こんにちは。

 

信仰生活において"祈る"ということについて私の考えを述べます。

私は日没から日没までの一日の内に一回は、自宅の部屋の片隅でエルサレムがある西を向き(律法、掟、戒めとして記載はないのでする必要はないですが、ダニエル書六章十一節を参考にしています)、マタイ六章五節〜十三節にあるように主に祈りを捧げています。時間にして三分くらいでしょうか。ですが聖書には一日に◯回祈りなさいといったことは書かれておらず、絶えず祈るようにとあります。

 

ルカによる福音書 十八章一節

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

 

ルカによる福音書 二十一章三十六節

しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。

 

エフェソの信徒への手紙 六章十八節

どのような時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

 

テサロニケの信徒への手紙一 五章十七節

絶えず祈りなさい。

 

この「絶えず」というのは「いつも」という意味であるとgoo辞書に書かれています。いつも祈るのです。しかし世間で「祈る時はどのような姿勢が思い浮かびますか」と質問した場合、大概の人は目を閉じて手を前に組んだり、ひざまずいたりして祈ると答えるのではないでしょうか。普段生活している中で、いつも祈るとなるとしょっちゅう手を組んだり、ひざまずいたりして祈ることなどできるでしょうか。なかなかできないと思います。私はこの祈るという姿勢(ポーズ)は世俗の宗教、映画やドラマ、漫画などのイメージが勝手に作り出したものではないかと考えております。そして聖書の中にも祈る時の姿勢についての指示はなく、人に見られないように(マタイ六章五~六節)祈りなさいと主イエスは仰られています。人に見られないようにかつ、いつも祈る。となると私はこれを頭の中(心の中)で常に意識するというように解釈します。そして神への道は主イエス唯一人(ヨハネ十四章六節)とあります。これらを総合的に判断すると、「いつも祈る」とは「常に主イエスを意識する」という風に私は捉えております。聖書を読み、真のキリスト者を目指すと決めたのならば(本来は全人類がそうしなければいけないのですが)、常に主イエスを意識する必要があります。なぜなら主イエスを意識することによって行動や態度や気持ちが変わるからです。これは信仰生活を送る上ではとても重要になってきます。世俗の生活を送るなかでは様々な欲望のきっかけとなるものが、あちらこちらに転がっています。信仰生活においてあらゆる欲を自制することは、罪(律法に違反すること)を犯さないことに繋がります。私の場合ですとある欲が目前に迫った時に、「主イエスならこんな時どうされるかな」と頭の中で考えるようにしています。そうすると一歩離れた視点から冷静に判断することができ、罪を犯すことなくその場をやり過ごせます。ですがこれはほんの一例で、まだまだ未熟な私は事を起こしてからハッとして「主イエスならあんな風には言われなかったやろな」と気づくことがほとんどです。例えばよくあるのが一番身近な妻や子どもに対しての発言です。口論となってしまって妻に発した言葉が汚い言葉使いになってしまったり、子どもに注意する際に言葉遣いが乱雑になってしまうことが時々あり、その時に「やってしまった」と後になって気づきます。これがカッとなってしまった時でも、言葉を発する前に主イエスを意識することができるようになれば揉めたり、後で後悔することもなくなり、キリストの品性を身につけることに繋がると思います。そう遠くない未来に訪れる大艱難時代に突入すれば、真のキリスト者を目指す者は多数の人から何かを言われたり、手を出されることもあるかと予想されます。ですが主イエスはこのように仰られてます。

 

マタイによる福音書 五章三十九節

しかし、わたしは言っておく、悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

 

マタイによる福音書 五章四十四節

しかし、わたしは言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 

ルカによる福音書 六章二十七節

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に善いことをしなさい。

 

ルカによる福音書 六章二十九節

あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

 

こちらの主イエスの御言葉はまさしくキリストの品性を表していると思います。現段階の私では到底真似できないと思われます。罵声を浴びせられようと、頬を打たれようともやり返すことなく、むしろその相手を大切に思い、善いことをするのです。並大抵のことではありません。これを成すには、確実に主イエスを常に意識しておかなければ間違いなくできません。ですがこの姿勢を行動で示すことが実際にできたとするならばどうでしょうか。それを目の当たりにした人たちは心に必ず何かを思うはずです。

 

マタイによる福音書 五章十六接種

あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

いかなる理不尽な対応にも慈愛のもと堂々と真摯に振る舞うキリストの品性に満ち溢れた姿勢はまさに"光"です。上記聖句にもあるようにこの光を見た者のうち、心を頑なにされてない者は信仰へと招かれるのではないかと考えます。また、世の中には様々な事件が毎日のように起きていますが、衝動的な事件もかなりあるように思います。特にここ数年で目立つのは煽り運転ではないでしょうか。この煽り運転のきっかけというのは、ほんのささいな事から始まることが多いと見聞きします。

