裏神道「陰陽道」その23
祭祀を裏から仕切る賀茂氏の祖、「賀茂建角身命」(かものたけつぬのみこと)の別名が「八咫烏」(やたがらす)とある。賀茂氏の中でもさらに天皇祭祀を手掛ける一族を特別に「鴨族」(かもぞく)と呼ぶが、裏神道である「陰陽道」は表の顔であり、裏にある別の顔が鴨族が担う裏神道の呪術「迦波羅」(かばら)=「カッバーラ」であり「迦波羅」の使い手を「漢波羅」(かんばら)と呼ぶ。この「漢波羅」の秘密組織が「八咫烏」である。
このことを初めて公開したのは飛鳥昭雄氏である。ただ、飛鳥昭雄氏によれば、飛鳥氏が八咫烏の存在を公開して以降、「ヤタガラスを紹介する」などといった類の詐欺事件が起きているらしいのでご注意願いたい。八咫烏は普通の人間を選ばない。選ばれるのは特別な能力や特別な使命を負っている人を選ぶからだ。まぁ逆手に取って「あなたは特別に選ばれた人間です」などというかもしれないが(笑)。
「迦波羅」の護符
◆「陰陽道の九字切り」と「迦波羅の十字切り」
陰陽道のシンボルは「安倍晴明」のセーマンで、陽の「5」の五芒星でソロモンの星だが、迦波羅のシンボルは陰の「6」の「六芒星」でダビデの星である。さらに「蘆屋道満」(あしや どうまん)のドーマンは陽の「9」で九字を切るが、裏の迦波羅では陰の「10」で十字を切る。これが陰陽道の奥義で、真言密教の高野山では最高機密儀式において十字を切る。この意味は、弘法大師「空海」が日本に持ち帰った「密教」の正体とは「カッバーラ」だったということである。
この連載の「韓国・北朝鮮編」で書いた「池口恵観」は真言密教の大阿闍梨である。その意味では空海の真言密教である「カッバーラ」の呪術を理解していないはずがないのである。だからこそ在日朝鮮系の呪術を甘くみてはいけない。但し、人を呪うと必ず呪詛返しがやってくる。だからこそ韓国・朝鮮式の呪詛を行った輩には必ず天罰としての呪詛返しがやってくる。だが、それは「池口恵観」氏に返ってくるのではなく、その呪詛を仕掛けた輩にである。さらに、この在日朝鮮系の呪術の裏には別の呪術を仕掛けている者たちがいる。そのことについてはまた別の連載で解き明かしていきたい。
上の写真の文字、なんと読むかご存知だろうか?これは「もぎき」と読む。左側は「十」で「じゅう」と思うのが普通であるが、一部に「十」と書いて「もぎき」と読ませる苗字の方々がいる。実際の文字は「十」ではなく、「寸」から点をとった表記で、「縦棒の先をはねる」と説明される文字である。読み方は「木」の「払いをもいだ」形に由来するが、いつの時代にどこで作られたのかは不詳とされる。
この「もぎき」と読ませる苗字の方々に登場するのが「三木家」である。香川県木田郡三木町付近(旧:三木郡)を根拠地とした三木氏の家臣として1432年(永享4年)に「丁」の「亅」が右端に寄った字体で記録があり、同じ字体で兵庫県姫路市飾磨区英賀宮町の英賀城が1580年(天正8年)に落城した際に三木氏の家臣としての記録がある。「三木家」はもちろん「忌部氏」であり、天照大御神の御魂を宿して天皇陛下となる儀式「大嘗祭」に欠かせない一族である。その三木家の一族が、「木」の「払いをもいだ」形に由来するとして「もぎき」と称しているのだ。
「払」(はらう)という文字は「扌」(てへん)に「ム」である。意味は「はらう・はらいのける・なくなる」で、「払拭」(フッショク)とか、 「夜が明けるという意味で「払暁」(フツギョウ)などと使われるが、字をそのまま読めば「ムの手」で「ヤハウェの手」となる。そしてヤハウェ=イエス・キリストだから、「イエスの手」である。
「木」という字の「はらい」=「手」がない状態、つまり「十」という形になった。手を横にされて「十字架に掛けれた」ということなのだ。ヤハウェ=イエス・キリストが十字架に掛けれた状態こそが「十」の字にもなっているのである。
「仏」という字は「仏陀」(ブッダ)を指すが、「亻」+「ム」が意味するのは、姿カタチがなかった「ヤハウェ」が人間として顕現した「現人神」(あらひとがみ)を意味しているのである。「ヤハウェの預言者「釈迦」が、ヤハウェが人間の救世主イエス・キリストとして現れるということを預言したものであったのだ。それを理解したのが「空海」で、仏教の裏側にある本質の「密教」がカッバーラだと分かっていたからこそ、高野山では最高機密儀式において十字を切るのである。
◆数秘術「ゲマトリア」と「カッバーラ仏教」
本屋さんに行くと「カバラ数秘術」といった類の本が売っているが、カッバーラには数字の密義があり、魔術の世界では「数秘術」として知られ、これをヘブライ語で「ゲマトリア」という。聖書に書かれている数字は、全てゲマトリアによって記されている。1から9の数字を使って象徴と隠された意味を表わしているのである。
