紅棗のVストでタカタカ古代里山散策

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第四章(後編)

淡路島は「王権の共有地」だったのか?

~なぜ、この島に前方後円墳は築かれなかったのか~

 

ここまで、淡路島の弥生時代を見てきました。

 

松帆銅鐸と銅剣銅戈。

image

image

五斗長垣内遺跡。

舟木遺跡。

製塩遺跡。

辰砂のついた石杵。

そして瀬戸内海の三つの海峡。

 

あらためて眺めると、淡路島はやっぱり「何もない島」ではありません。

 

むしろ、西日本でも指折りの重要拠点だったように思えます。

 

ところが、一つだけどうしても説明できないことがあります。

 

古墳がない。なさすぎるのです。

 

正確には、島内には130基を超える古墳が確認されていますので無いわけではありません。

 

しかし、そのほとんどは古墳時代後期。

 

前期・中期の古墳は、ごくわずかしかありません。

 

つまり、

前方後円墳が各地で次々と築かれていた時代の淡路島だけが、消されたように静かなのです。

 


もちろん、淡路に人が住んでいなかったわけではありませんし、

 

淡路は海人の国でもありましたし、弥生時代の周溝墓もみつかっています。

 

人々は暮らし、亡くなり、きちんと葬られていました。

 

つまり、

 

無いのは墓ではなく、大和の 王権の権威を示す墓 が無いのです。

 

ここが、この島最大の謎だと思います。

 


二世紀後半から三世紀。

 

西日本では王たちの墓が大きく変わり始めます。

 

出雲では四隅突出型墳丘墓。

 

丹後では赤坂今井墳丘墓のような方形墳丘墓。

 

播磨では有年田中遺跡の墳丘周溝墓。

 

吉備では楯築墳丘墓の双方中円墳丘墓。

 

尾張では前方後方墳。

 

阿波では小さめの突出部のついた前方後円型、萩原墳丘墓。

 

そして三世紀後半には、播磨・吉備・讃岐・阿波・摂津へと前方後円墳が広がり、少し先んじて大和では纒向に巨大前方後円墳が姿を現します。

 

つまり西日本では、

 

「王の墓の形とその規模で権威を示す時代」

 

が始まっていたのです。

 

ところが、その真ん中にある淡路島だけは違いました。

 

工房はある。

 

祭祀もある。

 

海もある。

 

鉄もある。

 

塩もある。

 

それなのに、王権を示す古墳だけが見えない。

 

これは偶然なのでしょうか。

 

 


最初は、

 

「誰もが知る大和王権の直轄地だったのでは?」

 

とも考えました。

 

でも調べれば調べるほど、少し違う気がしてきました。もっと古い。

 

もっと根本的な理由があったのではないか。

 


弥生時代の淡路島には、

 

九州。出雲。丹波・丹後。朝鮮半島。四国。東海。

 

さまざまな地域の文化や技術が集まっています。

 

私は、

 

東瀬戸内海の工場であり、物流センターのあるインターチェンジであり、遠くから来た人の宿でもあり、海上交通の管制塔だった

 

ように思えて仕方がありません。

 


そして、それを支えていたのが海人(あま)たちです。

 

海人は、農地を支配する豪族とは少し違います。

 

彼らが動かしていたのは、港であり、海峡であり、航路でした。

 

船を出し、兵を運び、塩を作り、魚を獲り、鉄を運ぶ。

 

つまり、海そのものを動かす人たちだったのでしょう。

 


 

そう考えると、

 

淡路島では土地を代々支配する巨大豪族が育つ構造そのものが違っていたのではないでしょうか。

 

島全体が、

 

鉄を作る。

 

塩を作る。

 

海峡を守る。

 

航路を管理する。

 

そのための島だった。

 

そうであれば、

 

巨大古墳を築いて「ここは私の国だ」と宣言する必要はありません。

 

むしろ、それでは困るのです。

 

海峡は、みんなが使う。

 

港も、みんなが使う。

 

だから私は、

 

淡路島は誰か一人の領土ではなく、

 

東瀬戸内海の連合勢力が共有する島

 

だったのではないか、と考えています。


 

ここで、記紀を思い出します。

 

 

淡路島は国生み神話で最初に生まれる島です。

 

イザナギは淡路に宮を置いたと伝えられます。

大和大國魂を鎮める古社も存在します。

 

第18代反正天皇は淡路で生まれたという伝承があります。

 

淡路島は大和朝廷の御糧地として深い関わりがあり、この地域には鳥獣が多く棲んだため大和朝廷の狩猟地とされ、淡路宮が置かれていたそうです。

 

仁徳天皇は淡路からオノゴロ島やあじまさの島を見る有名な歌を詠みます。

 

応神・仁徳・履中の時代には、淡路の海人(あま)が王妃を送り、外交を支え、軍事にも参加しています。

 

さらに御食国として、長く皇室へ聖なる水や海産物を献上しました。

 

これだけ多くの天皇と関わる”島”が、他にあるでしょうか。

 

もちろん、記紀はそのまま史実ではないと思っています。

 

しかし編纂した人たちが、

 

「淡路は皇統にとって特別な島だ」

 

という共通認識を持っていたことは確かだと思います。

 

 

淡路島は、

 

王権が征服した島ではなく、

 

王権そのものの故郷だったのではないか。つまり実家。

 

だから、

 

後から現れた豪族が巨大前方後円墳を築いて

 

「ここは私の島だ」

 

と言える場所ではなかった。

 

そこは、

 

みなの始祖の島だったからです。

 

 

もし、この考えが正しいなら、

 

前方後円墳がないことは、淡路島の弱さではない。むしろ逆。

 

淡路島は、王墓を築く島ではなく、そもそも 王権を支える島 だった。

 

鉄を作る。塩を作る。海を守る。航海を支える。

 

そして始祖を祀る。

 

だから巨大古墳なんか築く必要は全くなく、

 

塩と水が残り、工房が残り、海峡が残り、古社が残り、そして神話が残った。

 

ただ、その島を取り巻く周囲の国々には巨大な前方後円墳を残し、その地は王権の支配の及ぶ地であることを示した。

 

#そう考えると、大和に巨大な前方後円墳があり、讃岐、阿波、播磨、丹波、丹後、山城、吉備に同じ時期に同じ形の古墳を作り、多くの渡来人が来るようになった河内には世界最大級の古墳群を築造することに合点がいきます。そして、一番遠い東国にも、朝鮮半島にも、その後、より多くの前方後円墳が築かれる。

 

そして最後に、もう一人だけ最初に戻ってつけくわえておきます。

 

百襲姫命です。

 

百襲姫命は、系譜の一説では母方をたどると淡路島につながります。

 

また讃岐・水主にも百襲姫伝承が残り、東瀬戸内海には彼女の記憶が点々と残されています。

 

もし淡路島が、東瀬戸内海の人々が共有する「始祖の島」だったのなら……

 

百襲姫命は単なる大和の霊力を持った巫女ではなく、

 

大王の王女でありながら、始祖の島の血統を引き、

東瀬戸内海、ひいては倭国そのもの、を背負うにふさわしい女性

 

だった。

 

そんな妄想的結論でいかがでしょうか?

