紅棗のVストでタカタカ古代里山散策

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ちょっとお知らせです。


今年の1月の話なのですが、四国中央市新宮町で発足した「四国まんなか研究会」、阿波古代史関係で面識のあった愛媛大学客員教授の越智先生のお誘いもあり発足イベントに参加してきました。


写真1) 越智先生の基調講演


写真2) 奥吉野川の大歩危小歩危渓谷


1日目が発足会及び基調講演、その日は温泉付きロッジに数名で宿泊し、地元の名士の方の差し入れオードブルとビール片手に古代史談義、



二日目が新宮と県境を挟んで山城町の史跡を探索しました。



いやこれがなかなか奥深いの。



あまり知られてない吉野川の上流でもある四国のまんなか地域、実は縄文から始まったすごい秘密が隠されてるんです!グラサン



例えば、、山伏の修行場でもあった地域にはすごい仏教建築や


写真3)宮大工も見学に来るものすごい彫り物の安楽寺本堂


例えば、


巨大な磐座のある神社、




写真4)巨大な磐座のある五十鈴神社



のような四国まんなかならではの秘境パワースポットが密かに眠っています。



そしてその公式ホームページができてました。



活動内容や会員申込フォームなどがありましたので共有しておきます。



ちなみに、「奥吉野川文明」って本当は文明ではなく文化なんだけど、越智先生と私の雑談の中で響きがいいね👍ということでキャッチコピーとして採用されました。



ご興味がありましたら是非!



第三章

百襲姫命と淡路島

~実は深くつながっていた、モモソヒメと母系と東瀬戸内の前線としての淡路島~


百襲姫命と淡路島。

この二つが深くつながっている、と聞いて、すぐにぴんと来る人は百襲姫マニア以外あまりいないと思います。笑

倭迹迹日百襲姫命といえば、まず思い浮かぶのは箸墓古墳。


纒向。


大和。


そして、巨大な王権祭祀の中心にいた巫で女王のような姿です。

だから、そこに突然「淡路島」が出てくると、少し不思議に見えます。

けれども、実はここにかなり大きな話が隠れているのではないか、と私は思っています。

一般にはあまり知られていませんが、百襲姫命の母をたどっていくと、その先に淡路島の王族が現れます。

 

倭国香媛やまとのくにかひめ意富夜麻登玖邇阿礼比売命おほやまとくにあれひめのみこと絙某姉はえいろね蠅伊呂泥はえいろね)です。

 

その父(モモソヒメの祖父)は和知津見命と呼ばれ、淡路に宮を構えた海神系の王族と言われています。

 


その淡路島、古事記の神話で初めに生まれた島と言われますが、その通り、ただの島ではない。

 

【写真1】播磨灘とその周縁の遺跡


東瀬戸内海のなかで、驚くほど重要な位置にいた島なのです。

つまり、百襲姫命と淡路島の関係は、単に後から付けられた飾りではないかもしれない。


もっと古い海上秩序や婚姻ネットワークの記憶を残している可能性がある。

今回はまず、その話をしてみたいと思います。

淡路島が、ただの島だと思ってる方はいないと思いますが、

その通り、瀬戸内海に横たわる最大の島です。

それだけでも十分に特別ですが、本当に大事なのは大きさより位置です。



【図1】淡路島は3つの海峡に接しています

 

この島は、北で播磨灘に開き、東で明石海峡をにらみ、南では鳴門海峡と紀伊水道に接しています。


つまり見方によっては、明石海峡、鳴門海峡、そして紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインを押さえうる位置にある。

これはかなり重要です。

淡路島は、播磨、阿波、讃岐、紀伊水道方面をつなぐ海上結節点です。
言い換えれば、東瀬戸内海の交通と情報と物資の流れを切り替える前線です。

ここを通る舟。
ここで交わる海路。
ここから東西南北に見え、それぞれが異なる周辺の景色。

それをイメージすると、淡路島が東瀬戸内海で超重要であることは、むしろ当然と感じられるはずです。


【写真1】淡路島は、明石海峡・鳴門海峡・紀淡海峡へ向かう三つの重要ラインをにらむ海上結節点

 


