「羞恥心」 の “テキューロ”。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   tsuruno  nokubo

   kamiji  shuchishin
   



〓ええ、「羞恥心」  の新曲ですよ。


   『泣かないで』


ですね。パステルカラーのジュリーが3人並んで “羞恥心” です。


〓“羞恥心” のオカゲで 「羞」 という字が書けるようになったというヒトも多いんじゃござんせんか。この字を口頭で説明しようとすると、


   「差」、「着」 という字の下を 「丑」 (うし) にしたヤツ


なんてカンジになりますか。


〓「恥じる」 という意味の漢字は、かなり、数多くあります。


   内心、忸怩 (じくじ) たるものがある


なんてね。どういうもんか、この熟語は 「ジクジたるものがある」 という言い方で使われます。意味は、それほど難解ではなく 「われながら恥ずかしく思うこと」 です。エライ人は、


   「うわッ超はずかしいじゃん!」


って言ったんじゃメンボクが立たないから、「内心、ジクジたるものがあります」 なんて言うのね。


   忸じる (はじる)


〓オンヤ? ここにも 「丑」 が出てくるじゃあ、あ~りませんか。


   怩じる (はじる)


〓うんにゃ~、あれも、これも、「恥じる恥じる」 って、アンタもそうとう恥ずかしがり屋なのねん。実はですね、


   羞 → 忸 → 怩


というふうに、ドミノ式に生まれた文字であるらしいのですよ。だいたいね、


   【 忸怩 】 [ ジクジ ]


という読み方は間違っているんです。


   【 忸怩 】 [ ジュウジ ]


と読むべきなんですよ。

〓もっとも、このことは漢和辞典にも載っていません。しかし、「忸」 という文字が、中国で -k という入声 (にっしょう=内破音) で終わったことなど、歴史上、一度もないのです。日本人が、勝手に 「ク」 を付けたんですよ。


〓今、アタクシ、「忸」 (ジュウ)、「怩」 (ジ) という音読みを当てましたが、これは、日本語漢字音の伝統に照らして、そういう音を当てたのでござりまして、本来は、


   忸怩 [ ɲjəu ni ] [ ニアウニー ] (中古音 5~11世紀)
      ※現代北京音は niŭní [ ニオニー ]


なんですよ。そして、その前には、


   羞 [ sjəu ] [ スィアウ ] (中古音)
     意味 = 恥、恥ずかしい
      ※現代北京音は xiŭ [ シオ ]


があります。


〓「忸怩」 という2つの漢字は、「忸怩」 以外に使わない。そして、これは、どうも、


   恥ずかしがるようすを言う擬態語ではないか


と思われるフシがあるんですね。それは 「心」 に関わることなので、「忄」 (りっしんべん) を用い、「ニアウ」 が “羞” の 「シアウ」 と韻を踏むので、音符の 「丑」 を持ってきたようなのです。


「怩」 (ニー) のほうは、まったく無意味な文字です。単独ではゼッタイ使わない。「ニアウニー」 という音に合わせて 「尼」 という音符を持ってきました。


   忸忸怩怩 niŭniŭ níní [ ニオニオニーニー ]


という言い方もあり、これは 「ナンとも恥ずかしそうに」 という意味以外に、女性の動きが 「しなやかに、しゃなりしゃなりと」 したようすも形容するようです。






  【 「羞」 という漢字 】



〓ところでですね、現代中国語では、「醜」 (みにくい・シュウ) という漢字を、


   「丑」 (← 「醜」)


と書きます。いわゆる、「簡体字」 (かんたいじ) ですね。「丑」 は十二支のウシにしか使わないので、もったいないから同居させたんでしょう。日本語では、


   【 醜 】 [ シュウ ]
   【 丑 】 [ チュウ ]


と音が違いますが、現代北京音では、どちらも、


   【 醜 / 丑 】 chŏu [ ちょウ ]


です。中古音 (5~11世紀ころの中国音) では、


   【 醜 】 [ tɕʰjəu ] [ ちアウ ]
   【 丑 】 [ ȶʰjəu ] [ てィアウ ]


という、ほとんど似たような音で、この差が日本語の 「シュウ/チュウ」 となって現れています。


〓「あれ? なんでチがシになるんだ?」 と気がついたヒトがいるかもしれません。しかし、古い時代の日本語では、



   「チ」 [ ti ] (ティ)

   「シ」 [ ɕi ] (シ)



であることを考えてください。



   中国語の 「ティアウ」 を “チウ” とするのは、[ ティウ ] ということです

      ※日本語にすると3音節になる漢字音は、どれかが落とされるのが普通でした



〓また、当時の日本語には、「チ」 という音がなかったので、


   中国語の 「チ」 とか 「ツィ」 のたぐいの音は、「シ」 になる


のです。ですから、「チアウ」 は “シウ” とされます。



〓「醜」 と 「丑」 が、古来、通用したということはありません。しかし、明 (ミン) や清 (シン) の時代に中国で盛んに書かれた 「大衆向け口語体小説」 (白話小説) では、込み入った 「醜」 に 「丑」 を当てることがあったそうです。音が同じだからですね。

