こんにちは。


表題について、私の考えを述べてみます。

今回のブログ内容は、世俗の宗教であるキリスト教の方々にとっては不快に思われるはずです。ですが、これまでの間違いを認め、考えを改めて、真の聖書福音に立ち返っていただきたいという思いから記事を書いていることをご理解いただければと思います。

この世の中には本や書物、書籍といったものがとてつもないほど数多く存在しています。なんとその総数は一億冊を超えているそうです。この一億を超える数のなか人間が書いたものではなく、神により間接的に記された書物は聖書(パウロ書簡は除く。※以降、聖書に対して全て該当)のみです。大袈裟な表現になりますが、それ以外の全ての書物は被造物である人間が考え、人間が記したものであるということです。為になる書籍はたくさんありますが、どちらを優先して読むべきかは明白です。

この聖書には人間が本来どのように生きていくべきなのかが書かれています。ですが聖書を読んだことがない自称無神論者の人たちや異教徒の人たちはもとより、キリスト教(カトリック、プロテスタント、正教会など多数)に属する人たちも、この聖書にのみ則った生き方をしている人たちはこの世にほぼ存在していません。世界には様々な宗教がありますが、どの宗教にも聖典や教典といわれるお手本にすべき書物があり、各信者はその聖典や教典を基にして信仰生活を送っていると私は思っております。ですが、私が一度目の聖書通読を終えた時に疑問に思ったことがあります。世にいうキリスト教の人たちが聖典としている書物は間違いなく聖書であると認識しているのですが、「キリスト教って聖書に書いてあること守ってへんな」と直感的に思いました。分かりやすい例えでいえば、私の地元に聖パウロの名のつく私立校があるのですが、校門や玄関にマリア像が複数置かれていた(高校の時に部活の試合で訪れていた)り、時々みかける教会には十字架があらゆる所に掲げられています。ですが聖書には「偶像を造ってはならない。彫像、石柱、あるいは石像を国内に建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたたちの神、主だからである。」(レビ記二十六章一節)とはっきりと、誰が読んでも分かりやすく書いてあります。それに、これも聖書を読まれたら分かることですが偶像禁止についての文言はこれだけではなく、あらゆる箇所に記載があります。複数回も記載するほど重要やということです。これほど分かりやすい彫像を造っても何も思わず、偶像崇拝にあたると気づかないのであれば、コロナワクチン接種などのワクチンや薬に頼りきることも偶像崇拝にあたるということに気づくことは決してないでしょう。私が無知の状態から聖書を読んだから、このように疑問に思うのでしょうか。決してそういうわけではないと思います。単純にキリスト教の方々が聖書をしっかりと読んでいないのか、それとも聖書よりも神父や牧師の言うことのほうが上位に来ているのか。私の周りに教会に通っているキリスト教の方がおられないので詳しくは分からないのですが、機会があるならば「なぜ聖書では禁止とされていることが散見されているのに、疑問に思わないのですか」と尋ねてみたいです。聖書とは全てのキリスト教の方々にとっては、どのように信仰生活を送ればよいかが記載された説明書のような役割も果たしていると思います。それやのになぜ聖書をしっかり読んだ上で、それをきちんと守らないのでしょうか。子どもの時、私はミニ四駆やガンダムや戦車などのプラモデルを作って遊んでいましたが、説明書を見てその通りに作っていました。説明書を見て作らないと正しく作れないですし、出来上がったと思っても部品が余っていたり、間違って組み付けていたりと不完全な状態になるからです。信仰においてもそれは同じで、説明書である聖書をしっかり読まずに、また誤解釈や私的解釈をして信仰生活を送ってもその先にあるのは空しく不完全な自分自身です。「人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」(マタイ十五章九節、マルコ七章七節)の通りで、聖書の教えを蔑ろにして被造物にすぎない人間である神父や牧師の言うことを守り通しても、主イエスからは遠く離れる一方です。創造主である神や主イエスを信仰するためにキリスト教徒になられたのであれば(本来は全人類がそうしなければならないのですが)、神父や牧師の言うことではなく、聖書にのみ依拠して信仰生活を送っていただきたいです。その際には、よくある私的解釈ではなく聖書にのみ依拠した解説がなされ、世の中の事象とも照らし合わされた説明がなされているミカエル氏がブログ管理人である真の聖書福音と預言を一から読まれることを強く勧めます。間違った聖書解釈をしてしまうと、神父や牧師などを信じてしまった誤りを二度も繰り返してしまうことになるからです。そしてなによりその間違った聖書解釈を鵜呑みにし広めることは、新たに偽福音を広めるという罪深きことになり、結果的に人々を真の聖書福音から散らす(マタイ十二章三十節、ルカ十一章二十三節)ことに無意識に加担してしまうからです。終末の世である現代において残された主イエスからの恩恵期間はもう残り少ないと思われます。それまでにこれまでの行いを悔い改める必要があります。ですが、悔い改めるためにまずは、どのように悔い改めるべきなのかを知らなければ話になりません。それが詳しく書かれているのが主イエスを信仰する者にとっての説明書である聖書にほかなりません。被造物である人間でしかない神父や牧師からは、どのように悔い改めるべきなのかを正しく知ることはできません。ですので、何度も言いますが聖書にのみ依拠していただきたいと思います。