しかも淡路には、ただの集落ではない弥生後期の遺跡がある

淡路島北部にある二つの弥生後期遺跡、

五斗長垣内遺跡と舟木遺跡です。

この二つは、淡路島を理解するうえで本当に大事な遺跡です。

まず五斗長垣内遺跡。
これは淡路島北部の丘陵上に営まれた、弥生後期の鉄器生産村です。

発掘では二十三棟の竪穴建物跡が見つかり、そのうち十二棟で鉄器づくりが行われていたことがわかっています。


つまりここでは、鉄が少し持ち込まれたのではなく、継続的に鉄を加工し、供給する大きな拠点が存在していたのです。

淡路島がただの通過点ではなく、鉄を生み出す前線だったことを示す、非常に重い遺跡です。


【写真2】五斗長垣内遺跡から西の播磨灘を望む

 


【写真3】五斗長垣内遺跡。大型竪穴式円形建物の中は、弥生後期の鉄器生産工房

 

現地の資料館の説明では、朝鮮半島との関係も強かったとありました。おそらく当時の倭人圏であった伽耶諸国や鉄鉱石の取れる半島西南部だと思います。

 

そして、ここ数年の継続した発掘調査で遺跡の意味付けが変わってきているのがその北方の舟木遺跡です。

私はこの遺跡の規模を見るたびに、ただの山間地集落ではないと思っています。


むしろ、山上の王城のような中枢拠点。

舟木遺跡は、弥生時代後期全体にわたり標高一五〇から二〇〇メートルの丘陵上に広がる大規模遺跡で、鍛冶工房を含む多数の建物跡が確認されています。

 

その領域は五斗長垣内遺跡の六倍とも言われている。


出土した鉄器も非常に多く、ヤス、釣針、鏃など、海と陸の両方に関わる多様な器種が含まれます。


さらに、中央の尾根上では巨石祭祀遺構が現在まで舟木石上神社として古来から祭祀(女人禁制)が継続している。祭神は古代から続くものかどうかは不明ですが、周辺には八坂神社も存在しています。


鉄を作る。海とつながる。しかも巨石を祀る。
 

つまりここは、ただ海で塩を作って魚をとって生活する場所ではない。

 

工房であり、海上拠点であり、祭祀の場でもある。


しかも高所にあって周囲を見渡せる。

 


 

【写真4/5】舟木石上神社巨石祭祀跡(女人禁制)


【写真5】舟木遺跡の中央部にある池と巨石

 

【写真6】舟木遺跡の中央部の白色礫岩、山上ですが丸い小石もありました


なので私は、舟木遺跡をただの工房村でもなく、どうも王権成立前夜の重要な氏族(大田田根子系?)が押さえていた山上の宮、城的拠点として見ています。

 

ちなみに、住吉大社神代記(住吉大社所蔵の神宝、重要文化財)には、船木(舟木)氏の祖先系譜として「船木等本記」という部分があり、そこに大田田命(おおたたのみこと)とその子孫の記述があります。

 

そして、この淡路の舟木の地の南側に隣接する地区は太田とよび、今も存在していますが偶然でしょうか?



【写真7】「舟木遺跡。工房・祭祀・広域交流が重なる、淡路北部の山上中枢拠点だったが、今は山上盆地の田園風景

 

