僕の『仏教談義』も、今回が最後です。
持てる知識を総動員して、
釈迦が掴んだ『悟り』に迫ってみたいと思います
般若心経により、悟りは誰にでも開ける事、
誰でも仏陀(仏)になれる事が解りました。
『天上天下唯我独尊』の通り、全ての人間は平等で対等な存在で、
同等の価値と可能性を持っているのです。
そもそも、悟りとは、自らを苦しみから救い出し、
安らかな精神状態に至るための知恵を指します。
この知恵は様々あり、
その何を遣って苦しみを消すかは、個人の自由です。
人それぞれのアプローチがあり、
つまり、人それぞれの悟りがあります。
その内容に優劣を付け、上下に階級分けする必要などありません。
だから、ただ安らかな精神状態さえ維持出来れば、
無理に難しい理論を学ぶ必要もないのです。
ただ、他人を悟りの道に誘うならば、理論は必要です。
それで、釈迦は様々な悟りを用い、
解りやすく噛み砕いて説明し、
より多くの人が安らかな境地に至れるように工夫しました。
それは、以下の通りです。
アドラー心理学と連動して説明します。
・『縁起』
アドラー心理学でいう『自己決定性』に当たります。
自分の身に起こる事は、過去の自分が原因になっています。
簡単にいえば、『自分の未来は自分が握っている』という事です。
人間の未来を決めるのは、「今現在の行動が全て」となります。
今、何か悩みがある場合は、
その悩みを消すために
「何をするか?」を考えるのが先決です。
環境や運や他人の言動に期待しても、何も解決しません。
自分の悩みは自分でしか解消出来ないのです。
もちろん、環境や他人に働き掛けて、
自分の希望に沿わせる事は出来ます。
しかし、他人にも『自己決定性』があるので、
上手くいかない事を当然だと捉えるべきでしょう。
起きた結果については、100%自分の課題だと受け容れて、
ただ、自分で出来る事をやるのみです。
自分を救えるのは自分しかいないのですから。
・『自分の思いが全て』
これも、自己決定性に付随する事です。
人間が行動するのは、自分で作った目的があるからです。
目的は、『どのように物事を認知するか?』、
によって、変わってきます。
悩みや苦しみは、環境や他人の言動にあるのではなく、
100%自分の認知で作り出したものなのです。
例えば、誰かに悪口をいわれた事に傷付いて悩んでいるとしましょう。
その場合、
「苦しみを作ったのは他人が発した悪口にある」と人は考えます。
でも、それは勘違いです。
苦しみとは、物事に対して精神が反応した結果に過ぎません。
外からやってくるものではなく、
100%自分が作り出したものなのです。
日々、多くの人々と関わって生きている僕らは、
様々な場面で、『嫌な事』、『厄介な事』、
『失敗』、『期待外れ』などに出くわします。
これらを、「苦しい」と感じるのは当然ですが、
悩み事となるか、どうかは、自分次第です。
つまり、気にするから苦しむのであり、気にしなければ、
そこでお仕舞いとなります。
悩みも苦しみも、今現在の認知によって作られています。
だから、「どうって事ないね」、
「まあ、いいか」、と認知して手放せば、即刻解決するのです。
苦しみの大半は、物事を大きく捉え過ぎる事によって生まれます。
嫌な事には「囚われない」、
「意識しない」、「気にしない」を心掛けるべきですね。
逆に、良い事には、大きく意識を向けるべきでしょう。
そもそも、『良い事』、『悪い事』は、外にあるのではなく、
100%自分の認知が作り出したものです。
良い事は、「良い」と思うだけで、いくらでも出てきます。
やはり、自分の思いこそが全てなのです。
・『欲望の制御』
仏教では、人間には108の煩悩があるとされています。
この中でも、『食欲』、『性欲』、『自己承認欲』などは、
生まれつき具わった本能に当たります。
「食べたい」、「異性が欲しい」という欲望を充たすと、
誰もが満足します。
そして、味覚や性感の快楽がオマケとして付いてきますね。
「腹が空く」→「食べたい」→「美味しい」
→「満足」という流れは、
もはや、自らの認知で左右出来るものではありません。
「食べたいけど食べない」というのは可能ですが、
お腹が空いてるのに「食べたくない」とか、
美味しいのに「美味しくない」などと認知するには、無理があります。
このように、人間が持つ本能を否定する事は、不可能なのです。
ただ、コントロールする事は出来ます。
食べたくても、食べられない状況ならば、
意識を他に向ける事で苦しまずに済みます。
また、健康のために痩せたいならば、