そして自称無神論者の方々にも確認したいことがあります。当たり前のようにこの世に生まれて生活していると思うのですが、「人間はどうやって現れたか教えてください」と尋ねてみたいです。おそらく「海の中の微生物が進化して·····それが陸にあがり·····猿になって····」などと答えられる方が多いと思うのですが、自称無神論者の誰もが、聖書読者を納得させられる答えをだせないと思います。だいたい猿が人間になったという進化論は無理があります。教科書に載ってたからと何ら疑問に思わず"当たり前"の認識になっているだけです。よく考えてみてください。猿が人間になった。始点の猿は現在も普通に存在しており、終点の人間も存在しているのです。であるならば途中段階の猿から人間になりかけの存在もそこら中にいないとおかしいと思いませんか。例えばですが身体中が猿のような毛に覆われており、二足歩行で人間と少し会話もできるような存在です。テレビで時々ある未確認生物的な、ほぼ見ることのできないような存在ではなく、普通にこの地で我々人間と共存している存在としてです。もしこの世に猿がもう化石のみで存在していなくて、終点の人間しか存在していないのであれば、長い時間をかけてだんだんと猿が人間に進化し終えたと思えなくもないですが、実際のこの地には猿も人間もいるのですから進化論を唱えるのなら猿と人間の途中の存在がいないことにも言及していただかないと納得はできません。この進化論こそ、戦後の洗脳教育の代表的な一つであると考えます。なぜ進化論が真実であると洗脳する必要があったのかと言えば、聖書にはそのように書かれていないからです。聖書の始めも始め、創世記の二項目に進化論が否定されています。「地はそれぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」(創世記一章二十四節)とあります。この「それぞれ」には「ひとつひとつ」という意味があると辞書には書かれているので、この聖句の中では「一つの種属」と解釈することができると思います。要するにその種属はその種属として産まれ、進化したり退化したりして別の種属になることはないということです。そして人間にいたっては「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記一章二十七節)とあるように、猿から進化して人のかたちとなったなどとは決して書かれておらず、人間はもとから神に似せて人としてかたどられた特別な存在であるということです。だからこそ神は「極めて良かった。」(創世記一章三十一節)と仰ったのです。神御自身にかたどって創造された人間を、猿から進化した者であるなどと言うのは神への冒瀆であり、悪魔崇拝者の考えであることがよく分かります。この進化論が真実であると世界中に押し通そうとしていることからも、聖書がこの世の真理であることが全人類に知れ渡ってほしくないということの表れです。悪魔崇拝者である反キリストの者たちは、逆に聖書がこの世の真理であることを認めているようなものです。このことからも聖書がいかに宗教(被造物にすぎない人間が勝手につくったもの)ではなく、全人類が読み従うべきものであるかが伝わったのではないでしょうか。そうであるならば幸いです。



(画像引用元:HatenaBlog)