【図2】五斗長垣内遺跡と舟木遺跡の位置関係図、淡路北部丘陵帯に並ぶ二大中核遺跡。五斗長垣内は鉄器生産村、舟木は山上中枢拠点として読める

この二つを並べてみると、淡路島の姿がかなりはっきりしてきます。

海辺の漁村が点在するだけの島ではない。


丘陵上に高度な工房性と交流性を持つ拠点が置かれ、その背後に海上交通と広域ネットワークがあった島です。

しかも海辺では、富島や貴船神社遺跡などで製塩も始まっていく。
つまり淡路は、鉄と塩を同時に持つ島でもあった。

鉄も重要。
塩も重要。
しかも三つの海峡をにらむ。
これで重要でないはずがありません。

【写真8】淡路島では、丘陵上の鉄器生産と海浜部の製塩とが並行して立ち上がっていた


さらに淡路は、東瀬戸内の内輪だけで閉じていません。

【写真9】松帆銅鐸


弥生中期初頭といわれる最古級の松帆銅鐸は、荒神谷や加茂岩倉の銅鐸と同笵関係を持つとされます。
つまり淡路は、出雲を含む日本海側の祭祀財ネットワークともつながっていた可能性が高い。

ここまで来ると、淡路島はもう「国生みの神話の舞台」というだけではありません。
日本海側の技術や祭祀財を受けとめ、東瀬戸内海へ向けて組み替える再編拠点に見えてきます。

 




【図4】同笵関係説明図 淡路は出雲系祭祀財ネットワークの一角でもあった可能性がある。

そんな淡路が、百襲姫命の母系に現れる

ここで、ようやく百襲姫命の話に戻ります。

『古事記』をたどると、百襲姫命の母系の奥に海神と皇統の流れをもつ和知津見命が現れます。


この和知津見命について、『古事記』は
「淡道之御井宮に坐しき」
と記しています。

つまり、淡路に住んだ王族として、はっきり置いているのです。

しかも和知津見命の娘たちは、孝霊天皇の后となり、その系譜の先に百襲姫命や吉備津彦命が現れる。
ここで初めて、百襲姫命の母系に淡路島が出てくる意味が見えてきます。

淡路はただの海上拠点ではない。
王族記憶を持つ島でもあるのです。

ここで一つ大事なことがあります。

百襲姫命と、桃太郎のモデルとも言われる吉備津彦命は、同じ父母を持つ同母同父の兄妹です。
それならば、二人の背後にある血筋的な基盤も、政治的な背景も、本来はかなりの部分で共有されていたはずです。

つまり百襲姫命だけを大和の巫女王として切り離して見るのではなく、
吉備津彦だけを鬼退治の英雄として切り離して見るのでもなく、
このモモ姉弟の背後に何があったかを考える必要がある。

私は、その最初期の背景の一つに、淡路島があった可能性が高いと思っています。

淡路は、三つの海峡をにらむ海上結節点です。

弥生後期の鉄器工房がある。

播磨経由で日本海側とのつながりがあったことは銅鐸も鉄器も示している。
塩がある。

海人がいた。

出雲系祭祀財ネットワークと大田田命の痕跡もある。
和知津見命という淡路在住王族の記憶まである。

このような機能と始祖的記憶を持つ島が、母系の背景にある。
これは決して軽い話ではありません。

さらにその先には、辰砂鉱山を持ち、内海と太平洋、さらに伊勢・東海方面へも接続しうる阿波の問題があります。
この点はまた別の章で考えますが、少なくとも百襲姫命と吉備津彦命は、大和だけの兄妹ではなく、淡路と阿波という東瀬戸内海の重要基盤を背後に持つ姫と彦として見たほうが、ずっと実像に近いのではないかと思います。

モモ姉弟は、なぜ強かったのか

百襲姫命が纒向で最大級の崇拝を受ける巫女だったというのは、おそらく最後に見える完成図です。

けれども、その完成図に至るまでには、東瀬戸内世界の中で名声を高めていく過程があったはずです。
吉備を含めた広域の世界で、人々の記憶に残るだけの事績を積んでいった段階があったはずです。

