新時代の潮流2.【融合と共有】 | 始まりはアドラー心理学

始まりはアドラー心理学

より、楽しい日々を送るために、
より、ハッピーな人生を過ごすためには、
どうすればいいのでしょうか?
そのための方法論や実践論を考えています。
ちょっと難しい内容かも知れませんが、
みなさんのお役に立てるような情報を伝えていきたいと思います。

前回は、新しい時代の到来と、新しい価値観について語りました。
その中心となるのは、
他ならぬアドラー心理学だと、僕は予感しています。

アドラー心理学は、何もないところから突然現れた訳ではありません。
アドラー心理学的な思想や哲学は、
遥か昔から既に存在しています。

アドラー心理学を見ると、古代インドの釈迦や、
古代ローマのエピクロスの影響を強く感じます。
アドラーが、これらを学んでいたかどうかは解りませんが、
過去の遺産から、何かしらヒントを得ていたのは
間違いないと思います。

人間が何か新しいものを作る時、
必ず他人(過去)からヒントを得ています。
釈迦やソクラテスも、先人の知恵から学び、 
この一部を継承しつつ、新しい理論を作り上げたはずです。
そして、釈迦やソクラテスも、
後世の人たちに影響を与え続けています。

近代から現代を見ても、
アドラー心理学に近いものはたくさんあります。
自己啓発著作のベストセラーを生んだ、『S・R・コヴィー』、
『D・カーネギー』、『W・ダイアー』、『R・カールソン』らが、
直接、または間接的に、アドラー心理学に触れていたのは
間違いないと思います。

以上で挙げた人たちには、共通点があります。 
それは、この世界を動かしている普遍の法則や、
人間が幸せに生きるための方法を追究した点です。
彼らが追究したのは、
誰もが知りたがる人類共通のテーマといえます。
ならば、全ての人間が共有する『人類の常識』にならなければ、
あまりにも勿体ないでしょう。
インテリ層にしか解らないような難解な学問にしたり、
特定の団体を作って、
一部だけで独占するような事は、すべきではないと思います。

例えば、仏教を研究する人、または人々に伝える人は大勢いますが、
それぞれ派閥を作ったり、いくつもの宗派に分かれているのは
いかがなものでしょうか?
「自分が正しい」、「自分が本流」、「自分以外は偽物」、
などといって互いに批判し合うのは本末転倒だと思います。
過去の遺産を研究するのも、
その伝統を護ろうとするのも、素晴らしい事ではありますが、 
それらを自分のステイタスにしたり、
ビジネスに利用するだけでは、
せっかくの知恵が宝の持ち腐れになってしまいます。

そもそも、ソクラテスや釈迦、そしてアドラーらは、
売名や金儲けが目的だった訳ではなく、
人々に知識や理論を提供し、
地域や社会に貢献しようという意識を持って活動していたはずです。

特にアドラーは、「自分の名は忘れ去られても構わない、
いずれ、心理学の分野で働く全ての人が、
共に学んだかのように行動するようになるはずだから…」、
…などといっていました。
現に、他の心理学者や思想家に真似されたり、
利用されたりしていたそうですが、
全く気にしてなかったとの事です。

現代人は、カテゴリーやレッテルに拘り過ぎだと思います。
枠に拘らず、型に填まらず、外に意識を向けて、
良いものは参考にし、また受け容れて、
柔軟に考えるべきです。
それぞれの学門や思想に携わる人たちは、
互いに意見を交換し合い、協力し合い、
より一般人に解りやすく、
より実践的なものを
提供して欲しいと思います。

もちろん、僕は、そういう主旨で、このブログを開設しました。
ジャンルや垣根を越え、良いものはどんどん取り入れ、
それぞれを関連させながら、
解りやすく伝えていきたいと思っています。