 

 

その話は、次章以降でゆっくり考えてみたいと思います。

 

(第四章 完)

第四章 中編

銅鐸の島、海の入口

―松帆銅鐸群と南淡路の青銅祭祀圏―

 

前編では、北淡路を見ました。

 

  • 五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)

  • 舟木遺跡

  • 鉄器工房

     

淡路が単なる通過点ではなく、鉄器・海上交通・祭祀を抱えた重要な島だった可能性を考えました。

 

最初は、有名な遺跡が北方にあったのでこちらに注目しました。

 

しかし、淡路島の深さは北だけでは終わらないことを今になって知りました。

 

ちょうど、帰省の途中、いつもはうどんを食べたいので加速して香川に向かうところ、

 

南あわじ市松帆西路にある「南あわじ市滝川記念美術館玉青館」に有名な松帆銅鐸の本物が展示されているとのことで、今回は高速を降りて、そちらで見学をさせていただきました。

 

 

結論として南淡路へ目を向けると、まったく別の顔がありました。びっくり

 

 

北淡路が「鉄の島」だったとすれば、南淡路は、古い青銅祭祀の島だったようなのです。

 

 

鉄と銅、はかったようです。

 

 

しかもそれは、単に銅鐸が出たという話ではありません。

銅鐸。
銅剣。
貨泉。
仿製鏡。
銅鏃。
銅戈。
銅矛。
搬入土器。
半島系住居。
そして、三原平野の古代地形。

これらを重ねて見ると、南淡路は単なる農耕地ではなく、海から来た人々が船を寄せ、風を待ち、潮を読み、交易し、祭祀を行った、海峡型の中継地だったようにも見えてきます。

 

少し言いすぎかもしれませんが、弥生時代の南淡路は、後世の港町というより、もっと原初的な意味での「海のキャンプ地」のような地だったのかもしれません。

 

西から来た一行が、いきなり阿波へ入るのではなく、いきなり播磨や河内へ向かうのでもなく、まずここに船を寄せる。

そして火を焚き、荷を下ろし、海の神に祈り、次の航路を決める――。

 

そんな景色が、ちょっと頭をよぎりました。

 


1. 現在の三原平野だけを見てはいけない

【図1】:グーグルマップの三原平野、ハートマークは滝川記念美術館玉青館、昔は”御”原だったかも

 

現在の三原平野を見ると、広い平らな農地の印象が強いです。

 

しかし、南あわじ市の展示にあった古代地形ジオラマ↓を見て、かなり印象が変わりました。

 

弥生時代の三原平野には、海がかなり内側まで入り込み、内湾・潟湖のような水域があったことが示されています。これは?爆笑

 

つまり、ここは、

 

海から人が入り、物が入り、祭祀財が入り込む場所だった可能性があります。

 

 

【写真1】弥生時代の三原平野復元ジオラマ

弥生時代の三原平野復元ジオラマ。現在は農耕平野として見えるが、当時は海が内側まで入り込み、内湾・潟湖的な水域を抱えていた可能性がある。青銅器出土地や弥生遺跡がこの周辺に集中することは、南淡路が海から人・物・祭祀財を受け入れる入口だったことを示している。

 

 

【写真2】淡路温故之図のパネル

江戸時代後期にいろんな記憶をまとめて描かれた淡路温故之図、三原平野を「内陸」とは描いていない。江戸時代の時点でここが内湾だった記憶は残っている。

 

 

いまの地図では陸地に見える場所でも、弥生時代には水辺だった。

 

 

しかも、そこに青銅器が集中する。

 

この組み合わせはかなり重要です。

 

青銅器は、ただの道具ではありません。


祭祀財であり、威信財であり、ときには集団の記憶そのものです。

 

そうしたものが、海の入口に集中する。

 

これは、南淡路がただの村落地帯ではなく、外から来る人々を受け止める場だったことを示しているように見えます。

 


2. 松帆銅鐸は、突然現れた奇跡か

南淡路の青銅器といえば、まず松帆銅鐸群が有名です。

 

2015年、南あわじ市松帆地区の砂山から、7点の銅鐸が発見されました。


さらに、銅鐸に伴う「舌(ぜつ)」も確認されました。

 

これは、日本の銅鐸研究にとって非常に大きな発見でした。

 

しかし、松帆銅鐸群は、何もないところに突然現れた奇跡ではありません。

 

淡路島には、それ以前から銅鐸や青銅器の出土が知られていました。

 

展示資料の「淡路島出土の弥生時代青銅器一覧」を見ると、銅鐸だけでもかなりの数があります。

  • 中川原銅鐸
    南あわじ市中川原周辺出土

  • 慶野中の御堂銅鐸附舌
    南あわじ市慶野中の御堂出土

  • 慶野銅鐸
    南あわじ市慶野周辺出土

  • 伝淡路国出土銅鐸
    伝淡路国出土

  • 俵文銅鐸
    伝淡路島出土、または淡路関係資料として伝来

  • 中条銅鐸
    南あわじ市中条周辺出土

  • 伝淡路川出土銅鐸
    伝淡路川出土

  • 松帆1〜7号銅鐸
    南あわじ市松帆地区、松帆銅鐸群

さらに、銅鐸だけではありません。

  • 古津路銅剣
    南あわじ市松帆古津路出土。細形・中細形銅剣群

  • 鉾田遺跡の小形仿製内行花文鏡
    南あわじ市鉾田遺跡出土

  • 嫁ヶ淵遺跡の青銅器付木製品
    南あわじ市嫁ヶ淵遺跡出土

  • 幡多銅戈
    南あわじ市幡多周辺出土

  • 入田稲荷前遺跡の貨泉
    南あわじ市八木地区、入田稲荷前(いりたいなりまえ)遺跡出土

  • 立石遺跡の銅鏃
    南あわじ市立石遺跡出土

  • 喜平成遺跡の銅鏃
    南あわじ市喜平成遺跡出土

  • 北田遺跡の貨泉
    南あわじ市北田遺跡出土

  • 銅鏡片
    淡路島内遺跡出土。詳細な遺跡名・時期は資料確認が必要

  • 銅矛
    淡路島内出土。詳細な出土地・型式は資料確認が必要

  • 角木遺跡の倣製鏡
    淡路島内、角木遺跡出土

     

これだけ多様な青銅器が出てるんです。笑い泣き

 

もちろん、個々の資料については、出土地が「伝承出土地」であるもの、詳細な出土状況が不明なもの、後世に伝来したものも含まれます。したがって、すべてを同じ重さで扱うことはできません。

 

しかし、それでも重要なのは、淡路島、とくに南淡路周辺に、銅鐸・銅剣・銅戈・銅矛・銅鏃・貨泉・仿製鏡・銅鏡片といった多種類の青銅器が重なっていることです。

 

つまり、松帆銅鐸群は、孤立した発見ではありません。

 

淡路島に沈んでいた青銅器文化の厚みを、一気に見える形にした発見だったのです。

 

 

 

【写真2】淡路島出土の弥生時代青銅器一覧

 

青玉館の図録にあった淡路島出土の弥生時代青銅器一覧。銅鐸だけでなく、古津路銅剣、貨泉、銅鏡、銅鏃、銅戈、銅矛、青銅器付木製品などが確認される。南淡路を単なる銅鐸出土地ではなく、弥生青銅器文化の濃い島として見る必要あり。

 

つまり、松帆銅鐸群は、孤立した発見ではありません。

 

淡路島に沈んでいた青銅器文化の厚みを、一気に見える形にした発見だったのです。


3. 松帆銅鐸群――砂山から出た「古い音」

ここで松帆銅鐸群のすごさを開設しておきます。

 

それは、数だけではありません。

 

7点の銅鐸がまとまって見つかった。

それだけでも大発見です。

 

しかし、さらに重要なのは、舌が伴っていたことです。

 

銅鐸の舌とは、内部に吊るされて音を鳴らすための部品です。

 

つまり、松帆銅鐸は、ただ眺めるための青銅器ではありません。

 

