こんにちは。

今回は、目に見えない相手に対しての礼儀について考えを述べます。


私は伝導、周知活動をするためSNS、主にツイッターにて投稿を続けています。まだまだフォロワー数の少ない私の口座でも、より多くの方に見てもらうために、フォロワー数の多い方々のツイートに対して投稿をさせていただく形を取ることが多いのですが、たくさんの方に見ていただいた際に賛同していただける"いいね"や"リツイート"を押していただけることがあります。しかしその反面、反対意見や敵対心をもつ方の目にも触れることがあります。この世にはたくさんの人間がおり、みな同じ考えではなく、一人一人考え方や意見が違うのは当たり前なので(しかし、聖書は人類皆が読むべき)、極端すぎる考え以外は私も理解する姿勢はみせます。しかしその考えや意見を主張するやり方、SNS上で言うなら"言葉遣い"が悪い者が一定数いると実感しています。私の投稿に対して寄せられた心ない言葉の切り抜き例ですが、「馬鹿じゃないの」、「おかしすぎる」、「こんな奴が···」、「都合よく解釈するのやめなさいってwww」などです。どれもが相手を思いやることなく礼儀にかけたもので、不快にしか感じません。そして彼ら彼女らに共通しているのが、初対面にも関わらず挨拶は間違いなくしてこない、乱雑な言葉遣い、上から目線、傲慢さが文面より滲み出ているということです。これらの言葉を受けた時、「(私の考えに)賛同しないのなら、わざわざ時間を使って送ってこんでもええのに。自分の心の中で思うだけで済ましといたらええのに」と思ってしまいます。私の考えが明らかに間違っており、それが周知されるのを防ぎ、気づかせるために意見を送って来ていただけるのはありがたいのですが、ただただ私の考えが気に食わないというだけで、乱雑な主観を送ってこられるのは怒りが湧くというより呆れてしまいます。私はこのような相手に対しては、「言葉遣いだけは気をつけてください」という旨を記し、一度だけ送り返すようにしています。このような心が傲慢で頑なになった者を納得させるのは一筋縄ではいかない、というよりほぼ無理なのではないか、自分から気づかない限り、誰かに言われても改善しようとはしないのではないかと私は考えているので、それ以上のやり取りはしないと決めています。主イエスも群がる野次馬に対して一人一人に懇切丁寧に対応されたわけではないということをミカエルさんの過去記事より学びましたのでそうするようにしています。




過去に書いたとおり、この世の多数派は、不信仰者や異教徒やにわか信者の集まりであり、現世利益を欲しがる利己主義者が多く、好奇心から奇跡等を見たがるだけという野次馬の傍観者に過ぎひん人間の集団や。パウロ教信者や律法主義者たちは、キリスト信仰が無いのに口先だけで信仰があると軽々しく嘘を言い、信仰があるという事を証明する行いが伴わへんし、役に立たへん無能な愚か者である。そないな多数派の人間を救う予定も無く、それ故、神に仕えず、神や真のキリスト者の役に立たへんような人間は、主イエスから退けられる。過去記事「携挙の真実」でも書いた「イエスは群衆を追い払い」(マタイ十三章三十六節拙訳)でも同様である。主イエスは御自分の民が誰であるか明確に分かってはる故、たとえ自分の周りに集まって来ようとも神の民ではない者を救うこともないし、懇切丁寧に対応する気も無く、心の底から信じて従わへん口先だけの嘘つきや邪な事を考えてる心が悪い群衆を遠ざけるんや。


引用元:真の聖書福音と預言「キリスト者の覚悟


上記、主イエスの言動とミカエル氏の解説文より、おおよそ今後も悔い改めることはないであろう人に対しては、いくらやり取りしても時間の無駄に終わってしまう可能性があるので、相手が不快に思わないような書き方を心がけ、一通だけ返信しています。このような、特に言う必要のない意見を乱雑な言葉遣いで送ってくる者は、ここ数年で社会問題にもなっているネット上で誹謗中傷をするような人間なのではないかと私は思っています。誹謗中傷について調べると、事件になっていることもあり様々な記事がありました。その中でもだいたいどの記事にも書かれていた誹謗中傷についての特徴を挙げてみます。


○誹謗中傷とはどういったことを指すのか。

「誹謗中傷」とは、他人の人格を否定するような発言や、虚偽の内容によって、人や社会、店舗の社会的評価を低下させることをいう。


○誹謗中傷する人物の特徴

一)歪んだ正義感や自分の正当性を主張したい

コロナで騒いでいた頃、自粛警察と呼ばれる現象が起きていました。マスクを付けていない人を罵倒したり、他府県ナンバーの車を傷つけたりする行為もその一つ。これらは「協力しない人は悪だ」という歪んだ正義感による行為でした。ネット上でも多くの誹謗中傷が行われましたが、他人を叩くことで自分の正当性を主張したいという心理が考えられます。