ダイエットの知識を得て、継続する意志があれば、
目的は達成出来ますね。
「食べたい」という欲求に対し「痩せたい」、「健康になりたい」、
持てる知識を総動員して、
釈迦が掴んだ『悟り』に迫ってみたいと思います
般若心経により、悟りは誰にでも開ける事、
誰でも仏陀(仏)になれる事が解りました。
『天上天下唯我独尊』の通り、全ての人間は平等で対等な存在で、
同等の価値と可能性を持っているのです。
そもそも、悟りとは、自らを苦しみから救い出し、
安らかな精神状態に至るための知恵を指します。
この知恵は様々あり、
その何を遣って苦しみを消すかは、個人の自由です。
人それぞれのアプローチがあり、
つまり、人それぞれの悟りがあります。
その内容に優劣を付け、上下に階級分けする必要などありません。
だから、ただ安らかな精神状態さえ維持出来れば、
無理に難しい理論を学ぶ必要もないのです。
ただ、他人を悟りの道に誘うならば、理論は必要です。
それで、釈迦は様々な悟りを用い、
解りやすく噛み砕いて説明し、
より多くの人が安らかな境地に至れるように工夫しました。
それは、以下の通りです。
アドラー心理学と連動して説明します。
・『縁起』
アドラー心理学でいう『自己決定性』に当たります。
自分の身に起こる事は、過去の自分が原因になっています。
簡単にいえば、『自分の未来は自分が握っている』という事です。
人間の未来を決めるのは、「今現在の行動が全て」となります。
今、何か悩みがある場合は、
その悩みを消すために
「何をするか?」を考えるのが先決です。
環境や運や他人の言動に期待しても、何も解決しません。
自分の悩みは自分でしか解消出来ないのです。
もちろん、環境や他人に働き掛けて、
自分の希望に沿わせる事は出来ます。
しかし、他人にも『自己決定性』があるので、
上手くいかない事を当然だと捉えるべきでしょう。
起きた結果については、100%自分の課題だと受け容れて、
ただ、自分で出来る事をやるのみです。
自分を救えるのは自分しかいないのですから。
・『自分の思いが全て』
これも、自己決定性に付随する事です。
人間が行動するのは、自分で作った目的があるからです。
目的は、『どのように物事を認知するか?』、
によって、変わってきます。
悩みや苦しみは、環境や他人の言動にあるのではなく、
100%自分の認知で作り出したものなのです。
例えば、誰かに悪口をいわれた事に傷付いて悩んでいるとしましょう。
その場合、
「苦しみを作ったのは他人が発した悪口にある」と人は考えます。
でも、それは勘違いです。
苦しみとは、物事に対して精神が反応した結果に過ぎません。
外からやってくるものではなく、
100%自分が作り出したものなのです。
日々、多くの人々と関わって生きている僕らは、
様々な場面で、『嫌な事』、『厄介な事』、
『失敗』、『期待外れ』などに出くわします。
これらを、「苦しい」と感じるのは当然ですが、
悩み事となるか、どうかは、自分次第です。
つまり、気にするから苦しむのであり、気にしなければ、
そこでお仕舞いとなります。
悩みも苦しみも、今現在の認知によって作られています。
だから、「どうって事ないね」、
「まあ、いいか」、と認知して手放せば、即刻解決するのです。
苦しみの大半は、物事を大きく捉え過ぎる事によって生まれます。
嫌な事には「囚われない」、
「意識しない」、「気にしない」を心掛けるべきですね。
逆に、良い事には、大きく意識を向けるべきでしょう。
そもそも、『良い事』、『悪い事』は、外にあるのではなく、
100%自分の認知が作り出したものです。
良い事は、「良い」と思うだけで、いくらでも出てきます。
やはり、自分の思いこそが全てなのです。
・『欲望の制御』
仏教では、人間には108の煩悩があるとされています。
この中でも、『食欲』、『性欲』、『自己承認欲』などは、
生まれつき具わった本能に当たります。
「食べたい」、「異性が欲しい」という欲望を充たすと、
誰もが満足します。
そして、味覚や性感の快楽がオマケとして付いてきますね。
「腹が空く」→「食べたい」→「美味しい」
→「満足」という流れは、
もはや、自らの認知で左右出来るものではありません。
「食べたいけど食べない」というのは可能ですが、
お腹が空いてるのに「食べたくない」とか、
美味しいのに「美味しくない」などと認知するには、無理があります。
このように、人間が持つ本能を否定する事は、不可能なのです。
ただ、コントロールする事は出来ます。
食べたくても、食べられない状況ならば、
