前回はミルキーウェイ(天の川)の物語が、実は親と子をつなぐ肉体的ば絆を伝える伝承であるというお話をしました!
では、我が国において、皆様の遠い遠いじいさんやばあさん達は、親から子、子から孫へとつながる「血」(=絆)を幼少時から如何に具体的に教えたのでしょうか?
おそらく小さなお子さんに「お前はな!お父さんとお母さんの子供で、そこには何十代という先祖が血で繋がっているのだぞ!もし、一人でもかけていたらお前はこの世に生まれてこなかったんだぞ!そう考えたらありがたいんだぞ!」←なんで、すべて「~ぞ!」で終わる?
生まれてから2~3年のお子さんにこんなお話をしても、泣くか笑うか・・・とにかくまったく話は通じません・・当たり前ですが・・・
では、こうしたお話を教えないで、物心ついた時に突然お子さんにむかって言おうものなら「は~~?うぜいよ~。めんどくせ~よ。」と一蹴される可能性大ですネ
そこで先人は考えたのでしょう・・・・。
かつて先祖は「隠れた身」を「隠身=神」と言って、自らの体内に血として生きる隠身(=神)に感謝する行事、したがって人生儀礼という祭り(安産・初宮・753・厄年・長寿祭・葬儀・御霊祭等)を続けてきたよネ。
これを赤ちゃんに教えてあげられる遊びはないのだろうか~~~????
そして江戸時代(記録書によればネ!)には誕生していた親子のお遊びが「いない・いない・馬鹿~~」←バカはお前だろ・・・すんません・・少しはボケないといけないかと思いまして・・
もとい「いない・いない・ばぁーー!」なのです
幼児はいない・いない・ばあに関心を示しますネ
あれは、親が「隠身(神)」となって、まず顔を隠します。「いない・いない」とは「消えた・消えた」という意味です
次に「ばぁーー」っと、言って「現れましたーー!」っと、繰り返すことによって、見ないものでもあるんですよ~~という我が国独自の祖霊感を遊びによって教えているのです。
(画像はお借りしました)
先人は祖霊感という小難しい言い方はしませんでした、根から始まり、一枚と葉となって精一杯生き続け、やがて萎れて(これが死ぬの語源です・・命は萎(死)れるまで、そして自然に枯れ落ちていくまで生きなければならないと皆様の先祖は今も声無き声で伝えているのですネ)根にもどり、やがてまた誰かのお腹に戻って、青々とした葉のように生まれ変わると考え、これを「はじまりがあって終わりがない」という意(こころ)をこめて「円(えん)」=(縁)と言ったのです
太陽も月も、丸いものには角がなく、はじまりがあって終わりがないことに神秘なるものを感じたのしょう・・。
いない・いない・ばあ~~っと、教えられた子供は、やがて輪廻という命の物語を様々な体験(周囲の生死や自ら味わった恐怖や痛み)から無意識に気づくようになります・・・。
そんな時こそ、両親は「貴女の存在はネ・・・。」っと寄り添うようにお話してあげることが大事なのです
いない・いない・ばあに代表される輪廻の概念について少し付記しましょう!
普段はあまり専門的なことは書かないよう心掛けているのですが、証拠はあるのですか?と言われそうなので・・・。
我が国において、はじまりがあって終わりがないという死生観を証明する物的根拠に「銅戈(どうか)」があります。
約2千年までに北部九州で生産されたものが各地で発掘されており、形は剣(つるぎ)で、柄の見えにくい箇所にアルファベットの「J」みたいな絵が背中合わせに描かれております。
これを専門用語で「双鈎(そうこう)」と言います。
双鈎は佐賀県の天神の元遺跡の甕(かめ=お酒や水をいれる容器のことです)にも描かれていました
最近では長野県北部の柳沢遺跡で発見されましたネ
(写真はお借りしました)
著名な考古学者から様々な研究論文が発表されていますが、めーーーーーっちゃ簡単にいえば、(専門家も皆様ごめんなさい)、Jみたいな絵は、小鹿の角を模したものであり、切っても切っても再び生え変わるという輪廻の象徴として描かれたといいます
そして小鹿の角は、釣り針にもそっくりなので、もし死神が(神様にも貧乏や死神というご迷惑な存在もいるのでしょう(^^♪)病人からこの釣り針を使って魂を抜こうとすれば、今度は、剣をもってこれを切り、絶対死なせないという神事があったとう研究結果も発表されております
以上のように、日本人は文明を持ち、大陸からの文化を貪欲に取り入れ、四季に合わせた行事をおこなうことで、始まりがあって終わりなきご縁を結ぶ感性を身につけていったのです
天の川では、棚機姫(たなばつひめ)が織物を行うと言います・・・。
(画像はお借りしました)
これは、お盆を迎える前に、家々において、帰宅したご先祖(隠身=神)さまのお召し物として奥様方が着物を縫い、神棚に供える行事(故に「棚機織(たなばた=はたとは着物の意)」と言うのです!)に由来し、後に神話となりました
水は容器によって形は変わりますが、本質は変わりません・・・。
私たちも様々な木々の葉の色のように、一人一人の生物多様性を認め合うことは素晴らしいことです
ただし、そればかりが喧伝されて、他方で、本質を教えない・・・わからない・・・そのまんま大人になった・・・というのでは本末転倒ですので、皆で真剣に取り組むべき時代に入っていることも気づいてほしいなって思うのです