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ひょっこりひょう「たいわん」島/(台湾ブログ)

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風の新竹にちょこっと3 東門(迎曦門)

新竹駅の目と鼻の先 市中心部に向いて歩くと最初に出てくるのが東門 だいたいこの手の門は 東門などと通称で呼ばれることが多いが 正式な名称というものがありここでは「迎曦門」と本当の名がある


新竹には このような門がいくつかあったのだが 現存しているのはここだけ 修復されたようだが 台北もそうだが 元のスタイルとは随分違う中華風の代物にかわっているのではないだろうか


東門の周りはロータリーになっている



とりあえず近づいてみる 石碑があったが樹脂製の透明な保護カバーが 光を反射させ文字が読み取れないが 新竹の歴史が書いてあるそうだ。新竹の紹介をここでWikipediaさんの力をかりると

新竹市
新竹(しんちく、シンツー)は台湾北部にある産業都市。台湾のなかでも客家人比率が高い。人口41万人(2008年12月現在)。

概要

新竹市一帯は、17世紀末期の清朝時代から漢族による開墾が進められ、あまり知られていないが古跡も多い。古名を「竹塹(ツーチエン)」という。1979年に「新竹科学工業園区(新竹サイエンスパーク)」というIT工業団地が設けられてからは産業都市に変貌した。新竹市は基隆市、台中市、嘉義市、台南市とならぶ台湾省省轄市であり、新竹県には含まれない。

季節風が一年中吹くため昔から「風城」の異名を取り、冬は寒い。その乾燥性のため、いわゆる「新竹ビーフン」が発達したといわれる。



迎曦門 (インイーメン)
1733年に淡水庁の同知(知事)である徐治民により竹槍を材料に「竹塹城」が築城された。1827年頃にその改築で「迎曦門」(東門)、「?翠爽門」(西門)、「歌薫門」(南門)、「拱辰門」(北門)が設けられたが、日本統治中に都市計画により東門のみが残された。
所在 新竹駅から中正路を進むと、ロータリーの中心に鎮座している。徒歩約3分。ロータリーの中に入るには、駅方面からあまりきれいとはいえない川(護城河)が流れているので、その川に下りて道路の下をくぐって行く。ちなみに川を下りた辺りは公園のようになっている。

解説にあるように 客家人の人口比率が高く 台湾時代の会社で新竹科学園区担当には 客家人を配置しなきゃ商売にならないと感じさせられるほど 深く入り込むには客家人ネットワークというものがあり 台湾の中でも独特
新竹の古称は「竹塹(ツーチエン)」、台湾人の祖先である平埔族系のタオカス族居住地まわりの竹の柵に由来する地名のようで 台湾の地名の多くは 平埔族の集落の呼び名からきている場合が多い 台北の「木柵」もその例

門のあるロータリー内は地下公園となっていて 清朝時代の「船首石」遺蹟がある。橋桁関係?


以上
2009/10/18(日) 投稿
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風の新竹へちょこっと2 新竹駅(台湾新竹)

雨の降る中在来線で新竹に向かうも 着いたら晴れ~
奥さんのお友達が迎えに来るまで 私はとりあえず大目的の新竹駅を撮影


新竹は台北から車で2時間のエリアである為 新竹には列車で来たことはなかったし 台湾のシリコンバレー新竹科学園区もここからは離れているので この周辺は顧客はほとんどいないので台湾駐在時には 遠くから駅舎をみた程度だったのでま近かでみて感激


現存する日本統治時代の駅舎の中では 台中駅も立派だけれど やはりこの駅舎が一番じゃないだろうか




台湾鉄路管理局のHPで駅の沿革を紹介すると
台湾鉄路管理局のHP
清光緒十二(1886)年,台灣巡撫劉銘傳,鑒於島內交通不便及鐵路對國防與經濟發展之重要,奏准清廷興建台北至新竹間鐵路,遂於光緒十三(1887)年開始動工,光緒十九年(1893年)完工通車,同年11月開始營業,當時每日行車次數僅有6次,旅客人數每日平均約400人。位於今憲兵隊附近(公園里東大路邊)的新竹火車站票房是最早的新竹站,日本據台之初曾因戰時而暫停營業,到光緒卄二年(1896年)7月5日恢復通車,站址遷移至今東大路與鐵道交叉處北側,亦即今日的貨運站附近,日據時代稱之為『新竹驛』,站房面積僅44坪,十分簡陋,但卻仍是台灣鐵路的大站。

現有站房完成於大正二年(1913 年)3月31日,是台灣西部縱貫線上現存日治時代『長老級』的火車站,由日人松口崎萬長設計,和台灣總督府、台北新公園內博物館都屬於同期的巴洛克式風格的西式建築,外觀上最大的特色是有座兩段式傾斜度大的屋頂,搭配一座?力甲式有四個方向的鐘塔及比例修長的拱圈門廊,內部有文藝復興時代的浮雕裝飾,造型優美典雅兼具歷史與藝術價值,是新竹市的地標及特殊的都市景觀,也是台灣近代交通的重要見證;87年3月5日經「台灣省古蹟評鑑審議會議」決議列為二級古蹟,復於87年6月23日經省府公告指定為省定古蹟,範圍包含車站本體及與車站本體同寬之第一月台。

昭和三年(1928年)增建右側?甓公室,二次大戰期間曾遭盟軍轟炸部分毀損,民國38年初才整建完成。
民國55年為因應本線、支線貨運量激增與調車業務日趨繁忙暨配合台灣肥料公司新竹場擴建後之運輸需要,擴建貨運站;民國58年6月完成起用,客貨運業務正式分開,以迄於今。
本站於民國87年由內政部列為二級古蹟,於民國89年10月12日鑒於站房老舊,年久失修,由內政部編列預算,新竹市政府發包整修,於民國90年11月30日竣工。