二)収入や容姿、学歴などにコンプレックスがある

誹謗中傷を行う人の多くは、自分自身のことや経歴にコンプレックスを抱いていることがある。自分自身にコンプレックスを持っていると、自分の持っていないものを持っている人に嫉妬心を抱き、その嫉妬心が攻撃的になってしまうことがあります。


三)ストレス発散の方法を知らない

人によっては、辛いことや大変なことに直面した時に、どのように発散したらよいのか、方法が分からない人もいます。その中のごく一部の人がネット上で誰かを攻撃することで、自身のストレスを発散しているケースもあります。


四)相手の反応を楽しむ愉快犯

これは特に悪質。誹謗中傷する人の中には「ただ楽しいから」という理由で人を攻撃する人がいます。人が困っている様子、必死で反論している様子を見て楽しんでおり、罪悪感や共感性を持っていないこともあります。


誹謗中傷について調べると、大概このようなことが記載されてありました。ネット上というのは相手と面と向かっているのではなく匿名ということもあり、それがよりいっそう犯罪を助長しているように思います。

ここで聖書を読んでおられる方は気づかれたかもしれませんが、この誹謗中傷する人物の特徴が聖書にみられます。聖句を基にみていきます。


マタイによる福音書 九章十節〜十三節(マルコ2:15〜17、ルカ5:29〜32)

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を(悔い改めに)招くためである。」


マタイによる福音書 十二章一節〜八節(マルコ2:23〜28、ルカ6:1〜5)

そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も共の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も共の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」


マタイによる福音書 十五章一節〜九節(マルコ7:1〜13)

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』


これらの聖句が、誹謗中傷する人物の特徴で示した「歪んだ正義感や自分の正当性を主張したい」というものにぴたりと当てはまります。ファリサイ派の者たちは主イエスや弟子たちに律法違反から指摘するのでなく、ただ自分たちが守ってきた人間の戒めを守っていないことに対して口を出して来たのです。この当時のファリサイ派というのはマタイによる福音書二十三章にある通り、会堂で人々に教える立場にあり、肩書を気にしたり見栄を張ったりする、今で言う「実力は無いのにプライドだけが高い政治家」のような人たちであったと想像します。そんなファリサイ派の者たちが自分たちの正当性を主張するために、主イエスや弟子たちに律法には記されていない、ただ自分たちが守ってきた人間の戒めを守るようにと歪んだ正義感から、これ見よがしに注意してきたのです。当時は当然ネット社会ではないので、直接これらを言いにわざわざ来たのですが、現代にもしファリサイ派がいたとしたならば間違いなくネット掲示板やSNSに自分の正当性を主張するためにわざわざ書き込んできたことでしょう。

そして注目すべきなのが、ファリサイ派の"人々"と書かれている点です。ネットで誹謗中傷する人たちは、直接相手と面と向かっている訳では無いので、自分しかその場にはいないということが、誰からも見られていないという感覚を助長し、大言壮語を書き込むことができるのやと思います。しかし当時はネット上でなく、直接言いに行くしかありません。部屋の中に一人だけでネット上に書き込むのとは違い、相手と面と向かって直接言いに行くので、一人では心細いことから、集団で行くことによって精神的な余裕を持たせていたのやと思います。また、「収入や容姿、学歴などにコンプレックスがある」という特徴にも当てはまるものがあります。上記に示したようにファリサイ派の者たちは人々から敬われたりするのを好んだことから、主イエスがたくさんの群衆に囲まれている様子は、気に食わなかったに違いありません。ファリサイ派の者たちより主イエスの方が注目されて巷でも噂になっていたので、自分たちの方が人気がなく小さな存在やと思い、劣等感(コンプレックス)を感じていたと思います。自分たちより主イエスの方が注目されているという劣等感が嫉妬心に変わり、それが良くない原動力となり、わざわざ人だかりの中にいる主イエスと弟子たちに口撃や実力を試しに行ったのでしょう。




(画像引用元:鳥取県人権文化センター)


