは、後世の港湾施設のことではありません。
倉庫群や岸壁が整備された港湾都市という意味ではありません。
弥生時代の南淡路に想定できるのは、もっと原初的な港です。
-
内湾
-
潟湖
-
砂嘴
-
河口
-
船を寄せられる水辺
-
風を待てる場所
-
水や食料を得られる場所
-
そして、祭祀を行える場所
この意味で、南淡路は海峡型の中継地だった可能性があります。
西から来た一行が、阿波に入る前にここでキャンプを張る。
播磨へ向かう前に、ここで風を待つ。
河内へ向かう前に、ここで情報を得る。
潮を読み、荷を整え、青銅器を示し、祈る。
そう考えると、いろいろな出土物が少し違った顔を見せ始めます。
-
松帆銅鐸は、在地の村だけの祭器ではなく、海から来た集団の祭祀財だったかもしれない。
-
古津路銅剣は、瀬戸内海を移動する青銅武器祭祀圏の痕跡かもしれない。
-
貨泉は、交易集団が持ち込んだ大陸系文物かもしれない。
-
搬入土器は、阿波・讃岐・河内・紀伊との実際の往来を示す。
少しくだけて言えば、南淡路は弥生時代の海人たちのベースキャンプだったのかもしれません。
もちろん、テントは張っていなかったでしょう。
でも、火は焚いたはずです。
そして、祈りはあったはずです。
11. 伊邪那岐尊も、外から来たのか
ここで、神話の話を少しだけ。
もちろん、伊邪那岐尊をそのまま弥生時代の実在人物として扱うつもりはありません。
しかし、淡路が後に国生み神話の最初の島として語られたことはとても重い。
もし南淡路が、古い時代から海の入口であり、外から来た人々がまず船を寄せる場所だったとすれば、伊邪那岐尊の記憶も、まったく空から降ってきた話ではないのかもしれません。
もしかすると、最初に来たのは西からだったかもしれない。
あるいは南からだったかもしれない。
-
阿波側から。
-
紀伊水道側から。
-
瀬戸内西部から。
-
あるいは、もっと遠い海の向こうから。
そうした人々が、まず南淡路の内湾に船を寄せる。
そこに住みつく。
そこを足場に、四国や播磨、河内へ向かう。
もちろん、これは妄想仮説ですが、そこで人が進化したわけではないのでどこかから来たのは間違い無い😑。
しかし、三原平野の古代地形、松帆銅鐸群、古津路銅剣、貨泉、搬入土器を重ねると、外から来た人々がここを最初の足場にしたという読みは、まったく荒唐無稽ではありません。
『古事記』では、淡路島のあとに四国が生まれます。
これをそのまま史実とは言いません。
しかし、古い海上集団がまず淡路に足場を置き、そこから四国方面へ展開した記憶が、後代に神話として再編集された可能性は、検討する価値があると思います。
12. 御原としての三原、国魂祭祀としての南淡路
「三原」という地名も気になります。
『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』では、三原郡の由来について、三原平野を天皇の御猟野、すなわち御原と見る説や、美称の「み」を付した「みはら」とする説が紹介されています。
【写真10】『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』三原・大和大国魂神社関連記述
『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』の三原郡・大和大国魂神社に関する記述。三原を「御原」と見る説、大和大国魂神社が三原平野を見渡す地に鎮座すること、同社が後に淡路国二宮と呼ばれたことなどが記される。弥生青銅祭祀の古層と、後代の大和的国魂祭祀の重なりを考える補助資料となる。
ここでも、弥生時代へ直結させることはできません。
しかし、南淡路の三原平野が、後代にも王権的・国魂祭祀的な景観として理解されていたことは注目すべきです。
-
古い青銅祭祀の島。
-
海から来た人々の入口。
-
そして後代には、大和大国魂神社が置かれる場所。
この重なりは、偶然だけでは片づけにくい気もします。
また、大和大国魂神社については、三原平野を見渡す景勝地に鎮座し、のちに淡路国二宮と呼ばれたことが記されています。
創建年代は明らかではありませんが、大和朝廷の勢力が淡路を支配し始めた時期に関わる可能性も示されています。


【写真12・13】大和大國魂神社の鳥居とその脇にある説明版