その背景には、弟たちの武勇もあったでしょう。
吉備津彦には、吉備でもう一人の弟とともに温羅という鬼を退治して平定した、いわゆる鬼退治伝説があります。

けれども、武勇だけでは広域秩序は作れません。

舟がいる。
兵站がいる。
物資がいる。
海上交通を押さえる力がいる。
各地を結ぶ海人ネットワークがいる。

だから私は、こう考えてみたいのです。

モモ姉弟が強かったのは、バックに淡路島がついていたからではないか。

淡路という海上前線。
その背後の海人一族。
さらに阿波という資源と流域交通の基盤。

この二つを背景に持っていたからこそ、百襲姫命は祭祀権威を高め、吉備津彦命は武勇を実際の力として機能させることができた。
そう考えると、百襲姫命と淡路島の関係は、単なる系譜上の飾りではない。
むしろ、彼女が後に纒向で巨大な崇拝を受けるに至る、その前段階の現実的な力の源を示しているのかもしれません。

淡路は、国生みの島だから重要なのではない。
東瀬戸内海の前線として、人、技術、祭祀、海路、そして王族婚姻の結節点だったからこそ、後に最初にここに拠点を張った始祖の国生みの島として語り継がれた。


そう理解したいかなま。






参考文献・参考資料

・『史跡舟木遺跡保存活用計画』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/44401.html

 ※舟木遺跡の保存活用計画本体ページ。掲載日は2023年12月26日更新。 

・『史跡舟木遺跡保存活用計画 概要版』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/50246.html

 概要版PDF:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/attachment/36897.pdf

・『舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48179.html

 ※舟木遺跡の概要、規模、拠点性の確認用。 


・『舟木遺跡出土品』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/48295.html

 ※鉄器、祭祀遺構、出土品構成の確認用。 


・『広報淡路 令和2年12月号 No.189』

 著者・発行主体:淡路市

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/site/kouhou/30424.html

 ※舟木遺跡発掘調査事業、約40ヘクタール規模、現在も調査が進行中であることの確認用。 


・『五斗長垣内遺跡発掘調査報告書について』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/30735.html

 ※発掘調査報告書公開ページ。23棟の竪穴建物跡、うち12棟の鍛冶工房跡、国史跡指定の確認用。 


・『五斗長垣内遺跡』

 著者・発行主体:淡路市社会教育課

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/soshiki/shakai/35134.html

 ※五斗長垣内遺跡の概要確認用。第三章での位置づけ整理に使用。 


・『淡路島の弥生遺跡の動態と舟木遺跡』

 著者・発行主体:淡路市(掲載PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/28635_72385_misc.pdf

・『第Ⅱ章 遺跡の環境』

 著者・発行主体:淡路市(舟木遺跡関連PDF)

 URL:https://www.city.awaji.lg.jp/uploaded/life/50942_166540_misc.pdf


・『松帆銅鐸同笵関係の調査成果について』

 著者:難波洋三(奈良文化財研究所客員研究員)

 発行主体:南あわじ市

 URL:https://www.city.minamiawaji.hyogo.jp/uploaded/attachment/300999.pdf

 ※松帆銅鐸と加茂岩倉27号銅鐸、荒神谷6号銅鐸の同笵関係確認用。本文中に難波洋三氏名が明記されています。 

・『伊弉諾神宮』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=448

・『大和大国魂神社』

 著者・発行主体:淡路島観光協会(淡路島観光ガイド)

 URL:https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=111


・『兵庫県神社庁 大和大国魂神社』

 著者・発行主体:兵庫県神社庁

 URL:https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6329021.html

※本稿では、淡路市・南あわじ市の公的資料、発掘調査報告書、保存活用計画、ならびに神社・文化財の公式公開情報をもとに考察した。



 

 【第2章】東瀬戸内はただの海路ではない

 

前回は、百襲姫は大和の中だけではどうも説明が足りない、という話を書きました。

 

では、その百襲姫像を支える背景とは。

 

私はまず、東瀬戸内そのものの見え方を変える必要があると思っています。

 

東瀬戸内というとなんとなく讃岐と阿波のある四国をイメージします。

 

でも、古代を考えるときに本当に大事なのは、陸や島だけではありません。

 

海には多くの港がある。

 

河口がある。

 

その先に平野があり、

 