次に、上記で示したこの誹謗中傷をするような人物は、三位一体である創造主なる神、神の御子イエス、聖霊を心から信仰することはできないと私は考えます。なぜなら三位一体の神は目に見ることのできない存在やからです。目に見えないネット上のどこかにいる相手に対して気を使うことなく、誹謗中傷する文章を送ることができるような者は、人間にはその御姿を見せられない神に対しても無礼を働くことが想像に難くないです。旧約聖書に出てくる古代イスラエルの民も主なる神への無礼を繰り返してきた歴史があります。特にひどいのが、出エジプト記三十二章の金の子牛を民がアロンに造るように頼むところです。民はこの数日前にシナイ山の麓で、神の声を直接聞き、十戒を与えられていました。出エジプト記二十章十八節に「民全員は」とあることから、モーセやアロン、祭司だけでなく、エジプトより旅立ってきたイスラエルの民全員が神の声により直接十戒を聞いていたのです。その神の声から直接、「あなたはいかなる像も造ってはならない。」(出エジプト記二十章四節参照)と数日前に聞いていたのにもかかわらず、金の子牛を造るように頼んだのです。この事実から、人間は目に見ることの出来ない存在を心から愛し、信仰することが出来ない者が多数派なのだと理解することができます。さらに現代の日本においては、聖書すら読んだことがない者がほとんどであり、神社仏閣の木や石で造られた他の神々(申命記二十八章六十四節参照)を信じることを二千年以上行い続けているため、主イエスを信仰し、聖書にのみ依拠することからは遠く離れてしまっているのが現状です。ミカエル氏の過去記事「神はあんたを見てて、見捨てはらへん」の通り、神は慈悲深い存在のため、人間を愛し、信仰がない人間のことをも見ておられます。ですが、匿名という姿が見えないことをいいことに、自分勝手な思いで相手を誹謗中傷するような卑劣極まりない者は、完全に見捨てられることはないにしても、首の皮一枚で見捨てられていない、何とかギリギリ保たれている状態であると私は思っています。しかし完全に見捨てられてはいないということは、自分を顧み、悔いて改める機会は設けられているので、自身で過ちに気づき根底から心を入れ替えられることを望みます。




憲法改悪、緊急事態条項が現実のものとなってきました。

日本経済新聞

改憲されてしまえば、もう日本という国は終りを迎えます。日本国憲法の三大原則である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義が失われ、日本国民は地獄を見ることになります。あらゆることが強制化され、もう自由はありません。売国政治家と不法不良外国人とそれらに媚びへつらう矜持なき国民のみが生きる国と化します。

当然、信仰の自由も奪われることになり、聖書を手に入れることができなくなる可能性も大いにあり得ます。ですが、今、現時点では手に入れることが出来ます。ミカエル氏がブログ内で何度も説明されていますが、もうほんまに残された時間が少なくなってきました。この世の真実を知り、そして対策を講じるには聖書を読むことが必須です。なぜなら聖書にのみ、この世の真理が書かれているからです。聖書抜きにしてはこの世のことを理解することができません。そして聖書を読まれる気が起こりましたなら、是非ともミカエル氏の真の聖書福音と預言と共に併読していただきたいと思います。なぜなら聖書は初めて読む方に対しては難しく思われ、抽象的な表現も多く、理解するのに時間を要するからです。ミカエル氏の「真の聖書福音と預言」は、ネットによくある筆者主観による聖書解説ではなく、聖書にのみ依拠した解説となっており、また世の事象と照らし合わして書かれた矛盾のないものだからです。この大きく傾きかけた日本においては一刻も早くこれまでの生き方を悔い改める必要があるため、時間を有効利用するためにも聖書と共に「真の聖書福音と預言」を併読していってほしいと願います。しかし注意が必要なのは、凝り固まった頑なな心で読んでも意味がありません。これまでの常識を一旦横に置いていただき、素直な心で読んでいただきたいと思います。そして横に置いていた常識を読み進めるとともに、捨て去っていってほしいと思います。それほどこの世が欺瞞だらけの世の中であったと気づかれるはずです。準備していただくものはこの心と聖書代の数千円だけです。「真の聖書福音と預言」のブログも全て無料で公開されてますので、一切の費用はいりません。このことからも真の聖書福音は宗教ではないと、ご理解していただけると思います。世のキリスト教といわれている、カトリック、プロテスタント、正教会など多数ありますが、これらは全て聖書を利用した宗教です。宗教は人間が勝手に作り上げたものと私は認識しております。ですので、聖書はこの世の創造主なる神が人間のために残された、全ての人間が読むべき書物です。先ほどもお伝えしましたが、いずれは聖書を読むことも禁じられる可能性があります。この世の異常さ不条理、違和感に気づかれた方は、聖書を読み、これまでの生き方を悔い改めていただきたいと思います。そのような方が一人でもおられましたら幸いです。


最後までお読みいただきありがとうございました。