自称無神論者の方々にも聖書がこの世の真理であると、ほんの少しでも伝わっていることを前提として、世俗の宗教であるキリスト教の方々に対しても、この世の真理である聖書に書いてあることをなぜ守る必要があるのかを考えていきます。例えばある会社に入社したり学校に入学したとします。そうするとその会社であれば就業規則に、学校であれば校則を守ることが当然求められます(就業規則も校則も捏造された常識が基となっていることは今は別問題としてください。捏造された常識についてはミカエル氏の過去記事現代日本の常識は殆ど捏造されたものをご参照ください)。これに関しては皆さんに頷いていただけると思います。ではもっと範囲を大きくして我々人間は皆、この地上にて生活をしています。そしてこの天地を創造されたのは創造主である神やと聖書にあります(創世記一章)。これを先ほどの会社と学校の例に倣えると、この地上に生活する全ての人間はこの天地を創造された創造主である神の定められた決まり、所謂神の律法、掟、戒めを守ることが当然求められるわけです。しかしながら真の聖書福音は現時点では世界に広まっておらず、神の律法、掟、戒めは守られていないのが現状です。その結果が今の世の中です。神は報いをあたえるために悪魔やサタンが人間を利用し、この地で横暴するのを許可されることがあります(列王記下二十四章二節)。世界は悪魔を崇拝する支配層の好きなようにされ、それ以外の大衆は奴隷のように働き、支配層が豊かに暮らすためのお手伝いをさせられています。なぜそのようなことになってしまっているのか。答えは単純で会社と学校の話に戻すと、社員がその会社の就業規則を守らずに働いているのなら当然上司や社長からお叱りを受けます。学校でも煙草を吸ったり、髪を染めたりで校則を守っていなければ先生から注意を受けます。最悪の場合は解雇や退学をくらいます。これと同じで創造主である神が造られたこの地で、この地の規則である神の律法、掟、戒めを守っていなければ神よりその報いを受けるのは当然です。過去のイスラエルとユダの南北王国時代はそれが顕著にあらわれており、聖書の列王記と歴代誌にはその様子が複数回記録されております。その時の王が主の目に悪とされることを行っていれば、その王位は短い傾向にあり、国民の品性も荒れ、国も他国から攻められるなど悲惨な末路を辿っています。逆にその時の王が主の目にかなう正しいことを行っていれば王位は長く続いています。最終的に二つの南北の王たちは主の目に悪とされることを止めず、他国から攻められ捕囚となり、神に導かれたイスラエルの地から離散させられました。その離散させられた民の一部が日本列島に渡り(詳しくはミカエル氏の過去記事日本は多民族国家、日本人の一部は古代イスラエル人をご参照ください)、血は引き継がれ今もなお生き続けております。約二千七百年前に捕囚から逃れた民たちは、そのようになった原因は自分たちの神への不信仰が原因だと悟り、志高く日本列島をイザヤの預言(イザヤ書二十四章十四〜十六節)通りに目指したのやと思います。しかし堕落しやすい人間は時間が経ち、世代が変わっていく中で神への信仰は薄れていき、創造主である神の律法、掟、戒めは忘れ去られ他の神々(仏教や神道等)を拝むようになっていきました。要するに再度、この地で生きている上で守らなければいけない規則である神の律法、掟、戒めを守っていない状況になってしまったわけです。日本が過去の大東亜戦争において世界で唯一の被原爆国であるのも、現代において食品添加物の認可数が世界一(IN YOU journal)で癌患者数が世界の流れと逆行して増え続けている(現代ビジネス)のも、コロナワクチン接種率が世界一で治験が不十分な新たなレプリコンワクチンを日本人が試し打ちされる(アメブロ)のも、神への不信仰故の報いであると私は思っております。世界中が支配層の奴隷になっていますが、神の選民であった古代イスラエル民族の末裔である日本人に対しては、終末の世である現代においてよりいっそうの報いが向けられているのではないでしょうか。コヘレトの言葉一章九節にある「かつてあったことは、これからもあり かつて起こったことは、これからも起こる。」の通り、過去のイスラエル王国が他国からの侵攻によって崩壊し民が離散したように現代イスラエルである日本も同じ道を辿っているように思えます。


申命記 八章十九節

もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたに証言する。あなたたちは必ず滅びる。


こちらの聖句の通り、他の神々を崇拝(自称無神論者がお正月などに神社に参拝に行ったり、仏式の葬式に参列することも含む)し、今後もその状態が変わりそうにないことから、現代イスラエルである日本は滅亡から逃れることはできないのかもしれません。


主イエスを信仰して世俗のキリスト教に所属しておられるのであれば、天地創造時から存在される主イエスのことが預言され、人性をとられて地上に来られ人間を悔い改めに導き、人間の罪の贖いのために十字架によって犠牲になられ、再臨されるまでが記録された聖書を熟読し、この聖書のみに従うのが道理です。聖書にしてはいけないと書かれている偶像崇拝をしていたり、聖書に書かれていないクリスマスやイースター、ハロウィンなどを祝っていたり、聖書に書かれていないことを吹聴する神父や牧師が存在する諸教会からは今すぐ脱会し、これまでの生き方を悔い改めて聖書にのみ依拠した生き方を実践していっていただきたいと思います。自称聖書に詳しい被造物にすぎない人間に従いたいのか、世界最古の書物でありこの世の創造主によって遺された聖書の御言葉に従いたいのかを冷静に考えてみてください。


エゼキエル書 十八章三十〜三十二節

それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち返れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。


こちらの聖句は二年前に私が始めて聖書を読んだ際に、とても心に響いた聖句のひとつです。神からの人間に対する慈愛が感じられませんか。この部分に付箋を貼り時おり読み返しています。

長く世俗のキリスト教に所属されている方からすると、聖書を読み主イエスを信仰しだしてまだ日が浅い私にこんなことを言われるのは腹立たしいと重々承知していますが、どうか真実を見極め、かたくなになった心を捨て去り聖書と聖書にのみ依拠して書かれたブログ真の聖書福音と預言を併読して、主イエスに立ち返られる方が一人でもいらっしゃるならばとても幸いです。


最後までお読みいただきありがとうございます。