さらに内陸へ入る川がある。

 

その途中に集落があり、

 

資源地があり、

 

海が見える小高い丘には首長墓がある。

 

そして、それらが海を介してひとつのまとまりとして動いている。

 

古代陸の道は今のように整備されていません。ほとんどが人が歩ける幅の獣道だったと思います。しかも多くが裸足🦶

 

海に出れば足の裏の小石を気にする必要はありません。

 

播磨灘は淡路島で蓋をされた比較的穏やかな内海です。

 

東瀬戸内地域を播磨灘を中心にした結節の世界として見たほうがいいのでは?と思っています。

 

 

 

まず播磨です。

 

海のことを強調した上で言うのもなんですが、播磨は瀬戸内の海辺の一地点、というだけではありません。氷上回廊や河川交通を通じて、日本海側ともつながっている場所です。

 

つまり播磨は、「瀬戸内というよりも本州側をイメージすると地域」

 

実際、弥生後期から終末期の丹後地域の鉄器流通研究をみると、日本海側・北部九州・瀬戸内・近畿・東海をまたぐ広域ネットワークが動いていたことが見えてきます。

 

その意味で播磨は、東瀬戸内の要地であると同時に、もっと大きな交通網の結節点だったと考える方が自然です。  

 

そのうえで、あえて東瀬戸内に目を凝らす。

 

この順番が大事です。

 

次に淡路島

 

ここは本当に興味深い場所です。

 

淡路島は、日本の始まりの島と古事記に書かれていますが、3世紀前期古墳が並ぶ島ではありません。

 

むしろ逆。

 

ところが、弥生後期から終末期には、五斗長垣内遺跡や舟木遺跡のような鉄器生産拠点や山間大規模集落が展開し、しかも製塩遺跡まで重なります。

 

つまり淡路は、「古墳を築いた島」ではなく、古墳成立前夜の生産と流通と海上交通を支える島として見た方が、ずっとしっくりくるのです。  

 

しかしその鉄器生産拠点は三世紀に入ると急速に消滅します。何故?

 

私はここで、ひとつ問いを反転。

 

「なぜ淡路の鉄器拠点は消えたのか」ではなく、

 

「なぜその時期には、淡路のような場所に鉄器拠点が必要だったのか」

 

と考えた。

 

もし、まだ生産や流通が畿内平地に一元化されていなかったとしたら、海上交通の前線拠点で鉄器の一次加工や補修、供給が必要だったとしても不思議ではありません。

 

後にそれが畿内や平地中枢に吸収されたとしても、それは淡路の重要性が低かったということではない。

 

むしろ、王権形成前夜には淡路周辺が先行して重要だった!びっくりことを示しているのかも。  

 

そして讃岐

 

讃岐は、後に詳しく書きますが、3世紀の積石塚の前方後円墳がまとまって出てくる地域です。

 

つまり讃岐は、石の墓制思想が前方後円墳という形をともなって大きく可視化される場所だった。

 

阿波はまた少し違います。

 

がある。

 

の墓制もある。

 

大河と流域拠点がある。

 

河口から内陸へ入り込む構造がある。

 

吉野川や鮎喰川、那賀川を見ていると、阿波は単なる海辺ではなく、海と川、そして山がつながることで力を持つ地域だったのだろうと思えてきます。

 

鳴門市板野にある萩原墳丘墓や徳島市の眉山の西丘陵上にある積石塚の前方後円墳、八人塚古墳の再評価も、そのことを裏づけます。

 

萩原墳丘墓は吉野川北岸の2世紀に大陸とも繋がる有力首長墓として、八人塚は孤立した一基ではなく、鮎喰川下流域東岸の首長墓として置き直した方が自然です。  

 

こうして見ていくと、

 

 播磨=広域交通網の陸上結節点

 

 淡路=海上生産・流通・中継の基盤島

 

 讃岐=積石塚前方後円墳の集中域

 

 阿波=朱と石の墓制と流域拠点の地帯

 