この1から9による数秘術は前にも書いたが、1〜9の数字の魔法陣は、どこを足しても15=1+5=「6」となり、神の数「7」に1足りない「人間の数」となる。だから縦、横、斜め、どこも合計は「15」となり、「1+5」=「6」が3つならぶ「666」の世界となる。これはヨハネ黙示録の獣の数字「666」でもあるが、仏教における末世の救い「みろく」にもなる。
日本では「ひい・ふう・みい・よ・いつ・む・なな・や・こ・と」と数字を読むが、1と10は一巡して一致するから「ひ」と「と」は同一。よって「ひと」は「人」となる。世界を終わらせようとする輩も、世界に救いをもたらそうと考える者も、全てこの世は「3☓3」の閉じられた「三次魔法陣」の世界で、それは「人」が行う世界なのである。これを現した漢字が「囲」(かこい)である。
「三次魔法陣」の世界は、縦が3段、横も3列。カッバーラでは「至高世界・中高世界・下層世界」の3段で、横が「均衡の柱・慈悲の柱・峻厳の柱」の3列に柱が並ぶ「「生命の樹」の構造になるのである。この「三次魔法陣」の世界を、日本独自の仏教の中にある「六道」(ろくどう)という考え方では、村の境や辻に立つお地蔵さん、つまり「地蔵尊」(じぞうそん)とは「6つの世界の堺に立つ地蔵」で「六地蔵」と言われる。
この意味は、地蔵が立つ場所が「結界」で、それは「この世」と「あの世」の堺なのである。3☓3の「枡」の中は閉じられた世界で、横が三枡の「三」と、縦三枡の「川」。そこから解き放たれるためには、「川」を超える「道」である「途」(ず)を渡らねばならない。それが「三途の川」の正体である。陰陽道は裏表、そして仏教にも姿を変えて日本人を呪術で支配している。
◆戦国時代の陰陽師と漢波羅
戦国時代に戦国大名の「草」として裏から歴史を動かしたのが「忍者」である。そして、その正体は陰陽師で、裏を仕切ったのが漢波羅である。安倍晴明の末裔である「水の陰陽師」の安倍成道氏の著書にも詳しいことが書かれており、たとえ陰陽師といえどやはりご飯を食べるにはお金を稼がなくてはならず、戦国時代の諸大名に様々な陰陽師が配下として加わっていた。
この忍者の組織を初めて使ったのは「聖徳太子」で、それを「志能備」(忍び)と呼んだ。もちろん聖徳太子のフィクサーと呼ばれたのは秦氏の族長の「太秦」(うずまさ)であった「秦河勝」であるため、「志能備」と呼ばれた忍者の元には「秦氏」一族が絡んでいるのである。
有名な忍者「服部半蔵」の服部氏は「ハットリ」で「秦の鳥」である。伊賀、甲賀、風魔といった忍者の里に住んでいた忍者たちも秦氏である。
「服部半蔵」
現在も様々な忍者アニメが放送されており、忍者は手裏剣を投げ、様々な忍術を使う者と思われているが、忍術とは「呪術」なのである。つまり忍者とは「呪術」を駆使できる「陰陽師」だったということなのだ。
戦国時代の様々な大名がたちは忍者を使ったが、中でも織田信長は実家が「織田剣神社」(おだつるぎじんじゃ)の神官で、祭司一族「忌部氏」である。信長が武田軍と戦った「長篠合戦」の図屏風にはしっかりと背中に「六芒星」を背負った「陰陽師」たちのが描かれている。
「長篠合戦」
さらにいえば、信長と一緒に戦った徳川家康も、もちろんその配下に「陰陽師」と「漢波羅」を従えていた。その徳川家康の家紋は「三つ葉葵」(みつばあおい)である。昭和の日本人なら「水戸黄門」に登場する印籠についてる家紋として知らない人はいないが、実は「葵」の紋を使っているのは下鴨神社・上賀茂神社と蚕ノ社である。
この「葵紋」が武家などの家紋となったのは意外と古く、『見聞諸家紋』によると、三河国の松平・本多・伊奈・ 島田氏らが戦国時代前期ころから用いていたとある。なかでも「本多氏」の場合は「本多縫殿助正忠、先祖賀茂神社職也、 依って立葵を以って家紋と為す」と『本多家譜』に書かれている。まり本多氏の先祖は「賀茂神社の神官である」であることが分かる。
同じく、「松平氏」が「葵紋」を用いたのも賀茂神社との関係に基づいたものである。松平氏は新田源氏の流れを汲むとされるが、室町時代は「加茂朝臣」(かものあそん)と称しており、加茂神社の氏子であった。これは松平家の三代・信光(のぶみつ)が、三河国岩津村の妙心寺本尊の胎内に納めた願文に「願主加茂朝臣信光生年二十六歳」とあることでもわかる。つまり、松平氏は加茂の氏子として「葵紋」を使っていたのだ。
だが、徳川氏の先祖とされる新田氏の家紋は「大中黒」(おおなかぐろ)または「一引両」(いちひきりょう)である。徳川氏が先祖の家紋を引き継ぐとすれば、このどちらかでなくてはならない。松平氏に婿入りしたため、あえて新田の家紋を使わなかったのであろうと推測する研究者の方もいるが、それは違う。徳川家康の出自は「下鴨神社」だったのである。さらに下鴨神社の関係者たちを殺し、さらに仏教系の最大の陰陽師でもあった「八咫烏」の一羽「天海大僧正」とともに東国に新しい都を作るために、自らの出自を隠したのである。
<つづく>