意識を他に向ける事で苦しまずに済みます。
また、健康のために痩せたいならば、
ダイエットの知識を得て、継続する意志があれば、
目的は達成出来ますね。
「食べたい」という欲求に対し「痩せたい」、「健康になりたい」、
という欲求を相克させれば、本能に打ち克つ事も出来ます。
つまり、煩悩は、知恵や他の欲求によってコントロール出来る訳です。
食欲だけでなく、
人間の煩悩はたくさんあります。
『嫉妬』、『支配欲』『権力欲』『自己顕示欲』など、
これらも、自ら工夫する事で上手く操作出来るようになれます。
それが、出来るようになれば、
人生の苦しみは大幅に減るでしょう。
・『愛と布施』
これは、まさにアドラーの共同体感覚に当たります。
共同体感覚とは、他人に関心を持つ事をいいます。
人間が苦しむのは、物事を自分中心に考えるからで
つまり、自分の事だけで精一杯だからです。
ここから抜け出すには、自ら、精神的に自立するしかありません。
そのために、先ほど挙げた『自己決定性』や
『欲望の克服』がある訳です。
また、自分にしか関心がない苦しみは、
例え、精神が自立しなくても、
他人に意識を向けるだけで和らぎます。
多くの場合、自分にしか関心がないのは、
気持ちが充たされていないからです。
その場合、逆に他人を充たして上げる事が大きな解決策になります。
他人に施し(布施~与える)、他人の役に立てば、
自分が周囲から必要とされている事を感じます。
そうなれば、
『充たされない自分』に意識を向ける必要はなくなりますね。
他人の役に立つ歓びを知れば、心は確実に充たされます。
まずは、他人に関心を持つ事です。
意識を外に向ければ、もはや苦しむ暇もなくなります。
人間の苦しみは、自分に意識を向け過ぎる事で生まれるのですから。
以上、簡単にまとめました。
理屈で示すのは簡単ですが、いざ実践するのは難しいですね
やはり、安らかな境地を手に入れるのは、そう簡単にはいきません。
でも、そのための方法は既に明らかになっています。
後は、本人次第です。
自分を変えるか、今のままでいるか?
変えたいならば少しずつで構いません。
少しずつでも変化していけば、
人生は少しずつ楽なものになっていくでしょう
今回で、仏教カテゴリーは終了となります。
また、何かあれば加筆する事があるかも知れません。
興味があれば、他のカテゴリーもご覧ください。
読めば、何かしら、役に立つ情報があるかも知れません
つまり、煩悩は、知恵や他の欲求によってコントロール出来る訳です。
食欲だけでなく、
人間の煩悩はたくさんあります。
『嫉妬』、『支配欲』『権力欲』『自己顕示欲』など、
これらも、自ら工夫する事で上手く操作出来るようになれます。
それが、出来るようになれば、
人生の苦しみは大幅に減るでしょう。
・『愛と布施』
これは、まさにアドラーの共同体感覚に当たります。
共同体感覚とは、他人に関心を持つ事をいいます。
人間が苦しむのは、物事を自分中心に考えるからで
つまり、自分の事だけで精一杯だからです。
ここから抜け出すには、自ら、精神的に自立するしかありません。
そのために、先ほど挙げた『自己決定性』や
『欲望の克服』がある訳です。
また、自分にしか関心がない苦しみは、
例え、精神が自立しなくても、
他人に意識を向けるだけで和らぎます。
多くの場合、自分にしか関心がないのは、
気持ちが充たされていないからです。
その場合、逆に他人を充たして上げる事が大きな解決策になります。
他人に施し(布施~与える)、他人の役に立てば、
自分が周囲から必要とされている事を感じます。
そうなれば、
『充たされない自分』に意識を向ける必要はなくなりますね。
他人の役に立つ歓びを知れば、心は確実に充たされます。
まずは、他人に関心を持つ事です。
意識を外に向ければ、もはや苦しむ暇もなくなります。
人間の苦しみは、自分に意識を向け過ぎる事で生まれるのですから。
以上、簡単にまとめました。
理屈で示すのは簡単ですが、いざ実践するのは難しいですね
やはり、安らかな境地を手に入れるのは、そう簡単にはいきません。
でも、そのための方法は既に明らかになっています。
後は、本人次第です。
自分を変えるか、今のままでいるか?
変えたいならば少しずつで構いません。
少しずつでも変化していけば、
人生は少しずつ楽なものになっていくでしょう
今回で、仏教カテゴリーは終了となります。
また、何かあれば加筆する事があるかも知れません。
興味があれば、他のカテゴリーもご覧ください。
読めば、何かしら、役に立つ情報があるかも知れません