鳴らされ、聞かれた銅鐸だったのです。

 

後の大型銅鐸は、しだいに「見る銅鐸」としての性格を強めていきます。


巨大化し、装飾化し、視覚的な祭器になっていく。

 

しかし、松帆銅鐸群は、古い段階の「聞く銅鐸」の姿をよく残している。

ここが非常に重要です。

 

 

【写真3】松帆銅鐸群と舌

松帆銅鐸群。7点の銅鐸と7本の舌が確認された。舌を伴うことは、銅鐸が視覚的な祭器である前に、音を鳴らす祭器であったことを示す。南淡路には、古い「聞く銅鐸」の祭祀が濃く残っていた。

 

ここで少し想像してみます。。。

 

三原平野の内湾。
砂嘴。
河口。
海から上がってきた人々。
潮待ちの夜。
火の明かり。

 

そして、青銅の音。

 

銅鐸の音がどのように鳴った?たまに資料館などで復元された銅鐸の音を聞くことができます。

 

カランカランと音がしましたが舌があるということは、少なくともそれは当時も沈黙する青銅器ではなかったということです。

 

南淡路の青銅祭祀は、音を伴っていた。

 

松帆銅鐸群は非常に特別です。


4. 14C年代――南淡路の時間が一気に古くなる

さらに松帆銅鐸群を重要にしているのが、年代です。

 

具体的には内部や入れ子の中に残っていた植物片の放射性炭素年代測定です。

 

ここは慎重に。

 

測定されたのは、銅鐸そのものではありません。
銅鐸内部などに残っていた植物片です。

 

したがって、「銅鐸そのものが紀元前4世紀に鋳造された」と断定することはできませんが、

 

しかし、それでもこの結果は重いです。

 

展示資料では、4号銅鐸の試料①〜⑤にある程度まとまりがあり、紀元前4世紀半ばから紀元前2世紀半ばほどの年代が示されています。

 

もしこの植物片が埋納時期に関わるなら、松帆銅鐸群は、従来考えられていたよりもかなり古い段階に埋納された可能性があります。

 

 

 

【写真4】舌と紐の写真

 

【写真5】測定結果がなんと紀元前22世紀?

 

なんと、紀元前4世紀はおろか、紀元前9世紀? 紀元前14世紀? 紀元前22世紀?

 
わけがわかりませんが、2号銅鐸の分析は炭素量の不足によるばらつきということらしい。
 
でも紀元前2~4世紀の信頼性もゆらぐので、とても気になります。キョロキョロ
 

 【写真6】植物と14C年代

 

松帆銅鐸群内部に残っていた植物片の14C年代測定。

 

銅鐸そのものの製作年代ではない点に注意が必要だが、南淡路の銅鐸埋納が弥生中期のかなり古い段階にさかのぼる可能性を示す。

 

見えてくるのは、南淡路が「後から銅鐸祭祀を受け取った地域」ではなく、かなり早い段階から青銅祭祀の前線にいた可能性です。

 

南淡路は、遅れた場所ではなかったっぽい。

むしろ、かなり早く銅鐸祭祀が始まった場所だったのかもしれません。

 


5. 青銅の成分と鉛同位体比

松帆銅鐸群では、青銅の成分分析や鉛同位体比の分析も行われています。

青銅器は、銅・錫・鉛などを含みます。


その比率や鉛同位体比を調べることで、原料や系統、他の青銅器との関係を考える手がかりになります。

 

展示資料では、松帆銅鐸群が、古い型式の銅鐸や半島系青銅器との関係を考えさせる資料として紹介されています。

 

しかし、成分が近いことは、ただちに「同じ場所で作られた」ことを意味しません。

  • 素材の供給源が似ているのか

  • 工人集団が関係するのか

  • 流通ネットワークが重なるのか

そこは丁寧に分ける必要があります。

 

 

 

【写真7と8】出土状況と複数埋葬と聞く銅鐸出土例の展示パネル

 

古い型式の銅鐸や半島系青銅器との関係を考えるうえで重要な資料で。ただし、成分の近さは鋳造地の同一性を直ちに示すものではなく、素材・工人・流通圏を考える補助線として扱うべき。

それでも、松帆銅鐸群が南淡路だけで完結する資料ではないことは明らかです。

 

南淡路は、古い青銅器ネットワークに深く関係していた可能性が高い。

この点はかなり重要です。

 


6. 兄弟銅鐸――松帆は孤立していなかった

松帆銅鐸群でさらに重要なのが、同笵銅鐸の存在です。

 

古ーい銅鐸ですが、なんと同笵銅鐸が存在するんです!びっくり。

 

同笵とは、同じ鋳型、あるいは非常に近い鋳型系列で作られた銅鐸の関係です。

いわば「兄弟銅鐸」です。

 

展示資料では、松帆銅鐸群と他地域の銅鐸との驚くべき関係が示されています。

同笵関係として、次のような対応が示されています。

  • 松帆2号・4号銅鐸 = 淡路の慶野中の御堂銅鐸

  • 松帆3号銅鐸 = 島根の加茂岩倉27号銅鐸

  • 松帆5号銅鐸 = 島根の荒神谷6号銅鐸

松帆銅鐸群は、南淡路だけで閉じていません。

淡路島内だけでなく、なんと島根出雲方面ともつながる広域青銅器ネットワークの中にある。

 

別記事で、丹後と播磨、阿波はつながっているという記事を書いたのですが、島根出雲ともつながっています。

しかも、紀元前2~4世紀の時点で。

これはかなり気になります。

 

【写真9】兄弟銅鐸 松帆銅鐸パンフレットから

 

【写真10】兄弟銅鐸の展示パネル

松帆銅鐸群の同笵関係を示す展示。松帆銅鐸は、淡路島内の慶野中の御堂銅鐸だけでなく、島根県の加茂岩倉・荒神谷出土銅鐸とも兄弟関係を持つ。これは南淡路が、広域の青銅祭祀ネットワークに接続していたことを示す。

 

ここで通常の感覚だと、「出雲から来た」と思うのですが、ちょっと踏みとどまって考えます。

 

 

荒神谷や加茂岩倉は、大量一括埋納という特殊な性格を持ちます。
そこにあった銅鐸が、すべてその土地で長く使われていたとは限らないのかなと。

 

あれだけの銅鐸が一括で埋納されていたわけです。これはおそらく訳ありです。

 

これは想像ですが、何か政変があって、そのときの銅鐸祭祀の王族がこれらを回収してここへ持って帰った、または持ってきたということも考えれます。

 

見た感じ、ここで使われていたものをまとめたという感じではなさそうです。

 

むしろ、畿内や丹波丹後を移動しながら回収してきたものかも知れません。

 

これが神話の国譲り? とするなら、かなり古い時代の話ですけど。。。

 

 

同笵関係が示しているのは、単純な出雲起源ではありません。

 

銅鐸や人の移動があった。
ほんとうに広い西日本の祭祀ネットワークがあった。
南淡路はその一つのつながる拠点だった。

 

まずはここまでを押さえるべきかも

 

 

7. 古津路銅剣――南淡路は銅鐸だけではない

南淡路の青銅器を銅鐸だけで見ると、半分しか見えません。

 

もう一つ新しい重要な発見が、古津路銅剣群です。

 

古津路では、昭和41年に銅剣が10本発見びっくりされ、その後の調査で4本が加わり、合計14本がまとまって出土したことが分かっています。

 

分類としては、細形・中細形銅剣です。

 

しかもこの古津路は、松帆銅鐸群の推定出土地に近いのです。

 

 