 

 

(画像引用元:ヤフーニュース)

 

 

例えば走行中の車線変更、信号のない交差点での譲り合い不足、車間距離の不保持など普段車を運転していればしょっちゅう起こり得る事象ばかりです。これらの小さな事がきっかけとなり、煽る側の頭の中(心の中)には、少し冷静になり客観的にみれば別段怒るようなことでもないのに「許せない、やり返してやろう」などの思いに支配され、周りが見えなくなり犯行に及んでしまいます。その中でもひどいのが相手を高速道路であろうが、車線の真ん中であろうが無理矢理に車を止めさせ謝罪を求めたり、相手が事故を起こすまで執拗に追いかけ回し、大きな事件にまで発展してしまうことです。誰もが記憶に新しいと思いますが、実際にこれらの事を起こし、被害者の方が亡くなられるという悲惨なものもありました。なぜこのような事にまでなるのでしょうか。きっかけはほんの小さななんてことない事にもかかわらずです。それはやはり最初のきっかけが起こった直後に歯止めをかけることができなかったからに他なりません。同じような場面で、聖書を読み主イエスを常に意識している者がもし車を運転中に割り込まれたりされた場合でも「こんなこともあるよな、相手は急いでたんやろう、自分も時々同じことを無意識にのうちにしてしまっているかもしれへんな」などと一呼吸置いて「主イエスならこんな時でも怒ることなく冷静に対処されたことやろう」と客観的にとらえ、その場を何が起こるでもなくやり過ごすことができるでしょう。このように衝動的な事件というのは、事の起こり始めはとてもささいなことが多いのではと推測します。当たり前のことですが、世の中の誰もが聖書を読み、真の聖書福音を学んでそれを実行すれば何も事件などおきず、とにかく平穏で平和な世の中になると思います。そしてそんな世界こそが、主イエス再臨後の新しい天と地(ペトロの手紙二 三章十三節)の世界ならば、希望をもたずにはおれません。