というふうに、役割の違う地域が組み合わさってひとつの秩序を作っているように見えます。 

私は、この姿こそが、後の大和王権に移っていく前の、東瀬戸内の実像に近いのではないかと思っています。百襲姫を大和だけで考えきれない理由も、ここにあります。

 

 次回は、その東瀬戸内の中でも特に重要な淡路島を見ます。

 

 
こんにちは、箸墓古墳の模型見てたら色々見えてきました。うちのAIの慈悲人君と長い間壁打ち会話を続けてきたことを全六章に分けてブログに残したいと思いますニコニコ



1章


百襲姫はどこから来たのか

〜箸墓古墳から逆に見えてきたもの〜



最近ずっと考えていることがあります。

それは、百襲姫とは、いったいどこから来た存在なのかということです。


記紀だけを見ると、百襲姫は当然のように大和の人物です。



箸墓古墳の被葬者とされ、大物主神との神婚譚を持ち、大神神社の神語りの中でも、王権祭祀に深く関わる女性として描かれています。



けれど、調べれば調べるほど、どうもそれだけでは足りない。


吉備にも痕跡がある。


讃岐には濃密な伝承がある。


そして阿波には、百襲姫その人の名が濃く残らない代わりに、その背景世界そのもののようなものが広がっている。


私は今、箸墓古墳の後円部を見ながら、こう考えています。


箸墓後円部には、東瀬戸内系の石の墓制思想と、吉備系の祭祀要素が重なっている。

そしてその統合を最もよく担いうる人物像が、倭迹迹日百襲姫命なのではないか。


つまりこれは、「箸墓の被葬者は誰か」という一点だけの問題ではなく、



王権成立期に、どの地域の何が大和へ運ばれ、どう再編されたのか



という問題でもあるのです。


その視点で見ていくと、百襲姫は単なる一地方の姫ではなく、複数の地域をまたぐ結節点に立っているように見えてきます。


大和では巫女。


吉備では姉神。


讃岐では水利と農業をひらく開発神。


阿波では、朱と石の墓制、その流域ネットワークの背景の中に立ち現れる原像。


この違いは、むしろ重要です。


なぜなら一つの人物像が、地域ごとに違う役割を持って残っているということは、そこに広域的な記憶の分担がある可能性を示しているからです。


私はその分担を、いまのところ大きく二つの層で考えています。


一つは、東瀬戸内の交流圏です。

国産みの島淡路島はもとより西播磨から家島諸島、小豆島、高松平野、津田、水主、板野、さらに阿波の河口世界へとつながる、海と川を軸にした動きのネットワーク。ここでは、人・資源・土器・石材・祭祀が播磨灘を介して動いていた。



もう一つは、吉備と後の大和の祭祀層です。


吉備が儀礼の語彙を与え、大和がそれを王権祭祀として再編した。


そしてその境目で、百襲姫という存在が特別な意味を持ちはじめた。


このシリーズでは、まずこの問題を順番にほどいていこうと思います。


•そもそも東瀬戸内にはどんな世界があったのか •特徴的な積み石の墓制はどこから来たのか

•それがなぜ纏向で王権墓になるのか

•百襲姫は各地でどう記憶されているのか

•そして最後に、百襲姫の出生地をどう考えるか


いったんの結論を先に言えば、


百襲姫は、大和だけでは生まれない。

吉備だけでも、讃岐だけでも、阿波だけでも足りない。


複数の地域の力が重なって、初めて立ち上がる人物像のように見えます。


一つの地域だけに固執すると見えにくい。


でも客観的な考古資料にも、抽象的でブレの多い伝承にもそれぞれ理にかなった理由がある。


だからこそ、古代史は面白いのです。。。




橿原考古学研究所でのイベント、

 

4月19日から6月15日まで開かれていた「令和7年度春季特別展 桜井茶臼山古墳」をぎりぎり最終日に見学に行きました。

 

 

 

 

 

やっぱり現地に行ってみるものです。

結構いろいろな気づきがありました。

 