駅舎の中は人が一杯 やはり100年経っても 現役でいることが建物にとっては良いことなのだろう 中もきれいで窓の良いデザインから取り込む光がよい

日本統治前にも台湾には鉄道があって最初に結ばれたのがここ新竹
設計は「松口崎萬長設計」となっていますが『松崎萬長』の間違い 完成は1913年。現在「二級古蹟」に指定されている。
松崎萬長さんをWikipediaで調べると
松崎萬長Wikipedia
安政5年10月、孝明天皇の侍従長堤哲長の次男として京都・二階町に生まれる。甘露寺勝長の養子。幼名は延麿。

孝明天皇の稚児だったため、慶応3年(1867年)10月、孝明天皇の遺詔により、堂上公卿に列した(孝明天皇の子どもだったという噂もある)。同年11月、松崎姓を称し、明治2年(1869年)30石3人扶持を賜った。

明治4年(1871年)12月、岩倉使節団に加わり、ドイツ(当時のプロイセン)に渡り、明治16年(1883年)から2年間エンデのもと、ベルリン工科大学で建築学を学んだ。明治17年(1884年)7月、男爵を賜り、同年12月、帰国。

明治18年(1885年)4月に皇居造営事務局御用掛、明治19年(1886年)に内閣臨時建築局工事部長として官庁集中計画に携わり、留学の経験を生かし、ドイツから建築家のエンデとベックマンを招聘するとともに、職人たちのドイツ留学を手助けした。

明治19年(1886年)3月15日、辰野金吾、河合浩蔵、妻木頼黄とともに造家学会(のちの日本建築学会)の創立委員となり、設立に貢献した。なお、造家学会創立委員会は、同年3月20日に松崎邸で開催された。

明治26年(1893年)3月、裁判所から資産分散の宣告を受け、明治29年(1896年)10月、爵位を返上した。爵位の返上は経済的な理由と考えられる。

明治34年(1901年)5月に仙台に転居し、仙台の七十七銀行本店の設計などにもあたった。
旧青木家那須別邸
基隆駅
新竹駅
台湾総督府交通局鉄道部

明治40年(1907年)、台湾総督府鉄道局に勤務するため、日本を離れ、基隆駅や新竹駅などの建築にあたった。大正10年(1921年)2月3日、東京で死去。

ニ男三女の子女あり。

* 旧青木家那須別邸(1888年、栃木県那須塩原市、国の重要文化財)
o 青木周蔵の別荘。日本国内に現存する唯一の作品である。
* 七十七銀行本店(1903年、現存しない)
* 台北西門市場(1908年)
* 基隆駅(1912年、現存しない)
* 新竹駅(1913年)
* 台湾総督府交通局鉄道部(1917年、台北市)
* 台中公会堂(1918年)

現存する 台北西門市場(現紅樓劇場)とか台湾総督府交通局鉄道部をみると 屋根に▲の塊があって 同じ人のなんだー 個人の特徴がでてるのかなーと こんな感じで建物と設計者を眺めてみるのも面白い

以上
2009/10/15(木) 投稿
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風の新竹へちょこっと1(台湾新竹)


今回の台湾 南部か北部の宣蘭に行こうかと思っていたら 宣蘭は大洪水 ここのところ3回の台湾は全て台風で行きたいところの候補地はいつも大水害 いくらなんでも台北に引きこもっていてはアカンってことで 近場の新竹を選択

大雑把な予定を実家に里帰りしている奥さんに話すと「新竹の友達に連絡して車出してもらう」ってことで 台北は小雨だがまあ行ってみないと分からない 甥っ子と姪っ子の足手まといを引きつれ日帰りで新竹に行くことに 

「高鉄(新幹線)に乗れるよ」って奥さんが事前説明をしていたようだが 目的の第一は在来線の日本統治時代の建築物である新竹駅を含めた市街地「台鉄(在来線)で行くのが便利なんだけど」ってことで 子供達の夢を早くも打ち砕いてしまった。


はじめて乗る新幹線を楽しみにしていたようだったので「帰りは新幹線ね」ってことにしたが もともと新幹線に乗ったこともないので 在来線でも基本的に子供達には関係ないようで テンション上がりっぱなしで 車内ではしゃぎまわり 前の席の人に迷惑をかけまくるのではないかと 何度も注意


小一時間の道のり 大人しくさせる為に駅弁を購入 んー我が姪っ子ながら 可愛いの~♪



車窓から 雨模様・・・晴れたらいいのだが。
途中の桃園駅を窓越しに。プラットホームの古い柱の梁などの補強は 線路の廃材利用なんだってはじめて気付く。

以上
2009/10/11(日) 投稿
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桃園神社の拝殿と本殿(桃園県忠烈祠)(台湾桃園)




拝殿


回廊と本殿
保存状態は非常によく「国家三級古蹟」ということで修復にお金も掛かっている。


拝殿内部


他の廟と同じく中華な額が掛かっているが 桃園県長の題字が多い 台湾の政治家は自分の名前をこのような場所に残したがる。
知っている人で『呉伯雄』が桃園県長時代の題字があった。
Wikipedia呉伯雄
前国民党主席、馬が告訴されていた為に国民党主席の立場で総統選に立候補できなかったので 彼が暫定的に国民党主席に着き 選挙後晴れて無罪放免となった馬に 国民党主席を譲った人だが 彼は本省人(客家人)であり尚且つ 228の犠牲者を身内に持ちながら実に不思議な存在だ。
呉伯雄こそ本物の台奸かもしれん。


位牌と回廊から本殿
忠烈祠ってのは位牌があるんだね 機能的には護国神社みたいなものかと 手を合わせる。


賽銭箱


木々



以上
2009/9/27(日) 投稿
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