【写真11】古津路銅剣

古津路銅剣。南あわじ市松帆古津路で発見された細形・中細形銅剣群。松帆銅鐸群の推定出土地に近く、南淡路が銅鐸祭祀だけでなく、瀬戸内海沿岸の青銅武器形祭器ネットワークにも接続していた可能性を示す。

 

細形・中細形銅剣は、瀬戸内海沿岸の青銅武器祭祀と深く関わります。

 

その銅剣群が、松帆銅鐸群のすぐ近くにある。

これは、南淡路が銅鐸圏と銅剣圏の交差点だった可能性を示しています。

 

ここまで来ると、南淡路は単なる銅鐸の島ではありません。

 

銅鐸、銅剣、さらに銅戈、銅矛、銅鏃、仿製鏡、貨泉まで視野に入る。

 

南淡路は、複数の青銅器文化圏が交差する結節点だったのです。


8. 仿製鏡と銅矛――祭祀は消えたのではなく、姿を変えたのか

今回の青銅器一覧で、意外に重要だと感じるのが仿製鏡銅矛です。

  • 鉾田遺跡の小形仿製内行花文鏡

  • 角木遺跡の倣製鏡

  • 銅鏡片

  • そして、銅矛

これは、松帆銅鐸や古津路銅剣とは少し違います。

 

銅鐸・銅剣の古い祭祀が、その後そのまま大型銅鐸祭祀へ伸びていったようには見えにくい。

 

しかし、だからといって南淡路から青銅器文化が消えたわけではありません。

 

むしろ、貨泉・仿製鏡・銅鏡片・銅鏃・銅戈・銅矛のような、より複雑な青銅器文化へ姿を変えた可能性があります。

 

これはかなり大事な視点です。

 

以前は、私は「南淡路では古い青銅祭祀が早く閉じた」と整理していました。

それは今も大筋では正しいと思います。

しかし、今回の一覧を見ると、もう少し精密に言うべきです。

南淡路では、古い銅鐸・銅剣祭祀は早く立ち上がった。
しかし、その後に青銅器文化が消えたわけではない。
大型銅鐸へ一直線に進むのではなく、貨泉・仿製鏡・銅鏃・銅戈・銅矛・銅鏡片など、別の青銅器文化へ変化した可能性がある。

これは、「祭祀の断絶」ではなく、祭祀表現の集合と見た方がよいのかもしれません。

 

淡路は祭祀も集まる場所だった。

 

 


9. 入田稲荷前遺跡――青銅祭祀が閉じても、交流は続いた

ここで重要になるのが、南あわじ市八木地区の入田稲荷前(いりたいなりまえ)遺跡です。

 

入田稲荷前遺跡では、中国・新の時代に鋳造された貨泉が3枚、重なった状態で出土しています。

 

弥生時代に貨幣経済が成立していたわけではないでしょう。

しかし貨泉は、交易品、威信財、青銅素材、あるいは装身具のような意味を持っていた可能性があります。

さらに重要なのは、入田稲荷前遺跡で、讃岐・阿波地方などからの搬入土器が確認されていることです。

 

 

 

 

【リンク】入田稲荷前遺跡・貨泉関連資料

 

入田稲荷前遺跡からは、中国・新の時代の貨幣である貨泉が3枚重なって出土している。さらに讃岐・阿波地方などからの搬入土器も確認され、南淡路が弥生後期にも広域交流の玄関口であったことを示す。

つまり南淡路は、松帆銅鐸や古津路銅剣の古い祭祀だけで終わった場所ではありません。

 

その後も、阿波・讃岐・河内・紀伊、さらには大陸系の文物まで受け入れる海峡型の交流圏であり続けた可能性があります。

 

青銅器を主役にした古い祭祀は、早い段階で閉じたのかもしれない。

しかし、人や物の交流は消えていない。

 

祭祀の表現が変わっただけで、南淡路は海の入口であり続けた。

 

これは、かなり重要な見方だと思います。

 


10. 南淡路は、貿易港だったのか

ここまで見てくると、南淡路はかなり「港」っぽく見えてきます。

ただし、ここでいう港とは、後世の港湾施設のことではありません。

倉庫群や岸壁が整備された港湾都市という意味ではありません。

弥生時代の南淡路に想定できるのは、もっと原初的な港です。

  • 内湾

  • 潟湖

  • 砂嘴

  • 河口

  • 船を寄せられる水辺

  • 風を待てる場所

  • 水や食料を得られる場所

  • そして、祭祀を行える場所

この意味で、南淡路は海峡型の中継地だった可能性があります。

西から来た一行が、阿波に入る前にここでキャンプを張る。
 

播磨へ向かう前に、ここで風を待つ。
 

河内へ向かう前に、ここで情報を得る。
 

潮を読み、荷を整え、青銅器を示し、祈る。

そう考えると、いろいろな出土物が少し違った顔を見せ始めます。

  • 松帆銅鐸は、在地の村だけの祭器ではなく、海から来た集団の祭祀財だったかもしれない。

  • 古津路銅剣は、瀬戸内海を移動する青銅武器祭祀圏の痕跡かもしれない。

  • 貨泉は、交易集団が持ち込んだ大陸系文物かもしれない。

  • 搬入土器は、阿波・讃岐・河内・紀伊との実際の往来を示す。

少しくだけて言えば、南淡路は弥生時代の海人たちのベースキャンプだったのかもしれません。

もちろん、テントは張っていなかったでしょう。

でも、火は焚いたはずです。

そして、祈りはあったはずです。

 


11. 伊邪那岐尊も、外から来たのか

ここで、神話の話を少しだけ。

 

もちろん、伊邪那岐尊をそのまま弥生時代の実在人物として扱うつもりはありません。

 

しかし、淡路が後に国生み神話の最初の島として語られたことはとても重い。

 

もし南淡路が、古い時代から海の入口であり、外から来た人々がまず船を寄せる場所だったとすれば、伊邪那岐尊の記憶も、まったく空から降ってきた話ではないのかもしれません。

 

もしかすると、最初に来たのは西からだったかもしれない。
あるいは南からだったかもしれない。

  • 阿波側から。

  • 紀伊水道側から。

  • 瀬戸内西部から。

  • あるいは、もっと遠い海の向こうから。

そうした人々が、まず南淡路の内湾に船を寄せる。
そこに住みつく。
そこを足場に、四国や播磨、河内へ向かう。

 

もちろん、これは妄想仮説ですが、そこで人が進化したわけではないのでどこかから来たのは間違い無い😑。

 

しかし、三原平野の古代地形、松帆銅鐸群、古津路銅剣、貨泉、搬入土器を重ねると、外から来た人々がここを最初の足場にしたという読みは、まったく荒唐無稽ではありません。

 

『古事記』では、淡路島のあとに四国が生まれます。

これをそのまま史実とは言いません。

 

しかし、古い海上集団がまず淡路に足場を置き、そこから四国方面へ展開した記憶が、後代に神話として再編集された可能性は、検討する価値があると思います。


12. 御原としての三原、国魂祭祀としての南淡路

「三原」という地名も気になります。

『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』では、三原郡の由来について、三原平野を天皇の御猟野、すなわち御原と見る説や、美称の「み」を付した「みはら」とする説が紹介されています。


 

 

 

【写真10】『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』三原・大和大国魂神社関連記述


『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』の三原郡・大和大国魂神社に関する記述。三原を「御原」と見る説、大和大国魂神社が三原平野を見渡す地に鎮座すること、同社が後に淡路国二宮と呼ばれたことなどが記される。弥生青銅祭祀の古層と、後代の大和的国魂祭祀の重なりを考える補助資料となる。