〓それと、「羞」 という字に 「丑」 が入っているという連想もあったんじゃないかしらん。


〓「醜」 という字は、日本では 「みにくい」 と読みますが、この字には、


   「みにくい」 → 「けがらわしい」 → 「恥ずべき」


という意味の広がりがあります。


   【 醜聞 】 [ シュウブン ] 「恥ずべきウワサ」


ですね。


「羞」 という字は、本来、「羊+丑」 でできている文字で、「祖先を祀 (まつ) った廟 (びょう) に供える羊」 を意味したそうです。その字を 「恥じる」 という意味に使うのは、どうやら、


   【 醜 】 [ tɕʰjəu ] [ ちアウ ] 「恥」 から、
   【 羞 】 [ sjəu ] [ スィアウ ] が派生したから



であるらしい。新しいコトバができたら、新しい文字も必要ですが、ちょうど同音の 「羞」 (羊の供え物) という字があった。それで借りちゃった。
〓ですから、「羞」 に含まれている 「丑」 (チュウ) は、本来、古代中国で、先祖の霊廟の前に供える羊を指し示す “音” だったんですね……






   kamiji2



  【 「羞恥心」 の “テキューロ” 】


〓ええっと、先週の水曜日、6月11日が、「ヘキサゴン」 での 『泣かないで』 初公開でしたね。サビんとこ聴いて、「ああ、やっちゃってるなあ」 と思ってたんですよ。
〓つまりでゲスね、字幕が、


   TE QUIERO


となっていて、3人は ♪テキューロ、テキューロ♪ と歌っているのです。スペイン語ですね。正しくは 「テキエーロ」、


   te quiero [ te ' kje:ɾo ] [ テキ ' エーロ ]


です。


〓と思ったら、「羞恥心」 のほうがイチマイウワテだったのぢゃ。 しょぼん



〓例の上地雄輔 (かみじ ゆうすけ) くんのブログですね、あの、




     神児遊助

     http://ameblo.jp/kamijiyusuke/


   世界で最も1日の閲覧ユニークユーザー数が多いブログ

     ※「ユニーク」 の意味が 「?」 な上地ファンも多いんじゃおまへん?
      “おもしろいユーザー”、“変わったユーザー” という意味じゃないんです。
      日本語で言うところの 「延べ」 の反対が unique です。
      「唯一の」 ではなく、この場合は 「重複を除いた」 という意味です。




としてギネスブックに認定された“神児遊助” ですけど、6月12日付け (ヘキサゴンの翌日) の日記にはこう書かれておりました。



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『テキューロ』 の意味をよく聞かれますが、
スペイン語で愛してるって意味を間違えて読んでるんです。


愛してるって伝えられない子に魔法をかけると言って相手に分からないよーにスペイン語で 『愛してる』 と言ってるんだけど、間違えてしまっている。


そんな不器用な男の子の物語ざます♪


(^ー^)v


http://ameblo.jp/kamijiyusuke/entry-10105574178.html
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〓なあるほど、手が込んでるやおまへんか べーっだ!。なるほどなるほど。そういえば、


   「テキーロ」 という字面の 「ェ」 「ュ」 と読み違えると 「テキーロ」


ですね。




〓先日、現代のカタルーニャ語 (バルセロナを中心としたカタルーニャで話されるスペイン語と兄弟の言語) では、ラテン語から伝わる amare [ ア ' マーレ ] 「愛する」 という動詞が廃 (すた) れてしまって、代わりに aestimare [ アイスティ ' マーレ ] 「評価する」 が意味の変化を起こした


   estimar [ アスティ ' マ ] 「愛する」 ← 「賞賛する、評価する」


が使われる、ということを書きました。だから、t'estimo 「テスティモ」 だったんですね。



〓コトバというのは、長年、使われるウチに 「価値が落ちる」 ことがあります。とりわけ、日常よく使うコトバほど、価値は暴落しやすい。たとえば、日本語の


   「つら」 かお


というコトバは、13世紀に 「顔」 の意味で使われ始めたころは、「顔」 を指す普通のコトバでした。後世に価値が暴落したんですね。


   「テメエのツラなんぞ見たくもねえ」  むっ


ですよ。


   「社長! お疲れではございませんか、だいぶ、おツラのぐあいがよろしくございませんが……」 ショック!