御原(三原)の海人を統率した倭氏ゆかりの神社で淡路国二の宮とされるそうです。
最初は西の瀬戸内海を向いていが、こちらを無視する舟が増え祟りがあったので、向きを北に変えたそうです。何かを示唆している気がします。
【写真14・15】大和大國魂神社の拝殿と大和社印(ここで出土)
大和国玉神社の拝殿はこじんまりとしていますが、ここから「大和社印」が出たそうです。
南淡路は、古い祭祀の記憶を抱えた場所であり、後にオオナムチ系の国津神を後裔が大和の国魂として祀りますが、向きを変えたということは、国ゆずりとの関係や立ち位置の変化が再解釈された場所だったのかもしれません。
13. 南淡路は、早く始まり、祭祀が集合し、姿を変えた
ここまで見てくると、南淡路の姿が鮮明になってきます。
南淡路は、遅れた場所ではありません。
むしろ、かなり早く始まった場所です。
-
松帆銅鐸群は、古い「聞く銅鐸」の祭祀を示す。
-
古津路銅剣群は、瀬戸内海沿岸の銅剣祭祀との接続を示す。
-
同笵銅鐸は、南淡路が広域青銅器ネットワークに属していたことを示す。
-
入田稲荷前遺跡の貨泉や搬入土器は、弥生後期にも南淡路が交流の玄関口であり続けたことを示す。
-
仿製鏡や銅矛、銅戈、銅鏃は、祭祀や威信財の表現が一系統ではなかったことを示す。
-
つまり、南淡路は単なる銅鐸の島ではありません。
青銅器祭祀の島であり、
海峡交易の島であり、
外来文物の入口であり、
後に始祖神話と国魂祭祀が重ねられる島だった可能性があります。
ここで、第四章前編からの問いに戻ります。
なぜ淡路には、重要な前方後円墳が見えにくいのか。
南淡路の青銅器の厚みを見ると、淡路が弱かったとはとても思えません。
むしろ、淡路はかなり古い段階で、青銅器祭祀と海上交流の前線にいました。
しかし、その力は島内の王墓として表現されるのではなく、別の形へ移っていったのかもしれません。
-
祭祀の音。
-
海の入口。
-
交易の拠点。
-
始祖の記憶。
-
国魂祭祀。
淡路は、王墓を置く島ではなかった。
王墓が成立する前の力を抱えた島だった。
そう考えると、淡路に前方後円墳がないことは、弱さではなく、むしろ役割の違いを示すように見えてきます。
14. 次回へ
南淡路は、古い青銅祭祀が早く立ち上がった場所だった。
そして、その祭祀は大型銅鐸へ一直線に続いたのではなく、貨泉・仿製鏡・銅鏃・銅戈・銅矛・搬入土器のような、より複雑な交流回路へ姿を変えていった。
もしかすると、南淡路は「終わった祭祀の島」ではなく、祭祀が姿を変えた島だったのかもしれません。
そしてその先に、伊邪那岐尊の始祖神話が重なっていく。
伊邪那岐尊も、最初は外から来た人だったのかもしれない。
西から、あるいは南から。
そして、この海の入口にまず居着いた。
もちろん、これはまだ仮説です。
でも、三原平野の古代地形と、松帆銅鐸群と、古津路銅剣群と、入田稲荷前遺跡の貨泉を重ねると、その想像は少しだけ現実の手触りを帯びてきます。
次回は、この「淡路に王墓がない」という問題へ戻ります。
なぜ淡路は、これほど重要でありながら、前方後円墳を掲げなかったのか。
淡路の人々、工人、海人、祭祀者は、どこへ向かったのか。
そして、淡路・阿波・讃岐・吉備・播磨の力は、どのように大和の箸墓へ流れ込んだのか。
淡路の沈黙は、いよいよ王権形成の核心へとつながっていきます。
#いよいよって、、、実はそれほどすごい回収ができるネタも核心もまだ見つかってないんですが。。。W
参考資料・出典メモ
※本文作成にあたり、以下の資料・展示解説・公的資料を参照した。
-
南あわじ市教育委員会・南あわじ市関連展示資料
松帆銅鐸群、古津路銅剣、淡路島出土青銅器一覧、三原平野古代地形復元、14C年代、青銅成分、兄弟銅鐸等の展示解説。
-
南あわじ市公式資料
松帆銅鐸群関連資料、入田稲荷前遺跡貨泉関連資料、井手田遺跡関連資料。
-
兵庫県教育委員会資料
入田稲荷前遺跡、貨泉、讃岐・阿波地方などからの搬入土器に関する発表資料。
-
『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』
角川書店、1988年。
該当項目:「三原」「三原郡」「三野郷」「大和大国魂神社」周辺記述。
-
淡路市・南あわじ市・兵庫県立考古博物館等の淡路島弥生遺跡・青銅器関連資料。