ここでも、弥生時代へ直結させることはできません。

しかし、南淡路の三原平野が、後代にも王権的・国魂祭祀的な景観として理解されていたことは注目すべきです。

 

  • 古い青銅祭祀の島。

  • 海から来た人々の入口。

  • そして後代には、大和大国魂神社が置かれる場所。

 

この重なりは、偶然だけでは片づけにくい気もします。

 

 

また、大和大国魂神社については、三原平野を見渡す景勝地に鎮座し、のちに淡路国二宮と呼ばれたことが記されています。

創建年代は明らかではありませんが、大和朝廷の勢力が淡路を支配し始めた時期に関わる可能性も示されています。

 

【写真12・13】大和大國魂神社の鳥居とその脇にある説明版
御原(三原)の海人を統率した倭氏ゆかりの神社で淡路国二の宮とされるそうです。
最初は西の瀬戸内海を向いていが、こちらを無視する舟が増え祟りがあったので、向きを北に変えたそうです。何かを示唆している気がします。
 
【写真14・15】大和大國魂神社の拝殿と大和社印(ここで出土)
大和国玉神社の拝殿はこじんまりとしていますが、ここから「大和社印」が出たそうです。
 

南淡路は、古い祭祀の記憶を抱えた場所であり、後にオオナムチ系の国津神を後裔が大和の国魂として祀りますが、向きを変えたということは、国ゆずりとの関係や立ち位置の変化が再解釈された場所だったのかもしれません。

 


13. 南淡路は、早く始まり、祭祀が集合し、姿を変えた

ここまで見てくると、南淡路の姿が鮮明になってきます。

南淡路は、遅れた場所ではありません。

むしろ、かなり早く始まった場所です。

  • 松帆銅鐸群は、古い「聞く銅鐸」の祭祀を示す。

  • 古津路銅剣群は、瀬戸内海沿岸の銅剣祭祀との接続を示す。

  • 同笵銅鐸は、南淡路が広域青銅器ネットワークに属していたことを示す。

  • 入田稲荷前遺跡の貨泉や搬入土器は、弥生後期にも南淡路が交流の玄関口であり続けたことを示す。

  • 仿製鏡や銅矛、銅戈、銅鏃は、祭祀や威信財の表現が一系統ではなかったことを示す。

  •  

つまり、南淡路は単なる銅鐸の島ではありません。

 

青銅器祭祀の島であり、
海峡交易の島であり、
外来文物の入口であり、
 

後に始祖神話と国魂祭祀が重ねられる島だった可能性があります。

 

ここで、第四章前編からの問いに戻ります。

 

なぜ淡路には、重要な前方後円墳が見えにくいのか。

 

南淡路の青銅器の厚みを見ると、淡路が弱かったとはとても思えません。

むしろ、淡路はかなり古い段階で、青銅器祭祀と海上交流の前線にいました。

しかし、その力は島内の王墓として表現されるのではなく、別の形へ移っていったのかもしれません。

  • 祭祀の音。

  • 海の入口。

  • 交易の拠点。

  • 始祖の記憶。

  • 国魂祭祀。

 

淡路は、王墓を置く島ではなかった。

王墓が成立する前の力を抱えた島だった。

そう考えると、淡路に前方後円墳がないことは、弱さではなく、むしろ役割の違いを示すように見えてきます。


14. 次回へ

南淡路は、古い青銅祭祀が早く立ち上がった場所だった。

そして、その祭祀は大型銅鐸へ一直線に続いたのではなく、貨泉・仿製鏡・銅鏃・銅戈・銅矛・搬入土器のような、より複雑な交流回路へ姿を変えていった。

もしかすると、南淡路は「終わった祭祀の島」ではなく、祭祀が姿を変えた島だったのかもしれません。

そしてその先に、伊邪那岐尊の始祖神話が重なっていく。

 

伊邪那岐尊も、最初は外から来た人だったのかもしれない。

西から、あるいは南から。

そして、この海の入口にまず居着いた。

 

もちろん、これはまだ仮説です。

 

でも、三原平野の古代地形と、松帆銅鐸群と、古津路銅剣群と、入田稲荷前遺跡の貨泉を重ねると、その想像は少しだけ現実の手触りを帯びてきます。

 

次回は、この「淡路に王墓がない」という問題へ戻ります。

 

なぜ淡路は、これほど重要でありながら、前方後円墳を掲げなかったのか。

淡路の人々、工人、海人、祭祀者は、どこへ向かったのか。

 

そして、淡路・阿波・讃岐・吉備・播磨の力は、どのように大和の箸墓へ流れ込んだのか。

 

淡路の沈黙は、いよいよ王権形成の核心へとつながっていきます。

 

#いよいよって、、、実はそれほどすごい回収ができるネタも核心もまだ見つかってないんですが。。。W

 


参考資料・出典メモ

※本文作成にあたり、以下の資料・展示解説・公的資料を参照した。

  • 南あわじ市教育委員会・南あわじ市関連展示資料
    松帆銅鐸群、古津路銅剣、淡路島出土青銅器一覧、三原平野古代地形復元、14C年代、青銅成分、兄弟銅鐸等の展示解説。

  • 南あわじ市公式資料
    松帆銅鐸群関連資料、入田稲荷前遺跡貨泉関連資料、井手田遺跡関連資料。

  • 兵庫県教育委員会資料
    入田稲荷前遺跡、貨泉、讃岐・阿波地方などからの搬入土器に関する発表資料。

  • 『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』
    角川書店、1988年。
    該当項目:「三原」「三原郡」「三野郷」「大和大国魂神社」周辺記述。

  • 淡路市・南あわじ市・兵庫県立考古博物館等の淡路島弥生遺跡・青銅器関連資料。

第四章(前編) 日本の始まりなのに前方後円墳がない島

~王権以前あったのは何か?~

 

そういえば、そうだ。

 

淡路島についての古代史を紐解いていると、そう言えば😅ということがあります。

この島には、古代の瀬戸内海にとって重要な場所である条件がいくつか揃います。

 

 ・巨石磐座祭祀の痕跡があり
 ・南部で弥生中期から最古級かつ広い繋がりを示す古式青銅器が出土

 ・弥生後期に遺跡が濃く立ち上がり

 ・北部で大規模鉄器生産遺跡があり

 ・製塩もあり

 ・日本の始祖神話が残り

 ・明石海峡と鳴門海峡や紀淡海峡の重要な3つの海峡を押さえる海上交通の要衝にあります。

 

つまり、紀元前からの文明の存在を示しながら大乱期の大規模鉄工房が残り、海峡を押さえる海人族(アマ族)が跋扈し、日本の始まりと記録される、すごい島なのです。

 

 

にもかかわらず、島の力を誇示する「重要な大和王権の王墓」が見えない。淡路市教育委員会の整理では、淡路島の弥生時代遺跡は485遺跡、うち時期特定可能なものは227遺跡とされ、弥生後期に北淡路丘陵帯で顕著な増加がみられます。そして、130基の古墳が確認されています。

なのに、王墓といえる前方後円墳はいまのところ一基も確認されていないそうです。

 

淡路は、王権にかかわる一族がいない島だったのか?