じゃあねえ。


〓よく使うコトバは価値もスリ減りやすい。とりわけ、「愛してるよ」 なんてコトバはそうなりやすいかもしれない。


〓フランス語、イタリア語では、さほど価値が目減りしなかったようで、現代語でも、ラテン語の amare 「アマーレ」 の子孫が健在です。


   Tē amō [ テー ' アモー ] 「わたしは、きみを愛している」 ラテン語
   ――――――――――――――――――――
   Je t'aime [ ジュ ' テンム ] (← Je te aime) フランス語
   Ti amo [ ティ ' アーモ ] イタリア語


〓イベリア半島の俗ラテン語では、amare 「アマーレ」 に似た感じで、


   quaerere [ ク ' ワイレレ ] 「尋ねる、求める、探す、無いのを悲しむ、必要とする」。ラテン語


という動詞が、「好き、好む」 の意味で使われていたようです。この動詞は、現代フランス語では quérir [ ケ ' リール ] (人を)「呼んでくる」 という意味でかろうじて使われているにすぎません。


〓フランス語では、「探す」 という日常的に頻用する動詞に、別の俗ラテン語から発展した、


   chercher [ シェル ' シェ ] 「探す」。現代フランス語


という単語が登場したため、quaerere の系統は息の根を止められてしまったのです。


〓イタリア語では、


   chiedere [ キ ' エーデレ ] 「尋ねる、求める」

      ※語頭の ch- は正書法の改正によるもの。
       d -rere を嫌って、先行する r が異化を起こしたもの



という、ほぼラテン語に近い意味で常用されています。

〓ところが、イベリア半島では、フランスでほとんど使われなくなったのに反して、実によく使われる動詞となっています。


   querer [ ケ ' レル ] 「望む、~したい、愛する、要求する、必要とする」。ポルトガル語
   querer [ ケ ' レル ] 「欲しい、愛する、~したい、要求する」。スペイン語


〓そしてですね、この動詞が amar 「アマル」 (愛する) の領域を浸食するようになったのです。「スペイン、ポルトガル、ブラジル」 のそれぞれの Google で次のような語句を検索してみました。



  【 スペイン 】
    te quiero [ テキ ' エーロ ] 「わたしは、きみが好き」 2,170,000件
    te amo [ テ ' アモ ] 「わたしは、きみを愛している」 1,690,000件



〓どうです。Te quiero のほうが優位ですね。もっともカタルーニャ語のように amar が廃語になったわけではないですね。



  【 ポルトガル 】
    quero-te [ ' ケールゥティ ] 「わたしは、きみが好き」 114,000件
    te quero [ ティ ' ケールゥ ] 「    同上    」 89,800件
    amo-te [ ' アームゥティ ] 「わたしは、きみを愛している」 426,000件
    te amo [ ティ ' アームゥ ] 「     同上     」 207,000件


  【 ブラジル 】
    quero-te [ ' ケールゥチィ ] 「わたしは、きみが好き」 1,290,000件
    te quero [ チ ' ケールゥ ] 「    同上    」 1,120,000件
    amo-te [ ' アームゥチィ ] 「わたしは、きみを愛している」 517,000件
    te amo [ チ ' アームゥ ] 「     同上     」 677,000件



〓興味深いですね。ブラジルのネット人口は、ポルトガルのほぼ10倍だということがわかります。ポルトガル語で、ポルトガルとブラジルを分けたのは、直接目的語の代名詞 te の位置が、


   ポルトガルのポルトガル語では、動詞のあとに置くのが正しい


とされているからです。しかし、ブラジルでは、スペイン語のように動詞の前に te を持ってくるのが普通らしいんですね。ポルトガルでは、Te quero のように人称代名詞で始める文章を誤用とするようです。


〓もうひとつわかるのは、ポルトガルでは amar 「アマル」 を使うほうが多いのに、ブラジルでは、ダンゼン、querer 「ケレル」 が多いんですね。
〓もとの語義から言えば、Te quero は、英語の I want you ラブラブ ですから、情熱的なブラジルによく似合う、ということでしょうか。



〓さらに、もうひとつわかるのは、スペインも amar より querer のほうが優勢だということです。つまり、スペインはスペイン語、ポルトガルとブラジルはポルトガル語を使っているのに、



  【 ポルトガル 】
    amar > querer


  【 スペインとブラジル 】
    amar < querer



となっているのです。つまり、


   スペイン語とブラジル語では、今現在、「愛している」 という言語表現において、
   Querer という動詞が Amar という動詞を駆逐しにかかっている


ということが言えます。


〓実際、ラテン音楽の好きなヒトなら、


   Te quiero 「テキエーロ」 が歌の文句の常套句 (じょうとうく)


なのを知っているでしょう。やたらに ♪テキエーロテキエーロ♪ って言うもんね。


〓つまりですね、“羞恥心” の 『泣かないで』 の “テキエーロ、テキエーロ” というのは、ラテン音楽の歌詞のパロディでもあるんです。なのに、「テキューロ」 とまちがっちゃっているあたりがニクメない。と、そういうことなんですね。