ここからは旧約時代のイスラエルの民にみられた事柄を例に考えてみます。もっとも旧約の時代にはまだ主イエスが人性をとられて地上に来られるより以前のことなので、ここでいう「いつも祈る」とは常に創造主なる神を意識していたかどうかという視点からみていきます。モーセがイスラエルの民を奴隷であったエジプトの地より旅立たせ一か月半がたった頃、イスラエルの民は飢えによる不平を述べ立てた(出エジプト記十六章三節)。四百年もの長い間奴隷であったイスラエルの民は、食べるためだけに生きるというところまで堕落しており、その堕落した民がエリムからシナイへと荒野を進む道中で神が天からマナを降らせられる場面です。エジプトの地から脱出する中で神の大いなる御業を目の当たりにし、民の立場からすると奴隷から解放していただいたにもかかわらず、「奴隷の時の方が腹いっぱいに食べられたのに」などと不平を言っており、恩を仇で返しているようなものです。この不平は彼らの心にある自己愛からくる軽率な発言であり、当然この時のイスラエルの民に神を意識する心は無かったでしょう。そしてこの一か月半後民はシナイの荒野に到着し、シナイ山のふもとで直々に神の声により十戒を聞く。これは民を試し、神を畏れ、罪を犯させないため(出エジプト記二十章二十節)であったが、モーセがなかなか山から下りてこないのを見て「我々に先立って進む神を造ってください」(出エジプト記三十二章一節)とアロンに告げます。つい数日前に直々に神の声によって「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」(出エジプト記二十章四~五節)と告げられていたのにです。ここから分かることは、神より選ばれたイスラエルの民であろうと堕落しやすい性質にある人間は、いつも祈っておかなければ、常に神を意識しておかなければ、たとえ神より罪を犯させないために直々に戒めを示されようとも心の隙間が広がりすぐに道を逸れてしまうということです。今よりはるか昔約三千五百年前でもこのように堕落してしまうのです。現代においては尚更ではないでしょうか。約百五十年前に悪魔崇拝者である英国の権力者の入れ知恵によって文明開化と言われる日本文化の喪失がはじまり(詳しくはミカエル氏の過去記事「現代日本の常識は殆ど捏造されたもの」をご参照ください)、今となっては英米支配層によって真の聖書福音を人々から遠ざける仕組みは完全に出来上がり、その存在にすら気づく者がほとんどいないような世の中です。そんな世の中では当然ほとんどの人間が主イエスを意識して生活しているはずはなく、これまでの歴史や経験の中で受け継がれてきた異教の文化や習慣が現代イスラエルであるここ日本にも根付いてしまっています。日本が現代イスラエルであるということはミカエル氏の過去記事「古代イスラエルと現代イスラエル」に詳しく記載されておりますので是非とも一読なさってみてください。日本人であるならば自分たちの先祖がどのような経緯でこの日本列島で興ったのか、その歴史を知る必要があります。なぜならその歴史を知らなければ、本来どのように生きていくことが正しいのか、自分たちは何のために存在しているのかその根本がみえてこないからです。そして何人かの方は「学校の歴史で日本人の出自は習ってきたから、今更知ろうとは思わない」と思われたかもしれませんが、この義務教育で子どもの頃より擦り込まれる学校教育が実は、英米支配層によって捻じ曲げられたものとなっているのです。ではなぜ捻じ曲げる必要があったのか。それは日本人に日本の本当の歴史を知られると支配層(日本に長く居座る政治家たちも含む)にとって都合が悪いからです。本当の歴史を知られると日本人が聖書に興味を持ちだし、真の聖書福音の存在に気づく可能性が出てくるからです。支配層はその祖先の時代、旧約の時代よりずっと悪魔崇拝をしてきている者たちの末裔です。悪魔崇拝により何と繋がってきたのかというと、それは聖書に書かれている元々は天使であったが不法を行い堕天使となった悪魔やサタンです。その悪魔やサタンの最大の目的は人間を真の聖書福音から引き離し、自分たちの行くことが決まっている地獄へと一人でも多くの人間を道連れにすることです。そのためにこの世の神(コリントニ 四章四節)である悪魔やサタンが支配層などの影響力のある人間を使い、この世を支配させているのです。この事実を知らなければ、一見何も悪いようには思えない世俗の習慣になぜ従ってはいけないのか、なぜ聖書(パウロ書簡を除く)にのみ依拠しなければならないのかが一向に理解することができません。なぜ日本だけが世界で唯一の被原爆国なのか、地震大国である日本になぜ海沿いを囲むように原発がいくつも建てられているのか、なぜ日本が添加物使用が認められている数が圧倒的に多く、また日本でのみ使用が認められている農薬があるのか、なぜ近年世界的には減少傾向にある癌患者が日本では増え続けているのか、近年のコロナ茶番でなぜ日本がワクチン複数回接種率が世界一であり、この秋にくるレプリコンワクチンの実験体としてあてられているのか等、現実の世界に実際に起こっているこの不条理がまかり通る理由を理解することはできません。これら知らなければならない事実を知るためにも、先ほど紹介させていただいたミカエル氏の記事を一読していただきたいと強く思います。

真のキリスト者を目指すのであれば、何をするにも「このような時、主イエスならどうされるか」を意識して行動し、どのような状況においても主イエスは常に冷静でかつ雄々しく堂々とされていたことを念頭に置いておかなければなりません。私自身まだまだ完遂できてはおりませんが、習慣付ける努力を今後も継続していきます。都合の良い考え方かもしれませんが主イエスを意識すると、「主イエスが見てくださっている」とも思えるので、慈愛をもって何事にも対応できるようになってくると私は考えております。ミカエル氏の過去記事「神はあんたを見てて、見捨てはらへん」から神はどのような人間であっても一人一人を見続けてくださっており、その人間が悔い改めるのを忍耐して待っていてくださることが分かります。

今回の話をまとめると"祈る"とは"意識"して"つながる"ということではないでしょうか。主イエスとつながることができたならば、もうこの世に恐れるものはなく慈愛に満ち溢れた(ヨハネの手紙一 四章十八節)存在となり、完全な者となれます。


ヨハネによる福音書十五章五節

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

 

 私なりの絶えず祈る。ということについての考えは以上です。

世の中がどんどんおかしな方向に向かっています。まるで戦時下のように、国民の自由が分かりにくいように少しずつ少しずつ奪われてきています。この世におかしさや不条理、違和感を感じておられる方はもう少なくはないと思います。この世の真実を知るには聖書を読むことは必須です。しかし聖書は内容が難しいのは間違いありません。そんな聖書を世の中の事象と照らし合わせ、筆者の主観でなく聖書にのみ依拠した解説をなされているミカエル氏のブログ真の聖書福音と預言を聖書と共に併読し、まずはこの世の嘘にまみれたからくりを知ってください。それを知るとこの世の見かたが変わります。まずはここから始めていただきたいと思います。その上で主イエスに立ち返られる方が一人でもおられたら幸いです。


ここまでお読みになっていただきありがとうございました。