もしかすると逆なのでは?という考え方もありかもしれません。


淡路は、王墓を置けなかった島ではなく、王墓を置かないだけの理由を持った島だったのではないか。


王権が成立してからその中心を飾る島ではなく、大和王権が拠って立つ以前の力を抱えた島であり、そこに大和王権の象徴を置くことも憚られる島だったのではないか。
 

本章では、その可能性を整理してみたいと思います。

【淡路島北部3D地図】手前が明石海峡。淡路島北部の景観。明石海峡・播磨灘方向へ開く北淡路は、弥生後期に工房・祭祀・交流の拠点が濃く立ち上がる舞台でした。

1,淡路は阿波でも播磨でもないが両方をつなぐチョウツガイ

まず前提として、淡路島が古代から古事記でもアワジノホノサワケジマと呼ばれた、独立した一国だったことです。阿波国でも播磨国でもなく、淡路国として令制国としては南海道に属していました。

ただし、交通圏として見たときの淡路の位置はきわめて特異です。

北は明石海峡を介して播磨・畿内へ。
南は鳴門海峡を介して阿波へ。
さらに紀伊水道にも開く。

淡路市教育委員会の歴史環境整理資料でも、淡路島が瀬戸内海海上交通の要衝であり、海峡を見下ろす山上に高地性集落から中近世城郭、近代要塞に至るまで重要拠点が連続して築かれてきたことが示されています。

つまり淡路は、行政上は独立しながら、交通圏としては播磨と阿波の双方に深く結びついていた島でした。
どちらかの周縁ではなく、両者をつなぐ”海の蝶番”だったのです。

蝶番は正面からは見えません。


しかし、それがなければ扉は動かない。
淡路島もまた、そうした位置にあったのではないでしょうか。

 


 

【淡路島俯瞰地図 by Google Eearth】淡路島と周辺海域の位置関係。淡路は古代に独立した淡路国でありながら、明石海峡を介して播磨・畿内へ、鳴門海峡を介して阿波へ結びつく海上交通の要衝にあった。行政上の独立と、交通圏としてのリンクが同時に見えてくる。

2,弥生後期の淡路は、明らかに「普通の島」ではない

淡路の本当の特異性は、弥生時代中期に一定の重要な痕跡を持ちながらも、弥生後期に一気に濃くなる点にあります。

淡路市教育委員会の整理によれば、淡路島内の弥生時代遺跡は485遺跡、うち227遺跡が時期特定可能であり、弥生後期になると北淡路の丘陵帯で遺跡が顕著に増加します。これは単なる集落数の増加ではなく、”生産・祭祀・交流”が重なった拠点群の成立を示していると見るべきでしょう。

ここで重要なのは、淡路が「後からのみ目立ってきた島」ではないことです。


むしろ、もともと潜在していた力が、弥生後期になってはっきりと噴き出してくる。
そう見た方が自然です。

この章の核心は、ここにあります。
淡路は、王権秩序の外にあった島ではない。
むしろ、その成立以前の力が、工房・祭祀・交通という形で先に見えている島だったのではないか。

3, 五斗長垣内遺跡

淡路は「運ぶ島」ではなく「作る島」だった

その象徴が、五斗長垣内遺跡(ゴッサカイトイセキ)です。

【五斗長垣内遺跡全景】


淡路市の公式解説によれば、この遺跡は淡路島北部、播磨灘を見渡す標高約200メートルの丘陵上に営まれた弥生時代後期の鉄器生産遺跡で、竪穴建物跡23棟が検出され、炉跡構造や出土遺物から弥生時代の鉄器製作技術が具体的に明らかになっています。大型の板状鉄斧は半島からもたらされたとみなされ、ここが海を介した鉄素材流入の前線であったこともうかがえます。


写真で望む海は播磨灘です。西方向を望める位置にあります。西側が重要だったんです。


五斗長垣内遺跡が語るのは明快です。

淡路は、その時代、畿内や周囲にもない規模で鉄を実際に加工し、生産する島だったのです。



海上交通の要衝であることと、実際の鉄器生産拠点であること。
この二つが重なることで、淡路の重みは一段上がります。
つまり淡路は「運ぶ島」である前に、「作る島」でもあったのです。

【右側が大型鍛冶炉跡のある竪穴式住居】


【鍛治炉あと】


五斗長垣内遺跡の復元景観。播磨灘を見渡す丘陵上に営まれた弥生時代後期の鉄器生産遺跡。淡路は鉄素材が通過するだけの島ではなく、実際に鉄器を加工・生産する島だったことを示す代表的遺跡である。

 



4、舟木遺跡

工房・祭祀・海上交流が重なる高所中枢

これに対してここ数年新しい発見が続く「舟木遺跡」は、さらに複合的で大規模です。

淡路市の公式解説によれば、舟木遺跡は淡路島北部、標高150から200メートルの丘陵上に立地する弥生時代後期から終末期、すなわち1世紀前半から3世紀前半の大規模集落遺跡で、範囲は南北約800メートル、東西約500メートルに及びます。これまでに4棟の鍛冶工房を含む20棟の竪穴建物跡が確認され、170点を超える鉄器が出土しています。さらに中央部尾根上では、製塩土器、イイダコ壺、釣針、ヤスなどを伴う祭祀遺構が見つかっており、後漢鏡片や九州産のヤリガンナまで出土しています。

【舟木遺跡中央部】左奥の茂みの中にトレンチ跡がありました。


ここで重要なのは、舟木が単なる工房村ではないことです。

鉄がある。
海の遺物がある。
祭祀がある。
広域交易の痕跡まである。

舟木は、山中の一集落というより、**工房・祭祀・海上交流が重なる高所中枢**として見た方が自然です。
淡路の山地は、海と切り離された後背地ではなかった。
むしろ海上交通の延長線上にあったのです。

【舟木遺跡の一部】
舟木遺跡遠景。北淡路丘陵帯に立地する弥生後期から終末期の大規模拠点。今は高所にある平地は農地として使用されている。工房、祭祀、広域交流の痕跡が重なり、山中の集落というより高所中枢として理解すべき遺跡である。右に見える茂みや奥の斜面など、遺構が点在するが、まだ発掘は継続しており今後さらに多くの遺構が見つかる見込み。



    【舟木遺跡出土の土器】   

 

    【舟木遺跡出土の鉄器】


舟木遺跡出土の海と結びつく遺物群。製塩土器、イイダコ壺、釣針、ヤスなどは、舟木遺跡が単なる鍛冶集落ではなく、海上交流地点であったことを物語る。淡路の山地が海と切り離されていなかったことを示す重要な資料である。


さらに、現地でおどろいたのは、舟木遺跡の中央部に巨石磐座を持つ祭祀跡が舟木石上神社として今も祭祀が続いている点です。女人禁制です。

 

これは、太陽信仰と関係がある遺跡の痕跡だと思います。

古代は、昼の祭祀は男性が担当し、夜の祭祀は女性が担当したという記録もありますので。

 

【舟木石上神社の鳥居】


【女人禁制の立札、後ろが磐座と祠】

【舟木石上神社の磐座群、祠の後ろ、人工的な並びの石もある】

 

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5、海辺では塩も生まれていた
 

山上の工房と海浜の資源生産

淡路の特色は、山上の工房だけでは終わりません。

富島遺跡、貴船神社遺跡、引野遺跡など、海浜部では弥生後期から終末期にかけて製塩遺跡が立ち上がります。


【貴船神社遺跡のモニュメント】弥生時代の人が竪穴式住居の前で製塩をおこなっています。

 

【製塩土器】


つまり淡路では、

山上では鉄器工房、
海辺では塩の生産、

という二重の生産体制が動いていた可能性が高いのです。

この構図はとても重要です。

塩は産地や内陸では貴重な物資で、通貨の代わりに使えます。

鉄は言うまでもなく貴重なツールであり、武器でもあります。

 