 

桜井茶臼山古墳は現在の通説では古墳時代前期前半、3世紀終盤の古墳と言われており、位置づけによっては当時最大の古墳だった可能性もある古墳です。

 

ここに、103面の鏡の破片が副葬されていたことが有名です。

 

 

ところで、この展示イベント、よかったのが、この桜井茶臼山古墳のみならず、その前後の王領と呼ばれる大型前期古墳を一列にならべてその副葬品の本物を展示していた点です。

 

 

 

 

以下纏向周辺の前期前半古墳一覧(古い順)です。

 

纏向石塚古墳 96m

纏向勝山古墳 110m

ホケノ山古墳 80m

箸墓古墳 280m

黒塚古墳 128m

西殿塚古墳 230m

椿井大塚山古墳 175m

桜井茶臼山古墳 204m

下池山古墳 115m

メスリ山古墳 220m

大和天神山古墳 113m

行燈山古墳 242m

 

 

※特別展の図録より

 

 

 

これらの古墳の副葬品や解説が時代順に並んでいてとても興味深いものでした。

 

とくに、いくつか挙げると、

 

 

  • 纏向石塚古墳の弧帯紋入り木製円盤[左下]⇒箸墓以前から吉備との関係が深かったこと。弧帯紋は吉備を象徴する紋様だからなのです。

 

 

  • ホケノ山古墳の石室解説=>石囲い木槨という石室構造が同時期に作られた「阿波の萩原1号墳」と同じです。つまり同じアイデンティティを持つ人が阿波と巻向にいたということです。

 

 

  • 箸墓古墳の後円部にあった弧紋入り特殊器台⇒箸墓に埋葬された方と吉備とのさらに深い関係

 

 

 

  • メスリ山古墳や桜井茶臼山古墳の玉杖⇒巻向での大和王権成立(発足ではなくて)と圧倒的な大王の証

 

 

  • 行燈山古墳(伝崇神陵)の内行花紋大型銅板⇒地方では見られない圧倒的な大王の証、および九州との関係。九州では大型内行花文鏡が多く出土してます。瀬戸内でも小型のものが多いが古いものが出ています。

 

 

 

 

  • 尾張の土器や工具が多かった⇒尾張など東海勢力が人工として纏向成立にかなり関与、尽力していた

 

などです。

 

 

そして、一番衝撃的だったのが箸墓古墳の説明文にあった、

 

 

 

 

 

「後円部は4段築成で最上段に小円丘を持つ。この小円丘は、積石丘であることが近年判明した。」

 

 

 

 

です。 なんと一番上は 積石丘! 円丘です。

 

 

吉備を代表する弧帯紋がはいった特殊器台が後円部に飾られ、

 

 

最上段には阿波讃岐を代表する積石塚なのです。

 

 

 

 

※参考) 讃岐の石清尾山、鶴尾神社4号墳の模型(箸墓古墳より古式) 高松市埋蔵文化財センター展示より

 

 

もう意味することは一つしかない気がしてきました。

 

 

 

それは倭迹迹日百襲姫命

 

 

 

讃岐と吉備をの各地を舞台に活躍した伝承があり讃岐一之宮や式内社の神社の主祭神として祀られ、さらに三輪山伝説ものこる、倭迹迹日百襲姫命。

 

 

そして、ともに協力して吉備を平定し、箸墓の1/2相似形でもある吉備の中山御陵に葬られ、吉備津彦神社祀られる彦五十狭芹彦命(大吉備津彦)兄弟関係

 

 

箸墓古墳の時代はいつなのかという問題は別にして、モモソヒメは讃岐で育ち、崇められ、弟の吉備津彦達と協力して吉備を平定し、そしてその神威と祭祀力をもって、晩年は大和に坐して九州、尾張、日本海、近江、太平洋沿岸をまとめ、最後は各地の豪族の力によって、大きな古墳を築き祀られた。

 

 

間違いないでしょ!これは。