淡路は、内向きの農業中心地ではなく、周辺海域へ開いた資源生産の島だった。
それも、山と海の両方が役割を分担する形で動いていた。


この段階ですでに、淡路は「ただの島」ではなく、周辺海域を束ねる海上プラットフォームだった可能性が強くなります。


中編・後編へ続きます。



注・主に依拠した一次資料・公的資料

舟木遺跡
https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/44401.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/36897.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48179.html

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48295.html

https://www.city.awaji.lg.jp/site/kouhou/30424.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/28635_72385_misc.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/50942_166540_misc.pdf

五斗長垣内遺跡
https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/30735.html

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/27206.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/27207.pdf

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/35134.html

https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48164.html

松帆銅鐸・同笵関係・鉛同位体比
https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/301019.pdf

https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/life/315212_331363_misc.pdf

南あわじ市滝川記念美術館玉青館 松帆銅鐸展示解説及び図録
 

 

ちょっとお知らせです。


今年の1月の話なのですが、四国中央市新宮町で発足した「四国まんなか研究会」、阿波古代史関係で面識のあった愛媛大学客員教授の越智先生のお誘いもあり発足イベントに参加してきました。


写真1) 越智先生の基調講演


写真2) 奥吉野川の大歩危小歩危渓谷


1日目が発足会及び基調講演、その日は温泉付きロッジに数名で宿泊し、地元の名士の方の差し入れオードブルとビール片手に古代史談義、



二日目が新宮と県境を挟んで山城町の史跡を探索しました。



いやこれがなかなか奥深いの。



あまり知られてない吉野川の上流でもある四国のまんなか地域、実は縄文から始まったすごい秘密が隠されてるんです!グラサン



例えば、、山伏の修行場でもあった地域にはすごい仏教建築や


写真3)宮大工も見学に来るものすごい彫り物の安楽寺本堂


例えば、


巨大な磐座のある神社、




写真4)巨大な磐座のある五十鈴神社



のような四国まんなかならではの秘境パワースポットが密かに眠っています。



そしてその公式ホームページができてました。



活動内容や会員申込フォームなどがありましたので共有しておきます。



ちなみに、「奥吉野川文明」って本当は文明ではなく文化なんだけど、越智先生と私の雑談の中で響きがいいね👍ということでキャッチコピーとして採用されました。



ご興味がありましたら是非!



第三章

百襲姫命と淡路島

~実は深くつながっていた、モモソヒメと母系と東瀬戸内の前線としての淡路島~


百襲姫命と淡路島。

この二つが深くつながっている、と聞いて、すぐにぴんと来る人は百襲姫マニア以外あまりいないと思います。笑

倭迹迹日百襲姫命といえば、まず思い浮かぶのは箸墓古墳。


纒向。


大和。


そして、巨大な王権祭祀の中心にいた巫で女王のような姿です。

だから、そこに突然「淡路島」が出てくると、少し不思議に見えます。

けれども、実はここにかなり大きな話が隠れているのではないか、と私は思っています。

一般にはあまり知られていませんが、百襲姫命の母をたどっていくと、その先に淡路島の王族が現れます。

 

倭国香媛やまとのくにかひめ意富夜麻登玖邇阿礼比売命おほやまとくにあれひめのみこと絙某姉はえいろね蠅伊呂泥はえいろね)です。

 

その父(モモソヒメの祖父)は和知津見命と呼ばれ、淡路に宮を構えた海神系の王族と言われています。

 


その淡路島、古事記の神話で初めに生まれた島と言われますが、その通り、ただの島ではない。

 

【写真1】播磨灘とその周縁の遺跡


東瀬戸内海のなかで、驚くほど重要な位置にいた島なのです。

つまり、百襲姫命と淡路島の関係は、単に後から付けられた飾りではないかもしれない。


もっと古い海上秩序や婚姻ネットワークの記憶を残している可能性がある。

今回はまず、その話をしてみたいと思います。

淡路島が、ただの島だと思ってる方はいないと思いますが、

その通り、瀬戸内海に横たわる最大の島です。

それだけでも十分に特別ですが、本当に大事なのは大きさより位置です。



【図1】淡路島は3つの海峡に接しています

 

この島は、北で播磨灘に開き、東で明石海峡をにらみ、南では鳴門海峡と紀伊水道に接しています。


つまり見方によっては、明石海峡、鳴門海峡、そして紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインを押さえうる位置にある。

これはかなり重要です。

淡路島は、播磨、阿波、讃岐、紀伊水道方面をつなぐ海上結節点です。
言い換えれば、東瀬戸内海の交通と情報と物資の流れを切り替える前線です。

ここを通る舟。
ここで交わる海路。
ここから東西南北に見え、それぞれが異なる周辺の景色。

それをイメージすると、淡路島が東瀬戸内海で超重要であることは、むしろ当然と感じられるはずです。


【写真1】淡路島は、明石海峡・鳴門海峡・紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインをにらむ海上結節点

 


しかも淡路には、ただの集落ではない弥生後期の遺跡がある

淡路島北部にある二つの弥生後期遺跡、

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡です。

この二つは、淡路島を理解するうえで本当に大事な遺跡です。

まず五斗長垣内遺跡。
これは淡路島北部の丘陵上に営まれた、弥生後期の鉄器生産村です。

発掘では二十三棟の竪穴建物跡が見つかり、そのうち十二棟で鉄器づくりが行われていたことがわかっています。


つまりここでは、鉄が少し持ち込まれたのではなく、継続的に鉄を加工し、供給する大きな拠点が存在していたのです。

淡路島がただの通過点ではなく、鉄を生み出す前線だったことを示す、非常に重い遺跡です。


【写真2】五斗長垣内遺跡から西の播磨灘を望む

 


【写真3】五斗長垣内遺跡。大型竪穴式円形建物の中は、弥生後期の鉄器生産工房

 

現地の資料館の説明では、朝鮮半島との関係も強かったとありました。おそらく当時の倭人圏であった伽耶諸国や鉄鉱石の取れる半島西南部だと思います。

 

そして、ここ数年の継続した発掘調査で遺跡の意味付けが変わってきているのがその北方の舟木遺跡です。

私はこの遺跡の規模を見るたびに、ただの山間地集落ではないと思っています。


むしろ、山上の王城のような中枢拠点。

舟木遺跡は、弥生時代後期全体にわたり標高一五〇から二〇〇メートルの丘陵上に広がる大規模遺跡で、鍛冶工房を含む多数の建物跡が確認されています。

 

その領域は五斗長垣内遺跡の六倍とも言われている。


出土した鉄器も非常に多く、ヤス、釣針、鏃など、海と陸の両方に関わる多様な器種が含まれます。


さらに、中央の尾根上では巨石祭祀遺構が現在まで舟木石上神社として古来から祭祀(女人禁制)が継続している。祭神は古代から続くものかどうかは不明ですが、周辺には八坂神社も存在しています。


鉄を作る。海とつながる。しかも巨石を祀る。
 

つまりここは、ただ海で塩を作って魚をとって生活する場所ではない。

 

工房であり、海上拠点であり、祭祀の場でもある。


しかも高所にあって周囲を見渡せる。

 


 

【写真4/5】舟木石上神社巨石祭祀跡(女人禁制)


【写真5】舟木遺跡の中央部にある池と巨石

 

【写真6】舟木遺跡の中央部の白色礫岩、山上ですが丸い小石もありました


なので私は、舟木遺跡をただの工房村でもなく、どうも王権成立前夜の重要な氏族(大田田根子系?)が押さえていた山上の宮、城的拠点として見ています。

 

ちなみに、住吉大社神代記(住吉大社所蔵の神宝、重要文化財)には、船木(舟木)氏の祖先系譜として「船木等本記」という部分があり、そこに大田田命(おおたたのみこと)とその子孫の記述があります。

 

そして、この淡路の舟木の地の南側に隣接する地区は太田とよび、今も存在していますが偶然でしょうか?



【写真7】「舟木遺跡。工房・祭祀・広域交流が重なる、淡路北部の山上中枢拠点だったが、今は山上盆地の田園風景

 

【図2】五斗長垣内遺跡と舟木遺跡の位置関係図、淡路北部丘陵帯に並ぶ二大中核遺跡。五斗長垣内は鉄器生産村、舟木は山上中枢拠点として読める

この二つを並べてみると、淡路島の姿がかなりはっきりしてきます。

海辺の漁村が点在するだけの島ではない。


丘陵上に高度な工房性と交流性を持つ拠点が置かれ、その背後に海上交通と広域ネットワークがあった島です。

しかも海辺では、富島や貴船神社遺跡などで製塩も始まっていく。
つまり淡路は、鉄と塩を同時に持つ島でもあった。

鉄も重要。
塩も重要。
しかも三つの海峡をにらむ。
これで重要でないはずがありません。

【写真8】淡路島では、丘陵上の鉄器生産と海浜部の製塩とが並行して立ち上がっていた


さらに淡路は、東瀬戸内の内輪だけで閉じていません。

【写真9】松帆銅鐸


弥生中期初頭といわれる最古級の松帆銅鐸は、荒神谷や加茂岩倉の銅鐸と同笵関係を持つとされます。
つまり淡路は、出雲を含む日本海側の祭祀財ネットワークともつながっていた可能性が高い。

ここまで来ると、淡路島はもう「国生みの神話の舞台」というだけではありません。
日本海側の技術や祭祀財を受けとめ、東瀬戸内海へ向けて組み替える再編拠点に見えてきます。

 




【図4】同笵関係説明図 淡路は出雲系祭祀財ネットワークの一角でもあった可能性がある。

そんな淡路が、百襲姫命の母系に現れる

ここで、ようやく百襲姫命の話に戻ります。

『古事記』をたどると、百襲姫命の母系の奥に海神と皇統の流れをもつ和知津見命が現れます。


この和知津見命について、『古事記』は
「淡道之御井宮に坐しき」
と記しています。

つまり、淡路に住んだ王族として、はっきり置いているのです。

しかも和知津見命の娘たちは、孝霊天皇の后となり、その系譜の先に百襲姫命や吉備津彦命が現れる。
ここで初めて、百襲姫命の母系に淡路島が出てくる意味が見えてきます。

淡路はただの海上拠点ではない。
王族記憶を持つ島でもあるのです。

ここで一つ大事なことがあります。

百襲姫命と、桃太郎のモデルとも言われる吉備津彦命は、同じ父母を持つ同母同父の兄妹です。
それならば、二人の背後にある血筋的な基盤も、政治的な背景も、本来はかなりの部分で共有されていたはずです。

つまり百襲姫命だけを大和の巫女王として切り離して見るのではなく、
吉備津彦だけを鬼退治の英雄として切り離して見るのでもなく、
このモモ姉弟の背後に何があったかを考える必要がある。

私は、その最初期の背景の一つに、淡路島があった可能性が高いと思っています。

淡路は、三つの海峡をにらむ海上結節点です。

弥生後期の鉄器工房がある。

播磨経由で日本海側とのつながりがあったことは銅鐸も鉄器も示している。
塩がある。

海人がいた。

出雲系祭祀財ネットワークと大田田命の痕跡もある。
和知津見命という淡路在住王族の記憶まである。

このような機能と始祖的記憶を持つ島が、母系の背景にある。
これは決して軽い話ではありません。

さらにその先には、辰砂鉱山を持ち、内海と太平洋、さらに伊勢・東海方面へも接続しうる阿波の問題があります。
この点はまた別の章で考えますが、少なくとも百襲姫命と吉備津彦命は、大和だけの兄妹ではなく、淡路と阿波という東瀬戸内海の重要基盤を背後に持つ姫と彦として見たほうが、ずっと実像に近いのではないかと思います。

モモ姉弟は、なぜ強かったのか

百襲姫命が纒向で最大級の崇拝を受ける巫女だったというのは、おそらく最後に見える完成図です。

けれども、その完成図に至るまでには、東瀬戸内世界の中で名声を高めていく過程があったはずです。
吉備を含めた広域の世界で、人々の記憶に残るだけの事績を積んでいった段階があったはずです。

その背景には、弟たちの武勇もあったでしょう。
吉備津彦には、吉備でもう一人の弟とともに温羅という鬼を退治して平定した、いわゆる鬼退治伝説があります。

けれども、武勇だけでは広域秩序は作れません。

舟がいる。
兵站がいる。
物資がいる。
海上交通を押さえる力がいる。
各地を結ぶ海人ネットワークがいる。

だから私は、こう考えてみたいのです。

モモ姉弟が強かったのは、バックに淡路島がついていたからではないか。

淡路という海上前線。
その背後の海人一族。
さらに阿波という資源と流域交通の基盤。

この二つを背景に持っていたからこそ、百襲姫命は祭祀権威を高め、吉備津彦命は武勇を実際の力として機能させることができた。
そう考えると、百襲姫命と淡路島の関係は、単なる系譜上の飾りではない。
むしろ、彼女が後に纒向で巨大な崇拝を受けるに至る、その前段階の現実的な力の源を示しているのかもしれません。

淡路は、国生みの島だから重要なのではない。
東瀬戸内海の前線として、人、技術、祭祀、海路、そして王族婚姻の結節点だったからこそ、後に最初にここに拠点を張った始祖の国生みの島として語り継がれた。


そう理解したいかなま。






参考文献・参考資料

・『史跡舟木遺跡保存活用計画』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/44401.html

 ※舟木遺跡の保存活用計画本体ページ。掲載日は2023年12月26日更新。 

・『史跡舟木遺跡保存活用計画 概要版』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/50246.html

 概要版PDF:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/36897.pdf

・『舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48179.html

 ※舟木遺跡の概要、規模、拠点性の確認用。 


・『舟木遺跡出土品』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48295.html

 ※鉄器、祭祀遺構、出土品構成の確認用。 


・『広報淡路 令和2年12月号 No.189』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/site/kouhou/30424.html

 ※舟木遺跡発掘調査事業、約40ヘクタール規模、現在も調査が進行中であることの確認用。 


・『五斗長垣内遺跡発掘調査報告書について』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/30735.html

 ※発掘調査報告書公開ページ。23棟の竪穴建物跡、うち12棟の鍛冶工房跡、国史跡指定の確認用。 


・『五斗長垣内遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/35134.html

 ※五斗長垣内遺跡の概要確認用。第三章での位置づけ整理に使用。 


・『淡路島の弥生遺跡の動態と舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市(掲載PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/28635_72385_misc.pdf

・『第Ⅱ章 遺跡の環境』

 著者・発行主体:淡路市(舟木遺跡関連PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/50942_166540_misc.pdf


・『松帆銅鐸同笵関係の調査成果について』

 著者:難波洋三(奈良文化財研究所客員研究員)

 発行主体:南あわじ市

 URL:https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

 ※松帆銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、荒神谷6号銅鐸の同笵関係確認用。本文中に難波洋三氏名が明記されています。 

・『伊弉諾神宮』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=448

・『大和大国魂神社』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=111


・『兵庫県神社庁 大和大国魂神社』

 著者・発行主体:兵庫県神社庁

 URL:https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6329021.html

※本稿では、淡路市・南あわじ市の公的資料、発掘調査報告書、保存活用計画、ならびに神社・文化財の公式公開情報をもとに考察した。